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20/22

番外編 この海が雨になって降り注ぐなら、傘なんて忘れて、裸足で歩いて。 Ⅰ

ここまで読んでくださってありがとうございました!


番外編が三話あります。先に『梅雨、未完成。』を読んでくださると嬉しいです。しっかりと全てのネタバレがあります。ネタバレを気にしないという方も、梅雨の後にこちらに戻ってきてくださると、私がちょっとだけ高く飛び跳ねます。

また、梅雨の続編の「暁光」ですが、もうちょっとで書き終えるので推敲終わり次第カクヨムと同時に公開します。良かったらそちらもぜひ~




 大学二年の三月。桜が舞っていた。

 まだ少し寒いけれど、やっぱり春だな、と思う。

 自分が好きな季節。自分の友人に、生きる桜を渡せた季節。

 

 あれから、「有栖川」と呼ぶ穏やかな声は「真琴」に、「朝日奈」と目を細めて笑う声は「葵月」に変わった。

 理工学部二年の自分と、美術学部三年の彼は、お互いに迷って、選んで、生きていた。

 


 少人数で実験の講義を終え、彼に連絡を入れる。多分メッセージは見ないだろうけれど、と思いながら、鞄を肩にかけて教室を出た。彼はDMがうるさいから、と言って電話以外の連絡を殆ど取らなくなった。


 少しずつ物理や数学を共に受けるようになるのが板についてきたな、と思う。少しずつ彼は以前のように笑うようになった。物理学の授業でシャーペンを回しながら適当に聞いていたり、たまに外に出るようになった、と話す事が増えた。しかし、寂しかった。本当なら、彼は今も、自分とは違う場所で絵を描いているはずだった。



***



 朝日奈葵月は、多分、人生の全てが絵だった。だから、彼は、絵を積み上げたそれらを努力だと思っていない。挫折もない。ただ、描くだけ。描き続けたら、藝大という場所に居ただけ。世間はそれを才能と呼んで、藝大に現役で受かった彼はきっと天才で、底知れない絵への熱すらもうまく見えない程の冷めた雰囲気が、余計にそれを助長していた。


 ただ、筆を持つときに少しだけ目に色が増える。自分は、それを、知っている。

 だから、彼は天才でもなんでもなくて、ただの一人の人間だった。



 盗作。

 言葉にするとたった二文字のそれは、本当に盗作なのか、オマージュのつもりなのか、悪意なのか、何もかもわからなかった。東京藝大という、自分の才能を信じてやまない学生が集まる環境なのも相まって、丁度一年前の春、彼はただ、自分の作品が殺されるのを何もできずに見ていた。


 病院に行くからその日は忙しい、という言葉を彼から聞いた。その時は深く追求しなかったが、体調を崩したのだろうなと思っていた。一年の時は特に、起きる時間の殆どを絵に費やしていた事を知っていたのもあって、たまたま時間がある時に、様子見も兼ねて彼の家に遊びに行った日のことだった。


『……まだ言わない。俺が朝日奈を名乗っている今なら、まだ、あの人も引き返せる』

 

 盗作されてる、たぶん。

 苦々しく彼はそう言って、彼への冒涜を告発しない事を選んだ。一つずつ、穏やかに殺されていく自分の作品を見て、彼が何を思って何を決めたのかはわからないけれど、それでも、彼は待つ事を選んだ。

 備忘録。彼が言葉で人に伝えられなかったものを、絵という媒体で記録した、小(・)鳥(・)遊(・)葵(・)月(・)の言葉たち。

 それを盗られて、しかし「まだ待つ」と言う。自分にその選択はきっとできない。できないけれど、彼はそれを選ぶしかなかった。


『大学院には行けない。画家にもなれない。親のところに戻るよう言われてるから、俺の人生は大学四年で終わり。休学の選択がないから、辞めて家に戻るか、黙って残り二年絵を描くかの二択』


『家族と縁を切る選択は?』


『あるし、そうしたいけど、妹の面倒を見てやれる人がいない。まだ時間がかかる』


『盗作してる人は何て言ってるの?』


『DMで凄い褒めてくる、多分、ちょっと憧れられすぎてるんだと思う。多少狂ってないと油画なんかやれないから、それが悪い方に行ったかな。待つよ、まだ、戻れるから。小鳥遊葵月の名義で細々と記録残してる絵を盗られてるから、暫くは見つからない。だから、まだあの人も戻れる』


 彼は、話はこれで終わりと言わんばかりに「酒飲もうよ」と笑った。

 彼が待つと言うのなら、自分はそれを否定できない。それが、家庭環境のせいで身動きが取れない状態の選択なのだと知ってしまったから、尚更。

 土砂降りの雨の中、傘を持たずに歩く彼に、自分は手を差し出せない。それが痛かった。けれど、「気にしないでいいよ、俺、幸せだから」と彼は言う。何が幸せなのか、わからなかった。それでも彼は、「春が綺麗なんだよ。俺の大嫌いな春が、お前のおかげで、ずっと綺麗なの」と笑った。机の端に置かれた抗うつ薬と睡眠薬が、全てを物語っていた。

 


 それから彼は、藝大の授業を最低限にして、殆ど家の中で過ごすようになった。一日中カーテンが閉じられたままの部屋で、毎晩のように酒を喉に流し込み、筆を持っては下ろした。目を伏せる回数が多くなった。返答までに常に一拍時間がかかるようになり、文面での連絡を見なくなった。自販機の前で迷ってから、水を選ぶようになった。


『絵は嫌じゃないよ、俺の世界だから。藝大で描くのは怖いけれど、なんとかやれてる。ただ、『帰雁』が盗られたら。……あの人も絵を愛してここまできてるはずで、でも俺、絵で、あの人の人生を壊せると思う。絶望させるために、復讐のために、筆を取れる。俺なら出来る。だから、それが怖い。そうやって人の人生を終わらせるために絵を使う事が怖い。でも、いつかやってしまう気がする。だって『帰雁』は、俺の一番大切な記録だから』


 彼が自分に心を許しているから話しているのか、それとも酒に溺れて半ば無意識のように語っているのかはわからなかったけれど、彼は「怖い」と言った。どこまでも迷って、出来るだけ人を壊さないように生きている。それが小鳥遊葵月だった。


『……真琴、』


 深夜、彼は真っ直ぐにこちらを見て問いかけた。

 暗い色の瞳の中、真っ直ぐにこちらを射抜いて、泣きそうになりながら、口角を上げて。

 

 それは、彼の初めての「助けてほしい」だった。小鳥遊葵月は、もうどうしようもない事を謝らなければ、語る事もしない。終わった事を悔やんでも何にもならない事を知っている。

 その上で、彼は訊いた。自分がそれに答えられないとわかっていて、それでも訊いた。答えを求めているというよりも、どうしようもなくなったものが溢れたような声で。


『どうしたら良かったと思う?』


 彼はきっと、傘を持てない。

 傘を持って歩いた拍子に、誰かの瞳を抉る事を恐れている。だから、雨が止むのを待っている。ずっと。


 例えそれが、止むことのない未完の雨だったとしても。



『……俺の大学、来なよ。体調が良い日だけでいいから。人多い授業だと絶対気付かれない。友達もやってる。家にいるより良いでしょ。明日の三限、大講義室ね』


 どうするかは彼が決めれば良いと思った。だけれど、彼に選ばせないようにした。先に予定を置いて、決断の回数を減らす。

 自分に出来ることは、これだけだった。しかし、それが彼の世界を、一つずつこちら側に戻す手順だった。

 高二の冬、自分の世界を、彼がこちら側に戻したように。浪人した一年、どうしようもない苦しさを吐露した自分を、見捨てなかったように。



***



『才能ってあると思う?』


 彼はやはり迷っていて、それは、迷いというよりも、崩壊に近かった。

 たまに物理や数学の講義を共に受けるようになったが、それでも、盗作はゆっくりと彼を蝕んでいた。それが、どこか彼の母親と重なった。どこかこの世のものでは無いような退廃的な雰囲気。同じだった。

 彼は、高校の時に自分が問いかけた質問を、今度は訊いた。


『ないよ、お前が俺に言ったんだろ』


『そうだったっけ』


『そうやって言われたの? 誰に?』


『色んな人』


 投げやりに彼はそう答えた。何かを諦めたような声色で。

 才能。確かに彼を知らない人はそう見えるのかも知れないし、実際高校時代の朝日奈葵月はびっくりするほどに絵が上手かった。もしかしたら本当に神に与えられた何かなのかも知れない。それくらい、ずっと冷静で、丁寧で、精巧な絵だった。何を言われても受け流し、文字通り絵にしか興味のないような振る舞いが、より才能という言葉を裏付ける事にもなっていた。

 しかし、それが彼を何一つわかっていない事を、少なくとも自分は知っている。


『葵月、お前は俺の友達で、俺よりちょっとだけ絵が上手い。それだけ。自惚れるなよ、ちょっとだけだからな』


 彼はそれを聞いて、目を見開いて瞬きした。やっと目が合った、と思った。


『同じくらいの俺も絵は上手いけど、お前が沢山絵を描いている事は事実だから、その分、ちょっとだけお前の方が上手い。それだけ』


 これが彼を救えるのかはわからなかった。わからなかったけれど、自分にできる全てだった。


『……ほんとに? ほんとに、そう思う?』


『絵が上手いとか、才能だとか、俺はそれを見て友達やってないよ。お前が俺をそうやって見なかったように、俺もそうやってお前を見ない』


 わかりやすいな、と思う。少しだけ青が滲む瞳が、弱く揺れていた。

 彼が例えどれほどの肩書きを背負わされても、それが不本意なものだとしても、自分にとって、小鳥遊葵月はただの同級生で、初めての友達以外の何者でもなかった。


『お前はずっと朝日奈葵月で、俺の肩書きを使わなかった初めての友達でしかない。それで、そのお前が自分のこと、小鳥遊葵月でありたいって言うなら、俺にとってお前は小鳥遊葵月以外の何者でもないよ。一見無愛想なのに、思ったより感情が顔に出て、冬が好きで、ただそれだけ』


 彼は、人を救える言葉を持っているのに、それを自分に渡さない。渡さないのか、渡し方を知らないのかはわからなかった。

 それが彼の生き方で、それを変える手段は自分にはなかった。だけれど、彼に貰った言葉を、こちらからも送り返そうと思った。



***



 いつもの待ち合わせ場所として使っている大学の噴水が前方に見えたが、葵月はいなかった。

 おかしいな、と思いつつ念のためスマホを確認する。珍しい事に、正門前にいる、とメッセージが来ていたので、言われた通り正門まで向かう事にした。

 

 軽く歩くと、正門の横で薄手のコートを見に纏った彼を見つけた。黒系統の服を好むのは変わっていなくて、それがどこか嬉しかった。服に色があると絵の事を考えだしてしまうから、という理由で、彼は殆ど鮮やかな物を着ない。その割に服のセンスは良く、無彩色ながらに様になっているのが何とも彼らしかった。


「葵月」


 彼がこちらを振り向く。以前よりも顔色が良くはあったが、どこか迷っている顔だった。「なんかあったの?」と世間話のついでに訊く。


「いや……、なんかあったというか、あったんだけど」


 はぐらかしたいようでもなく、ただ何と説明すれば良いのかわからない、といった声色に、相槌を打ちながら軽く首を傾げる。


「真琴、建築学科の一年に、知り合いっている?」


「そりゃあ勿論。新歓とかで一通り話したりして、仲良い後輩もいるよ。なに、話しかけられたりしたの?」


 彼は少し黙ってから、微妙そうに続ける。何がそんなに戸惑いを生んでいるのかはよくわからなかった。


「いや、話しかけた。俺が」


「良いじゃん、友達とか作れるんじゃない?」


「凄い見られてたから、入学前の下見か何かで迷ったのかと思って。でも一年だった」


「それで?」


「大学聞かれたから藝大三年ですって答えたら、絵に興味がありますって言われて」


「興味無いだろそれ、何だその取ってつけたような会話は」


 軽く笑いながら返答する。自分も去年新歓で学科の女子から連絡先を大量に聞かれたな、と思い出した。彼を数年見てきているのであまり気にした事もないが、美大生というよりも雑誌のモデルと言われた方がしっくりくる程には整った風貌をしている。大方連絡先を聞かれただとか、その手の話なのだろう。嘘を吐かない故に、影でそこそこの数の女の子を泣かせてきている。


「俺もそう思ったんだけど、やけに真っ直ぐこっちを見てくるから、なんか、調子狂うというか」


「なんか意外だね、そういうのバッサリ切るのに。お前好みの超可愛い子だったの?」


 それも悪くないな、と思う。彼をこんなにも困らせるのが色恋沙汰だったとは、と微かに驚きつつも、少しずつ居場所が増えているなら嬉しかった。素直そうな子がタイプだったのか、と悦に入りながら隣を見る。彼は軽く首を傾げてから、穏やかに笑った。


「ああごめん、相手、男」


「いや、葵月。まだ早い。落ち着け、恋愛に性別は関係ないから。同性と付き合ってる友達の女の子から相談受けてた過去があるから大丈夫、俺そういうのは理解ある」


「あはは、なんだよその配慮。落ち着くのはお前。俺、人を好きにならないから恋愛沙汰は出てこないよ」


「黄色い声に一切靡かなかったお前がやっと恋愛に目覚めたのかと思って、俺は今から追求を楽しみにしてたのに? なんでよ、超可愛くて性格も良い子がいるかもしれないじゃん」


 じゃあ一体なんでそんなにも迷っているんだ、と軽く横を睨む。彼はそれを、人を好きにならないのは何故か、という抗議に捉えたらしく、軽く笑って答えた。


「俺、好きな人が人間じゃないの」


「へえ、お前でも落とせない相手、好きになっちゃったんだ」


「そう、ルーブル美術館のダリュ階段の踊り場で数百年生きてる」


「思想が芸術家すぎる」


「あはは、あれよりもきれいなひとを見ることはないだろうからね。俺の事好きになってくれたらいいのに。そしたら俺の残りの人生あげるから、隣にいてって言えるのにな」


 冗談とも本心とも取れそうな声色で彼は続けた。だけれど、多分本心なのだろうな、と思う。小鳥遊葵月は不必要に嘘をつかない。

 腕と首のない女神像を思い出しながら相槌を打った。サモトラケのニケ。船に降り立った、勝利の女神。  


 さらりと彫刻が好きだと告白した事に特に何か思うことがあったわけではないが、道理で数々の女の子を泣かせてきたわけだ、と納得した。そして、それでいてあくまで隣に居てくれたらいい、という淡白さが、彼らしかった。求めない、ただ、待つ。


 同じヘレニズム期を代表する彫刻、ミロのヴィーナスはどうなのだろう、ともう少し深堀りしたいような気もしたが、「へえ」と頷いてから、話を戻すことにした。


「それで、その俺の後輩がどうしたわけ?」


 彼はそれを聞いて、「ああ」と呟いてから、少し迷う素振りを見せた。


「……名前、訊かれて」


「うん」


「小鳥遊葵月ですって、言ってしまった」


 彼の迷いの理由がわかって一人で納得した。

 自分がどうしてそう言ったのかわからない、と言った顔だった。

 小鳥遊葵月の心中はきっと何もかも掻き乱されていて、その中で何かを選んで、少しずつ進んで行く途中だった。


「良いんじゃないの、お前がそうありたいなら」


「……嘘でも?」


「その時になったら言えばいい、今じゃなくていい。大体、俺が今、本当の名字は有栖川じゃないって言ったとして、お前は怒る?」


「いや」


「じゃあ、そういうことだよ」


 彼はそのまま、小さく「そっか」と溢した。少しだけ柔らかい声だった。それが嬉しかった。



 どうか、自分を責めないで欲しかった。どうか、きれいな絵を描くその筆を、折らないでいて欲しかった。

 傘を持てない彼に、自分は何も手渡せない。

 「絵を辞めないでほしい」も、「盗作を告発しても構わない」も、何も渡せない。言う資格がない。


 だから、一つでも幸せな出会いが彼にあればいい、と思う。

 例え、何も渡せなくとも、彼の幸せを願っている。それは、変わらない。


「葵月、海行こう」


「いつ?」


 その場で思いついたかのように誘う自分の声色に、訝しげに彼は問う。

 答えはいらなかった。これは約束でも何でもない、ただの言葉だった。


「……台風の日が良いね。土砂降りの中、裸足で馬鹿やって遊ぼうよ」



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