鯨は青藍を生きていく。
四月。私立大学の理工学部に入学し、数週間が経った。
自分の方が一つ年上だという事実は少し気恥ずかしかったが、思ったよりも学生生活は上手く回りそうだった。
理工学部一年の有栖川真琴が、東京藝大を目指して絵を積み上げた事も、かつてはムードメーカーの肩書きを持っていた事も、名前を呼ばれずに亡くなった姉がいる事も、何も周りは知らない。当たり前の話だった。
四月中旬。夜九時の東京。様々な色に照らされた居酒屋の前で、朝日奈葵月は待っていた。
もう言わなくても良かった。自分の名前は有栖川真琴で、それが例え姉の名前だったとしても、彼はずっと自分を有栖川真琴と呼んだ。それだけが、事実だった。
それでも、言おうと思った。姉が死んだ事は物語になったけれど、真琴という名前が姉のものであった事は物語にならなかった。だから、正しいことを記録にする必要はもうなかったけれど、彼が、肩書きのない「有栖川真琴」を呼び続けた事がどれほど自分を救ったのかを、伝えたかった。
居酒屋の個室で、ビールを手に取り「まっず、なにこれ」と顔を顰める自分を見て、彼は楽しそうに笑っている。
「慣れたらいける、まだ子供の舌なんじゃないの?」
「うわ、大学二年の煽りだ。腹いせに意味わかんない量のオレンジジュースでも頼んでやろうかな、勿論お前の奢りで」
高二の春からの三年間で、無表情だった彼は楽しそうに笑うようになり、常に何らかの表情を顔に貼っていた自分は、それをしなくて良いことを覚えた。
しかし、意見交換だった会話の根底はずっと変わらないままだった。肩につくくらいまで伸びた彼の髪も、存在感のあるピアスが目立つ自分の両耳も、互いの好みではなかったが、茶化して楽しんでいた。「美大生の癖にセンスが足りない、お前も髪染めろ、金髪とかどうよ」「お前のその感性、本当に嫌だ、何ならそのピアスも気に入らない」「これかっこいいって。おしゃれをわかってないわ、出直しな」
何だか面白かった。高二の時、「俺の趣味じゃないけど有栖川なら似合うんじゃない」と笑いながら言葉を選んでいた彼は、段々とそれをしなくなった。それは多分、有栖川真琴が相手だから言える言葉の強さで、根底に親愛と尊敬がある会話への信頼だった。
「これを聞いて欲しくて、呼んだ訳なんだけどさ」
頃合いを見てそう切り出す。彼は一度手を止め、こちらを見た。いくら適当な軽口を言い合う仲になっても、こういう所を彼は外さない。
一つずつ、彼に伝えた。名前のこと、肩書きのこと、ずっと朝日奈葵月に、救われていたこと。
彼の背景を何も知らないし、自分は彼に手を差し伸べられるほどの何かを持っているわけではなくて、それが少しだけ寂しいけれど、彼の絵をずっときれいだと思っていて、朝日奈葵月の幸せを願っていること。それだけは、事実であること。
酒の勢いもあったけれど、全部本心だった。たった一人の、初めての友達に、親愛と尊敬を伝えた。
「……逆だと思うけどな、だって俺、もう水がなくても迷わない」
彼はそれを聞いてから、一言、そう伝えた。どういう意味かわからず、彼の言葉を待つ。こんな話してもどうしようもないけど、と彼は呟いた。
それは、初めて彼が自分に「訊いた」瞬間だった。訊くという形ではなく、ただの独白だったけれど、それでも、数学教師に怒られた後の「ごめん、多分、出来ない」を、三年越しに話した。
彼が誰からも壊されないように記録にし、家族を物語にしないために黙り続けて、きっと「死のうかと思うくらい苦しかった」事を。
そこには、『帰雁』という名前が付いていた。彼が犀川先生に、「絶対に公的なものにはしない」と言った、花を持たない一枚の絵画。
「何かを選んだら何かを捨てる気がして、それが怖くて、人と話せなかったんだよね。絵以外の事を選ぶのがまともに出来なくて、親とも殆ど会話しなかった。生きてるうちにある程度決められるようにはなったけど、特に自由に選んでいいものが、うまくできなくて」
何かが腑に落ちた。何かを捨てるのが怖いというのは、自分と同じだった。他人から頼られるのを断るのが怖かった。人を無碍に扱いたくなかったから、綻びを摘んで、余計な亀裂を生まないように生きていた。
自分は嘘を吐き続ける事で、彼は何も言わない事で、それぞれ、何かを壊さないようにしていた。
「今もちゃんと選べない。本当にどうでもいい事で止まって、意味がわからないところで急に決めたりする。自販機で何も選べなくて止まったけれど、文化祭の時は親から逃げたし、色々あって一人暮らしする事になって、引っ越しした時に、急に全部無理になってきて学校休んだ。あれは俺が勝手に決めた」
自販機の前で「水がない」と溢したあの日の事を思い出した。文化祭の時、彼の母親が「もう、ちゃんと話せるのね」と言った事も。「ただの引越し」と溢した一週間の空白も。
味の付いた飲み物が好きじゃないんだろうな、と思っていた。違った。彼は水以外を選べなかった。
文化祭の受付に座っていた時は彼の母が言った言葉の意味がわからなかった。ちゃんと、の真意を今初めて理解した。
ただの引越し、と言った時、彼は微かに迷っていた。全ての事情を知った訳ではないが、「全部無理になってきた」が意味するものは理解できた。
「有栖川は一方的に救われたと思ってるのかも知れないけど、そうでもないよ。朝のホームルームには間に合わなかったけれど、それをお前は物語にしなかった。自販機での迷いは一つ減って、選択肢が増えた。半分くらいは俺のせいで親は離婚したし、母は壊れたけれど、それでも、春は桜が咲く季節になった」
彼はどうしようもない事を語らない。それが、何にもならない事を知っている。そして、彼はきっと、その悲しみや苦しみを、既に記録している。死んだ春に、『帰雁』と名付けて。
彼は詩を詠むように、だから、と続ける。
二月、受験を終えた直後に彼に電話した時、雑踏の中一人立ち止まる自分に、同じようにどこかで立ち止まって返答を寄越した、あの声色で。
「本当は名字、小鳥遊にしたくて。何で朝日奈を名乗ってるんだろうって高二の時からずっと思ってて。でも、小鳥遊葵月のままだったら、春はこんなに綺麗じゃなかったよ。春だけじゃない、四季は生きてるんだって、知らなかった」
彼は必要以上に語らない。だから、嘘がない。
嬉しかった。自分が彼に世界を変えてもらったように、同じものを彼に渡せていた。
朝日奈葵月の春は、桜が生きる季節になった。それの重さを自分は知らない。知らないけれど、多分それは、彼の春がこちら側に戻ってきた証なのだと思う。そして、世界がこちら側に戻ってくる温度ならば、自分は既に知っている。
「朝日奈」
彼を朝日奈と呼ぶのは、これが最後だと思った。自分にとって彼はずっと朝日奈葵月で、しかし、彼が小鳥遊葵月でありたいと思うなら、それが全てだった。
もう二〇一教室はない。前から三番目に座る朝日奈葵月も、その後ろで教室全体を見渡す有栖川真琴も、もういない。
だけれど、知っている。
互いが何に迷って、何を拾って、何を美しいと思うのかを。
物理のプリントを忘れた日を思い出した。初めて、自分たちがただの友達として会話した日。あの時も同じように、呼び止めるだけ呼び止めて、なんでもない、と誤魔化した。
朝日奈葵月。肩書きを持たないただの有栖川真琴の、たった一人の友達。
彼が自分を肩書きで見ないように、自分も彼を肩書きで見る事はない。
例えば、この先、彼が画家になって、自分が建築家になって、そうやって職業を始めとした名前を背負う事が強いられたとしても、ずっと、ただの友達でいられたらいいな、と思う。
ずっと、ただの友達でいられるだろうな、と思う。
瞬きをして視線を戻す。グラスの中の氷は溶けきっていて、照明に照らされる水面に変わっていた。
それは、かつて海だった教室と、どこか似ていた。
名前を呼んだものの、何も話さないこちらを見て、彼は手を止めたまま首を傾げている。
薄い青が滲むその瞳が、きれいだった。何を言おうか少しだけ迷って、笑った。
「やっぱり、なんでもないよ」




