鯨は春を描かない。
四月。彼と出会ってから、三度目の春だった。彼は藝大で絵を描いていて、自分は犀川先生の元で鉛筆を握り続けた。
夏目は私立の美大のデザイン科に行ったと風の噂で耳にした。五十嵐は浪人して、水無瀬は医学部に受かったとも聞いた。有栖川真琴が今どうしているのかは、物語にならなかった。
八月。苦しかった。浪人という重圧がこれほどのものだとは思っていなかった。ずっと講評で一位を取り続けた友人はもういなかった。もう無理だと思って、何度も諦めたくなって、でも、鉛筆を手放しはしなかった。
何度も訊いた。その度に、彼は彼の答えを返した。
「覚悟が足りないんじゃないかっていう、自責の念がずっとある」
「振り返った時に、成し得た事の大きさを見て覚悟の大きさを知るのであって、覚悟を持って挑む事なんてしなくていいんじゃないかと個人的には思う」
「良い絵にならない、描いたもの全部がゴミの山に見えてくる」
「絵の良し悪しと、それの価値の有無は同値じゃないよ。良くない絵なんだったらそれはそうなのかもね。でも、それが、描いた事実を否定する事はない」
「描くのが苦しかった事ってある?」
「ある。何度も。死のうかと思うくらい苦しかった事も覚えてる。そんなもんだよ、でも、俺も有栖川も、絵を辞めない。それだけ」
彼は自分の弱音に対して絶対に慰める言葉を口にしなかった。ただ、質問に答えるだけ。その淡白な温度には、やはり嘘がなかった。
彼は「頑張れ」とも「応援している」とも言わなかった。言う必要がないと知っていた。彼は、資料館で藝大の事を尋ねた時から、無条件で自分を信じている。
有栖川真琴が藝大に行ける事ではなく、有栖川真琴なら、後悔しない選択をすることを。
なぜそれを無条件で信じられるのかはわからなかった。けれど、それがどうしようもなく彼らしかった。
三月。二日間の入試が終わった。帰り道に、上野駅で朝日奈に電話をかけた。
「やって良かったよ。やりきった気がする、絵を描いて良かった、絵が俺の隣にあって良かった」
「順番が違う。先に親と先生、それからお姉さんに。俺に言うのはその後」
電話口で少しだけ柔らかい声が聞こえた。それが嬉しくて、同じくらい、悲しかった。自分は多分、彼と同じ門を通れない。それを伝えたかった。伝えようと思った。
聞いて、と言った。今にも泣き出しそうな酷い声だった。誰よりも、自分の初めての友達に聞いて欲しかった。
「多分、無理だったと思う。でも、満足した、これのために三年やったんだなって、わかった」
滅茶苦茶な言葉だった。言いたい事が堰を切ったように溢れて、文章の体を成していなかった。
彼は黙ったまま言葉を待つ。風が髪を攫った。人の流れが視界の隅に映る。周りは歩いていて、自分だけは止まっていた。それでも、一人ではない事を知っていた。電話の向こうの彼も、どこかで同じように立ち止まってくれている。
「でもさ、一つも後悔なんてなくって。俺、理工学部に行くよ。数式の世界から、建築を学ぶ」
理工学部に行くと伝えた。まだ結果は出ていないけれど、彼もそれを言わなかった。
努力が、知識が、その他の要素が足りなかったのかもしれない。しかし、それはもう良かった。満足だった。その満足が、自分が一つずつ絵を積み上げた証であり、同時に、藝大に行ける人間ではない事の証明でもあった。
「友達でいてくれてありがとう」
電話の向こうで彼が息を呑んだ気配がした。ゆっくりと時間を使ってから、彼は少し掠れた声で、言葉を間違えないように、しかし真っ直ぐに答えた。
「有栖川。俺は、お前の生き様が好きだよ」
なんだよそれ、という言葉は音にならなかった。まさかそんな事を言われると思っていなかった。
拍子抜けした。それが涙に変わりそうだった。目を固く閉じて、息を吐く。
薄い一枚板の上で、何とかバランスを保とうとして、必死に生きていた。あまり良くない生き方だと、ずっと思っていた。結果それは壊れて、一つずつ修復した。そして、それはまだ不完全で、これからも迷って、その度に訊いて、生きていく。
随分と回り道をしたこの生き方を、彼は好きだと言う。
今度は自分が黙る番だった。彼は嘘を言わない。変な誤解を生みそうなほどに言葉は足りないが、表面だけの言葉を語らない。
途端にこの三年間が蘇ってきた。文化祭の黒板の前。自販機のブラッドオレンジ。帰り道の雪。
数えきれないほどの、美しい記憶。
泣きそうだった。泣かないと決めていたのに、心は震えて仕方がなかった。目頭が熱くて、何もかもぐちゃぐちゃだった。
全部全部、わすれたくない、きれいなもの。
何か言おうと思って、何もちゃんとした事は言えなかった。
だから、ただ一つ、言いたかった事を言うことにした。途切れ途切れの声で、でも、たった一人の友達に。
「俺も、冬、好きだよ。悪くない」
彼が好きだと言った季節。
自分の世界がこちら側にきちんと戻ってきた季節。
自分が二回、東京藝大の正門を通った季節。
彼は少し黙ってから、柔らかく答えた。指先を雪が掠めた。
「俺の春は、灰色の花びらが散って死んでいく季節だったけど、お前と会ってから、花が咲く季節になった」
覚えている。桜が咲くから春が好きだと言った自分に対して、彼は少しだけ目を見開いた。
高一の時、彼は小鳥遊葵月だった。高二になってクラス替えと共に、彼は朝日奈葵月として生きる事を強いられた。花が死ぬ季節が春だったという言葉の背景は想像に難くなかった。
指先と唇が震えた。それが寒さなのか、別の何かなのかわからなかった。スマホを持っていない右手で顔を覆う。
少しの沈黙の後に、彼は続けた。まるで、どこまでも青い海を、真っ白なキャンバスに描くように。
「有栖川」
水面下で広がる物語に轢き殺された自分たちは、教室という海の中で生きる鯨だった。
そして、咲き誇る桜の花びらも、頬に落ちる雪の結晶も、海の中ではその全てを拾う事はできない。
できないけれど、知っている。
桜が咲き誇り、向日葵が天を見上げ、紅葉が赤く燃えて、椿がその花びらを雪に捧げること。
「もうすぐ、東京も、桜が咲くね」




