鯨は物語を紡がない。
四月。高三になり、一階分多く階段を登る事になった。5104だった学籍番号は、6104に変わった。担任は変わらなかった。前の席は相変わらず朝日奈で、後ろの席は五十嵐だった。
「今年はホームルーム遅刻しなかったんだ」
五十嵐が朝日奈に茶化しながら声をかける。去年は朝日奈葵月が物語だった。今年は友達として、彼の方を向く。それは事実として存在していた。
「そう、今年は間に合った」
苦笑しながら、朝日奈は席に座る。相変わらず紺のカーディガンに、彫刻のような整った顔立ち。カーディガンの腕を捲って、鞄から筆箱を取り出す。もう向かう先は職員室ではない。
やはり彼は変わっていなかった。ただ、見えるようになった。去年無表情で遅刻してきた朝日奈葵月は、綺麗に笑い、冬が好きで、絵を描く時に瞳が揺れること。
有栖川真琴の肩書きはいつの間にか消えていた。優等生のムードメーカーでもなく、誘いを断る便利に使えない奴でもなく、姉を亡くした弟でもない、ただの有栖川真琴になった。綻びの芽を摘まなくなって、教室の隅からたまに誰かに宛てた愚痴が聞こえた。しかし、それで良かったのかもしれないと思った。彼らの事は彼らで折り合いをつけるだろう。ムードメーカーの有栖川真琴が仕事をしなくても、綻びは教室を崩壊させない。仮にその綻びが亀裂となって教室を壊しても、責任を取るべきは自分ではない。
桜は綺麗だった。去年と変わらない花を咲かせる桜は、去年よりも、もっと、きれいだった。
五十嵐や水無瀬とは上手くやっていた。彼らはまだ、自分が東京藝大を目指している事を知らない。それは、自分が藝大を目指している事を知っているのが朝日奈葵月しかいないからで、彼は人を物語にしないからだった。
だから、どんな結果になっても、自分の大学が決まった時に姉の話をしようと思った。有栖川真琴の憶測はもう飛ばなかったが、姉がいた記録を、彼に少しだけ拾って欲しかった。
多分今更何かを語っても何も変わらない。姉は戻らない。自分の名前は有栖川真琴ではないが、これからも有栖川真琴であり続ける。
何も変わらないけれど、それで良かった。それが、自分と朝日奈葵月の温度だった。
六月。葵月、という音が丁度六月を意味していると知った。教室の外は雨だった。高三は文化祭に参加しない。使われない黒板を見ながら、去年は晴れていたな、と思った。懐かしかった。今は、困った時にどうするか、知っていた。
八月。犀川先生のところに毎日通った。それは去年と同じだったけれど、イーゼルはもう歪まなかった。
追い詰められて泣きたくなる時もあった。朝日奈にも、犀川先生にも、夏目にも、親にも訊いてみることにした。泣けばいいと言われた。その通りだったので、部屋で泣いた。そして、少しずつ、自分が積み上げた絵の数々は血液に変わった。その間も朝日奈はずっと講評で一位だった。羨望はあったが、妬みにはならなかった。感謝の方が大きかった。何よりも、彼の絵はきれいだった。
十月。彼はずっと変わらずに、筆を持っていた。弱音も吐かず、天才だの才能だの囁かれる嫉妬にも目をくれず、ただ、筆を持っていた。少しずつそれは物語になった。二月、部屋に立てかけてあった絵は『回雁』という題だった。彼はそこに、小鳥遊葵月と名前を残した。物語にするにはあまりにも話題が揃いすぎていた。天才的な絵の才能を持ちながら、複雑な家庭環境を持つ高校生。いつの間にか三年の教室でもそれが囁かれるようになった。
朝日奈葵月は、彼の家族の話が物語になるのをひどく嫌っていた。三者面談で、放課後に彼の母親が学校に来た時、彼はこちらが恐怖を覚えるほど感情が抜け落ちた無表情で、廊下でスマホを見ていた。彼の母親も母親で、目の焦点があまりきちんと合っていなかった。しかし、それさえ美しいと錯覚してしまうほどの何かを持っていた。それはまるで、地に堕ちた天使のように。多分、彼の母親を他の誰かが見たらすぐに物語になった。しかし、彼の母親は物語にならなかった。自分だけしか、見ていなかったから。
彼がそれをどう思ったかはわからないけれど、翌日、彼はこちらを見てから、少し目を伏せた。それが感謝なのだとわかった。
囁かれる藝大の名前と、小鳥遊という名前を聞きながらも、彼は何も気にしていないように過ごしていた。家族ではなく自分自身が物語になる事がどうでも良かったのか、どうでも良さそうに見せていたのかはわからなかった。
自分にできる事は、待つ事だった。
今度は彼が、自分に「どうしたらいいと思うか」を訊く番だった。だから、自分からは訊かずに、待つ事を選んだ。
彼が文化祭の黒板の前で自分を半年待っていたように、数学教師に怒られた後「ごめん、多分、出来ない」と言われた職員室前の廊下で。
十二月。受験前のため学校に行く必要はなくなり、犀川先生のところで顔を合わせる日々が続いた。夏目や自分たちが時に泣きながらも研鑽を積む横で、彼は一枚の絵を見て、犀川先生と話をしていた。どこまでも淡白で遠い声色だった。
「これは、『帰雁』は、俺のものです。データとして個人的に公開しても、公的な作品には絶対にしません」
「わかったわ。じゃあ、『回雁』は、飾ってもいいかしら?」
「……それもあんまり、良い絵じゃないです」
「葵月さんはそうかもしれないね。それでも私は、これが好きよ」
そこには、『回雁』と同じ構図の、しかし花を手に持っていない絵が描かれていた。
一月。共通テストを受けた。
三月。藝大の入試を受けた。結局最後まで、自分が藝大を受ける事は、物語にならなかった。
三月末。犀川先生の所に行って、先生より先に朝日奈に結果を伝えた。イーゼルだけが並ぶ、人のいない部屋で彼は目を伏せた。彼は薄情に見えて、意外と人情に厚い。気にすんなよ、と軽く笑ってから、「お前は」と訊いた。
自分の結果には泣くだけ泣いたし、やはり無謀な挑戦ではあった。しかし、志は消えていない。だから訊いた。彼との会話の中で、自分が自他境界を間違う事はない。
苦しそうに返答された。「おめでとう」とちゃんと目を見て言った。本心だった。自分の最も尊敬する友達が、絵画を共にして生きていく事が、素直に嬉しかった。
彼の合格を喜べる人間で良かった、と思った。多分、ムードメーカーの肩書きを背負ったまま、世界の全てが歪んだイーゼルの中にしかなかった有栖川真琴のままだったら、今の自分は無かった。
姉は物語になったが、藝大を志した有栖川真琴は物語にならなかった。
自分の世界の全ては高二の夏から歪んだイーゼルに変わったが、三ヶ月後、冬と共に世界は戻った。
有栖川真琴の肩書きは、もう誰も求めなかった。
全部、彼が居たからだった。たまたま彼が自分と同じ教室で、一つ前の席に座っていたから。
「朝日奈」
「なに」
「俺、もう一年やろうと思う、どう?」
「有栖川がそうしたいなら」
決める前に、訊いた。彼は彼の言葉を口にした。
「建築に友達作ってよ、それで俺に紹介して。仲良くなりたい」
彼がそれをどう受け取ったかはわからない。わからないが、それは明確に、彼と友達のままでいたいという意思表示だった。彼は目を伏せてから、視線を逸らす。迷っている。
彼はきっと知らないであろう、伝えたい感謝が沢山あった。ただし、今それを言うのは辞めた。もう一年勉強して、その先で言おうと思った。
代わりに、笑った。高二の六月、文化祭の買い出しで廊下を歩いたあの時と同じ温度で。
「おまえ、やっぱりわかりやすいよ」




