鯨は夢を刻まない。
二月末。
何事もなかったかのような顔をして、朝日奈は学校に来た。恐る恐る、一週間の休みの理由を訊く。不都合があれば誤魔化すだろうと思ったが、返答はもっと単純だった。
「ん? ああ、引っ越ししてた」
「は?」
「いや、だから、本当にただの引っ越し」
「てっきりインフルか何かかと」
違う違う、と彼は微かに笑った。それから、目を伏せて視線を逸らす。迷っていた。その迷いが何かは、訊けなかった。彼は嘘をつかない。必要以上に話さないが、少なくとも引っ越しは嘘ではない。それは知っていた。だから、訊けなかった。
それから、朝日奈は朝のホームルームに遅れる事がなくなった。元々家が遠いとは聞いていなかったし、そもそも同じ都内に住んでいたので、遅れる理由も知らなかった。彼の妹が関係している事は知っていたが、それ以上を知ろうとは思わなかった。とにかく、一週間の休みの後から彼がホームルームに遅れなくなったというのが事実だった。
彼は何も語らない。自分の背景を物語にされる事を嫌う。人を信用していないわけではないが、偶然の重なりは悪意を持たずに物語として広まっていく。それを彼は嫌というほど知っていた。
だからこそ、常に物語にされないように先手を打つ。それが朝日奈葵月のやり方だった。
文化祭で、彼は母親と妹を見てあの場所を去った。彼らが朝日奈の家族だと広まれば、その噂が一人歩きする事を知っていたから。
朝日奈と呼ばれて嫌な顔ひとつせず、名字が変わった事は事実だから隠していない、と言った。朝日奈葵月を名乗りたくないと彼が言えば、それが新しく消費される事を知っていたから。
どうしようもない事に関して、謝りもしなければ語る事もしない。
どうしようもない事が物語になれば、その後に何を言ったところで都合よく消費される。だから、彼は沈黙を貫く。無駄な事を言わない。それがいかに脆い生き方かを、彼は知った上で変えない。それは一種、彼に眠る狂気だった。
***
三月初旬。受験が終わり、犀川先生のところに高三が顔を出さなくなった。
同級生でもありながら、本格的にライバルになった夏目や朝日奈と、これからの事を語りながら帰る、夜九時の東京。
「私はデザイナーになれたらいいな、二人は?」
「俺は建築系の仕事に就きたい。勉強も配点高いから大変」
「建築って勉強大事だもんね」
「でも二人とも一組じゃん、成績良いんでしょ?」
夏目が悪戯っ子のような顔でこちらを向いた。何と答えようか迷っている間に、朝日奈が楽しそうに目を細める。
「有栖川は成績良いよ」
「小鳥遊は?」
「……全部化学のせいだね」
彼はさっきとは打って変わって苦々しそうに視線を逸らした。何だか面白かった。彼は感情を削ぎ落として生きているように見えて、意外と思っている事が顔に出る。
ケラケラと笑いながら夢を語る時間は、悪くなかった。ただし、朝日奈が大学以降の人生について一言も語らなかった事には気が付かなかった。
雑踏の中の駅は、何だかこの世のものではないような気がした。雪は止んでいて、もうすぐ春になるのだな、と思った。
そうして桜が咲き誇り、向日葵が天を見上げ、紅葉が赤く燃えて、椿がその花びらを雪に捧げた時、自分たちは新しい道に進んでいく。
「これからも頑張ろうな」
手を振って二人と別れた。春休みが終われば、高三だった。
絵も勉強も、命を削ってやらなくてはいけなかった。しかし、どこか楽しみだった。それは焦りでもあったし、人生をかけた競争に身を置く緊張からくる高揚でもあった。
元々自分のような絵に触れた事のない人間が藝大を目指すだなんて、馬鹿にされて当然の夢だった。しかし、無条件に自分を信じる友達がいた。だから、何だってやれる気がした。
絵を描く間は一人だった。しかし、もう有栖川真琴は孤独ではなかった。




