鯨は桔梗を飾らない。
十二月も終わり、一月になった。
五十嵐や水無瀬を始めとしたクラスメイトとは、ある程度友達に戻った。彼らは悪気があったわけではない。ただ、物語にしたのは事実だった。
それをどう受け取って、どう付き合っていくかは自分で決めて良かった。ただ、訊くことにした。訊くという行動が、世界を狭めないと知ったから。
朝日奈はそれを、ずっと前から知っていた。「訊く」が、世界との繋がりを殺さないようにするための手段なのだと。
だから、一つずつ訊いた。彼は彼の答えを返した。それは相談ではなく、ただの意見交換だった。自分ならこうする、というだけの淡白な会話は、お互いの意見を否定するものでも、肯定するものでもなかった。
「好きな風景を写真に撮って、それを絵にしようと思う。先生にも訊くつもり。どう?」
「俺もよくやるよ、それ」
「五十嵐や水無瀬とは少し距離を置こうかな、でも友達のままでいる。お前ならどうしてた?」
「自分からは話さない、必要最低限だけ」
「静物画の構成考えるのやっぱ好きだわ、絵描いてる時に楽しい時ってある?」
「黒が画面に乗る瞬間かな」
「早く春にならないかな、桜が咲くのが好きなんだよね。お前はどうなの?」
「……冬が好き。空が綺麗だから」
「大学入ったら髪染めたいな、赤とかかっこいいと思わない?」
「俺の趣味ではないけど、有栖川なら似合いそう」
それは、側から見ればただの友人としての会話だった。そして、だとすればそれは一般的な順番と違っていた。違っていたけれど、それが自分たちの持つ温度だった。
「お前ら最近仲良いね」と五十嵐に言われた。「だろ」と笑って返した。彼の瞳に、少しの安堵と罪悪感が見えて、少し驚いた。同時に、ああこんなにも簡単な事だったんだな、と思った。
自分が何を拾おうとしているのか理解したらしく、少しずつ、朝日奈も自分に意見を求めるようになった。それはやはり、どこまでいってもただの意見交換だった。お互いの選択が真反対だった時は笑った。そして、それらは少しずつ軽口に変わっていったけれど、やはり、否定にはならなかった。
訊く。ただし、相手の意見を採用するかどうかは自分で決める。
交わした言葉は、ずっとそれが根底にあった。
だからこそ、何を伝えても、互いに自他境界を間違えなかった。
それから、彼も、自分も、少しずつ自己開示が増えた。好きな季節のこと、好きな色のこと、最近楽しかった思い出、昔から何故か覚えている不思議な記憶のこと、笑い話に昇華したい失敗談のこと。
楽しかった。彼との間で交わされる何気ない会話は、親愛と尊敬の形をしていた。
絵の講評も、少しずつ良くなってきた。素直な線で描けていますね、という犀川先生の言葉が何よりも嬉しかった。ゆっくりと、しかし確かに、自分の世界は美しく変わっていった。
いつか言おうと思った。十七年の間、誰にも言わなかった、自分の名前のこと。
二月。朝日奈葵月は、一週間学校に来なかった。
インフルエンザにでもなったのかと思い、授業終わりに、授業のプリントの写真を彼に送った。一人で帰るのは三ヶ月ぶりだった。二月の風は冷たくて、でも、彼が好きだと言った季節だった。
スマホが震えて、通知が見えた。ありがとう、という淡白な返事に少し苦笑しながら、電車に乗って、犀川先生のところに向かう。いつもは適当な会話をしていた電車内に、今は一人だった。窓の景色が少し冷たかった。
駅から降りて先生の家に向かい、いつもの二階の扉を開ける。まだ誰も来ていなかった。しんとした空気に、少し緊張が走る。高三は受験の最中だった。
息を吐きながら部屋を見渡す。知らない絵が立てかけられていた。深い紺の背景に、白い花を持った手だけが描かれている、少し大きめのキャンバス。絵の知識はあった。あったけれど、何も出てこなかった。ただ、きれいだった。
キャンバスの裏が見えた。一週間前の日付とタイトル、そして制作者の名前が描かれていた。そこで気付いた。
物語として、都合良く雑談に搾取された一人の人間の、ささやかな反抗に。
自分だけではどうしようもない事が物語になるのも、それが嫌で人と距離を取るようになるのもわかる、と彼は言った。そして、どうすれば良かったかの問いに、自分だけが知る正しいことを記録したと言った。
彼は全部知っていた。物語の行く末も、搾取する人間に、必ずしも悪意があるとは限らないことも、自分の世界が一つずつ歪んでいくことも。
だから記録する。自分だけは正しいことを間違えないように。迷ったら人に訊いて、答えを狭めない。
その媒体が何だったのかは知らない。彼はそれを言わなかったけれど、多分、その媒体の名前は絵画だった。
有栖川真琴は、自分の名前ではない。それと同じように、朝日奈葵月は、彼の名前ではなかった。




