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鯨は言葉に願わない。

 夜八時。駅のホームで電車を待つ。


 今日は絵を描かなかった。先生のところに行って、周りが絵を描くのを見ていた。

 夏目の線は柔らかかった。形を丁寧に取って、稜線をゆっくりと探していく。満足いくあたりにしてから、一つずつ色を乗せていく。

 朝日奈の線は真っ直ぐだった。面を捉えて、時に大胆に黒を乗せる。でも、癖がなかった。綺麗に、まるで鏡に映すように、絵を描く。


 人が絵を描く途中を見たい、と言った自分に対して、先生は、やってみなさい、と笑った。


 それは、彼が自分に伝えた、世界と自分との繋ぎ方だった。

 自分で考えていい、軽い人間関係でもいい、ただ、決める前に誰かに訊くこと。一つだけ、頼ること。


「朝日奈」


「なに?」


「一つ訊いていい?」


「うん」


「俺の姉の話、どこまで回ってる?」


 彼はそれを聞いて、明確に目を細めた。それから、事実だけを述べる声色で、ゆっくりと答える。

 自分が遮断していたこと。物語になった、本当の有栖川真琴のこと。


「お姉さんが亡くなった事は耳にした。そういうの聞かないようにしてるから、これ以上は知らない」


「……俺、あの時、どうしたら良かったと思う? お前ならどうした?」


 訊いて良いのかはわからなかった。それが彼の傷を抉る可能性はあった。けれど、一人で決める前に誰かに訊くという事が、彼から教わった答えだった。だから、それを口にした。


「俺は、本当のことを記録した。飛び交う憶測が正しいって錯覚しそうになるから、そうじゃないって、自分だけは、ちゃんとわかるように」


 どうしたら良かったか、の問いには彼は答えない。ただ、自分はこうした、と言う。彼は、もうどうにもできない事について語らない。それが朝日奈葵月の線引きなのだと理解した。


「記録」


「そう。正しかったかはわからないけど、あの時は必要だった。多分これからも、そうする」


「そっか」


 これ以上は訊かなかった。物語から何を守りたかったのか、何を覚えていたかったのか。彼はそれを言わなかったし、自分が知ろうとは思わなかった。


 そのまま駅で別れて、「また明日」と声を交わす。

 その簡単な挨拶でさえ、久しぶりだった。


 自分の生き方はきっと、あまり良くない。薄い一枚板の上で、何とかバランスを保っている。誰もそれを知らない。壊れた時に初めて、壊れたと気付く。そして、壊れた時に手を差し伸べてくる人間はきっといない。


 ずっとそう思っていた。実際、誰も手を差し伸べなかった。自分の世界の全ては歪んだイーゼルの中に変わった。

 ただし、「助けて」と言えばそこで待っていてくれるのだと知った。差し出した手を掴んでくれる人が、いるのだとわかった。



***



 最寄りの駅から少し歩いた後、家の玄関を開ける。母の声が返ってきた。それが、段々と聞こえなくなっていた音だった事に気付いた。

 玄関には母と父の靴があって、消毒は半分ほどに減っている。歯ブラシは三本。石鹸の泡は黒鉛で濁らなかった。

 リビングにはラップをかけられた夕飯が置いてあって、「先食べたよ」と声が響く。テーブルクロスは赤ではない。ここには、黒板もイーゼルもない。


 ただ、そこには確かに有栖川真琴が居ていい場所があって、それは、自分の世界の一つだった。

 見えていなかっただけだった。見えなくなっていただけだった。そして、朝日奈葵月は、それを戻す方法を自分に伝えた。


 見えていない事と、そこにない事は違う。

 晩御飯を食べて、部屋に戻った。鉛筆ではなく、シャーペンを握る。画用紙ではなく、ルーズリーフを手に取る。

 そして、彼が教室の机にそっと置いてくれていたプリントの数々をファイルから取り出して、教科書と見比べた。


 戻ってきたのだ、と思った。自分の世界が、歪んだイーゼルの中ではなく、家と、学校と、先生のところと、絵に。


 九月の体育祭の時から三ヶ月かけて削ぎ落とした世界は、「教えて欲しい」のたった一言で、色を取り戻していた。


 泣きそうだった。教室で倒れた時とは違う、心が動く感覚がした。

 顔を上げる。本棚には色とりどりの教科書がある。デッサンの本や資料も数多く積まれていた。それは自分が積み上げてきた努力で、やっとそれを、ちゃんと見た。

 隅に置かれた旅行のお土産。おすすめされて買った小説。本棚の隣にある汚れたスパイク。


 この景色を残そうと思った。なんでもないただの風景を、形にしたかった。

 スマホを開いて、カメラを起動する。カシャリ、と無機質な音が響いて、目の前の風景が写真になった。なんの変哲もない、ただの部屋。

 ぼんやりとそれを見ながら、景色を残す手段に、スマホ以外のものがある事に気付いた。


 鉛筆と水彩。


 手を伸ばそうと思って、少し考えて、辞めた。プリントを見ていたからではない。それが終わってからも、今日はやらないと決めた。一人で考えて、一人で決めない。やりたいと思ったら「どう思う?」と訊く。迷ったら、「どうすればいい?」と、自分では抱えきれなかったなら、「助けて欲しい」と。


 例え結果は同じになったとしても、それが何を意味するか、もう知っていた。

 「教えて欲しい」の一言が、自分の世界を孤独にさせないこと。



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