鯨は青藍を救わない。
十二月。講評で下位に置かれた自分の絵を見た。
なぜ、と掠れた声が音になった。「真琴さんはね、少し線が特徴的なのよね」と先生は困ったように言う。
悔しかった。デッサンの本を買い漁った。
四六時中、絵のことを考えた。描いて描いて、描き続けた。しかし、自分の絵が上位になることはなかった。描けば描くほど、我流だと言われるようになった。
努力するしかなかった。孤独な戦いは苦しかったが、やはり、誰も有栖川真琴を求めなかった。それに縋るように、鉛筆を手にした。自分の世界は、もうイーゼルの中にしかなかった。
「有栖川」
金曜日。授業終わりの放課後。来週から冬休みだった。毎日絵を描けるのが有難いな、と思いながら、教室を出ると、廊下にいた朝日奈に呼び止められた。
「なに」
声の温度は冷たかった。早く鉛筆が欲しかった。彼がこちらを見る瞳に、何を映しているのかはわからなかった。
「先生のところ、今日行く?」
「行くつもり」
「わかった。このプリントだけ出しに行くからちょっと待ってて」
穏やかに伝えた朝日奈は、そのまま職員室に向かった。
そこで気付いた。もうずっと誰とも話さずに、一人で動いていた。彼の声を聞くのは久しぶりだった。
姉が物語になって、自分の肩書きに使えない奴という文字が加わってから、何もかもどうでもよかった。
多分それは、彼の孤高とは違って、孤独だった。
「お待たせ」
彼は変わらない温度で、こちらを見ていた。どちらからともなく歩き出す。何か要件があるのかと思って、朝日奈の声を待ったが、そういう訳ではなさそうだった。
校舎を抜けて、空を仰ぐ。冬の空だった。今にも雪が降り出しそうな、そんな空模様。
気付かなかった。毎日下を見て、ずっと絵のことを考えて帰っていた。いつからそうなったのかはわからないが、暫く空なんて気にしていなかった。
「有栖川」
朝日奈がこちらを向いた。射抜くような真っ直ぐな視線は一瞬で、すぐに淡く溶けた。
それが何を意味しているのかはわからなかった。視線だけで返答する。彼はそのまま、時間をかけてゆっくりと口を開いた。足音は冬の温度に消えていく。指先が冷たかった。
「俺は、ずっと努力し続けているお前を凄いなと思ってるよ」
え、と微かに声が溢れた。彼の声色はどこまでも平坦で、少しだけ寂しそうだった。
それの意味はわからない。わからないから、続きを待った。
「数学の課題提出は全部有栖川に任せてたけど、お前はそれ、怒らなかった。多分俺が先生に全部を話したらそれ相応の配慮はされるはずで、でもそれをしなかった俺を、有栖川は気にしないと言った」
全く話は繋がらなかったが、四月の事を思い出した。彼は遅刻を謝らなかったが、迷惑をかけた事は謝った。それが彼の線引きだった。そして、彼の家庭環境がそうさせている事を、文化祭の時に少しだけ知った。
「でも結局返却はお前がやるって事になったから、怒る理由がない」
「そうなんだけど、俺はそれに何も返していない」
彼が何を言いたいのかはわからなかった。
しかし、やはりずっと彼の声色は平坦で、そこに微かな寂しさ以外のものを拾えなかった。彼は何も言わないこちらを見てから静かに続ける。
「嫌だったんじゃないの? 自分の気遣いが、当たり前のものだと思われて、軽く使われたこと」
そこまで言われて、やっと理解した。自分がずっと、周りの綻びを無償で摘んできたのを、見ている人がいたこと。
朝日奈葵月だけは、その無償の気遣いに、名前を付けていた。
だから、一方的に仕事の押し付けにならないよう、回収以外の仕事は自分がやると言った。
文化祭の黒板をどうするか迷っていた時、有栖川真琴の人脈を使わなかった。
人に頼られるのも悪くないと言った自分に対して、彼は、誰かに助けを求めたらいい、と言った。
その上で、周りを悪者にしないように、「俺は何も返していない」と彼は言う。
返答を考える前に、「嫌だったよ」と言葉が溢れた。朝日奈葵月になら言えた。言っても大丈夫な気がした。
それを聞いた彼は一度目を伏せる。それから、視線を逸らし、地面を見た。その仕草が彼の迷いだったと思い出した。
「最近のお前がずっと絵に集中してるのは、全部、努力だってわかるよ。自分だけではどうしようもない事が、雑談に消費されて物語になるのも、それが嫌で人と距離を取るようになるのも、全部一人で考えた結果だって」
彼の家庭環境も、物語だった。真偽不明の噂は、雑談として搾取されていた。
「有栖川。俺は怒ってる訳じゃない。悪評を流すための言質が欲しい訳でもない。そうじゃないんだけどさ」
彼は一度言葉を切る。明確に迷っている。本当に言いたい事を、言うべきかを。
「……多分ね、同じ構造なんだよ、今」
そこで、やっと理解した。
流れのある整った字が、誰のものだったのかを。
結局自分は、肩書きのある有栖川真琴を便利に使ったクラスメイトと、同じだった。
見えない気遣いを、当たり前の物として行使していた。
言葉は足りていなかったが、彼が言いたかった事は理解した。
多分、婉曲した言葉の足りなさは、彼の痛みだった。机に置かれていたプリントに感謝がなかった事ではない。搾取される側から、搾取する側になっているという事実を突き付ける、その鋭利さを知っている者の痛み。
雪がゆっくりと舞っていた。それが誰の涙だったものなのかはわからなかった。
人を搾取したくなかった。自分がされ続けてきたから、周りにはそうしないでおこうと思っていた。
しかし、一種の自己犠牲の上に成り立っていたムードメーカーという肩書きを捨てた今、自分はもう、搾取する側になっていた。
それを伝える事が彼の誠意で、それが自分を傷付けるものであるとわかっていた。それでも、伝える事を選んだ。
なぜなら、それが、有栖川真琴の世界の全てを、歪んだイーゼルの中から、こちら側に連れてくるためには必要な手順だったから。
「ごめん」
「違う。謝って欲しい訳じゃない。そうじゃなくて」
彼が怒っている訳ではない事はわかっていた。わかっていたけど、謝りたかった。
彼はそれ以上何も言わず、ただ、こちらの答えを待っている。
正門に着く頃には、雪は淡い雨に変わっていた。それが冷たかった。
じゃあどうすれば良かったんだ、と心の中で呟く。泣きたかった。しかし、その思いをぶつけるべき相手は彼ではなく、過去の自分だった。
彼は、八方美人に生きる自分を否定していない。しかし、「ごめん」に対して、「そうじゃなくて」と言った。まるで、自分が答えを既に知っているかのように。
そして、気付いた。
彼は有栖川真琴を助けない。ただし、ずっと、待っていた。
あの夕方六時の黒板の前で、自分が、「手伝って欲しい」と言うのを。
多分今も、待っている。一人で決めるのではなく、誰かに一つ、頼ることを、彼は待っている。
「……絵が上手く描けない、どうしたら良いかを教えて欲しい」
絞り出した答えは、完璧ではなかった。
内容は多分、間違っていた。しかし、構造だけは確かに正しかった。
彼はこちらに顔を向ける。目が合った。少しだけ青が滲む、透き通った瞳。
「うん。じゃあ、訊きに行こう、先生にも」
少しだけ目を細めて、さっきよりも穏やかな声で、彼は言う。
これがどんな感情を表しているのか、自分はもう知っていた。




