有閑魔王に温泉を。(5)
次の日、宿で目覚めたグレアスは、まだ朝も早いうちに外に出た。
まず目指すのはリオ少年の家である。リオは昨日、グレアスを宿まで案内し、ひととおりの経緯を説明した後、妹が待つと言う自宅へと戻っていた。
スプリングスの街の朝は、後ろに控える山から流れ込んでくるのだろうしんとした冷気に包まれている。温泉を目当てにやってくる旅の客は減ったとはいえ、街の人々の暮らしが絶えたわけではない。家々からは、早起きの住人たちのものらしい炊事の煙が細く立ちのぼっていた。
グレアスはリオから聞いていたとおりに大通りを抜け、やや細い横道に入っていった。街のだいぶ外れのほうに、リオが妹とともに暮らす家はあった。
「ここだな」
汚れの目立つ粗末な木の扉の横に、リオと、妹のものらしき名を手彫りで刻んだ、簡素なプレートがかかっている。それを確かめ、グレアスは軽く扉をノックした。
「はーい」
明るい声が中から聴こえ、すぐに扉は開かれた。
だが、出てきたのはリオ少年ではない。グレアスを迎えたのは、リオよりも二、三歳ばかり年下であろう少女だった。
リオと同じように、着ているものなどは決して贅沢ではない。むしろ粗末かもしれない。だが、こざっぱりと身形を整えてはおり、それが好印象だった。
髪や肌の色つやが思わしくないのは、食べるものもままならない生活のせいだろう。それでも、グレアスに向けられた笑顔は明るく、可愛らしかった。
「おはようございます。あの、グレアスさまでしょうか?」
少女はおずおずと問うた。
「ああ、いかにも。お前はリオの妹だな」
「はい、メイアと申します。兄がお世話になります」
「こちらこそ」
グレアスは、少女メイアに対して、わずかに口許に笑みを浮かべて応じた。気品ある応対にメイアははっと息を呑み、わずかの間、ぼう、と、グレアスを見詰めた。その頬がすこしばかり染まっていた。
「メイアー!」
その時、奥からリオが妹を呼ぶ声が響いた。メイアは我に返ると、後ろを振り向いた。
「なあに、兄さん?」
「ちょうど朝ごはんできたし、グレアスにいさんに、中に入ってもらって!」
「わかったわ!」
兄の言葉に短く応じて、メイアはグレアスのほうに向きなおった。
「グレアスさま、あの、朝ごはん、よかったらご一緒にいかがでしょうか?」
「それはありがたい申し出だ。いただこう」
そう言うと、メイアは表情を、ぱあっと明るくした。
グレアスは高位の魔族なので、実は、特に食物を口にしなくとも生きていける。周囲の気脈から、エネルギー摂取が可能なのだ。だから、経口摂取する食べ物は、生きるための糧というのでなく、グレアスにとっては――他の魔族にとってもそうだが――嗜好品のようなものになる。とはいえ、人間の朝食というものに、もちろん、興味はそそられた。
グレアスは軽く礼を言って、リオの家の中へ足を踏み入れた。
部屋は簡素だが清潔で、角の小さなテーブルに、いままさに朝食が用意されつつあった。
「おはよう、グレアスにいさん」
パンの載った皿を並べながら、リオがグレアスの姿を見とめて笑った。
「ああ、おはよう。――パンにスープにサラダか。うまそうな朝食だ」
「あんたがお金くれたおかげで、実は、久々にまともなもんが食えるんだ。しばらく困らなさそうでもあるし。ほんとありがと、グレアスにいさん」
「なに。労働に対する正当な対価だといったはずだ。ただちょっと前払いしただけのことで、礼を言われるほどのものでもなかろう」
グレアスは肩をすくめて言い、リオに勧められるままに席に着いた。
メイアが鍋からあたたかいスープをよそってくれる。ゆたかな湯気のたつ椀が目の前に置かれると、グレアスはすぅっと目を細めた。香ばしいハーブと鶏肉の香りが鼻腔をくすぐった。
「良い匂いがするな」
「ふふ、兄さんはお料理が上手なの。いつかこの街で、温泉にやってくるお客さんたちにおいしい料理をふるまうお店を出したいって」
「ほう、それは良いな」
「っていっても、客がいないんじゃ、話になんないんだけどな……」
リオはちょっと口惜しげに口にした。それを聞いたメイアも、わずかに表情を曇らせる。
「グレアスさま……兄から聞きました。温泉を元に戻すため、力を貸してくださるのだと。うまくいきますか?」
「もちろんだ。俺が必ずなんとかしてみせよう。なにせ、いまの俺には、スプリングスの温泉につかりながら酒を呑みたいという、大いなる野望があるからな」
グレアスが請け負うと、少女はほっとしたように吐息をもらし、それから、ふふ、と、ちいさく笑った。
三人はテーブルについて、和やかな朝餉の時を過ごした。
食べ終えると、メイアに見送られて、出発する。
「あ、兄さん、ちょっと待って」
「なんだよ、メイア」
「出掛けるって聞いたから、お昼ごはん、つくっておいたの。あんまり豪華にはできなかったけど……」
メイアはいったん部屋の奥へ引っ込むと、すぐ、バスケットを手に戻ってきた。中には、薄くスライスしたパンを焼いて、炒めた卵と野菜のピクルスとを挟んだサンドイッチが入っている。素朴ながら、丁寧な仕上がりだった。
「こちらもまた、見事ではないか。兄に劣らず妹のほうも料理上手らしい」
グレアスは、ほう、と、感心の息をもらした。
そして、こちらに差し出されたバスケットを受け取るとき、ふと、メイアの腕を飾るものに目をとめた。
「……これは?」
メイアの白く細い腕には、ちいさな飾り石が中央にはまった腕輪があった。
グレアスが答えを求めてリオを見ると、リオはグレアスの意図をきちんと読み取ったらしく、心得たように頷いた。
「お守りたいなもんだよ」
そう言いつつ、シャツの下から、自らの首にかかっている首飾りを引っ張り出してくる。
「昔から、山で時々、落ちてるのがみつかるんだ。黒くてつやつやしてて、光に翳すとちょっとオレンジっぽく光って見えて……きれいだろ? 宝石とかではないみたいなんだけど、なんでも勇者さまが縁起物だって言ったとかなんとか」
「ほう、勇者がか」
「黒は、この街の守り神のカラスの色でもありますから。この街ではもともと、きれいな黒いものって、好かれるんです。だから、この石を身につけている人もたくさんいますよ」
「なるほど、守り神にゆかりの縁起物の、お守りというわけか」
グレアスは紅玉の目を細めて笑った。
「昼餉はありがたくいただこう。では、行ってくる」
そう言って、スプリングスの後ろに控える山に向け、リオと共に出発した。




