有閑魔王に温泉を。(4)
「たしかに、なかなか洒落た宿のようだ」
リオが案内してくれた宿に到着し、グレアスはさっそく、宿の主にしばらくの滞在を請うた。温泉に問題が発生して以来、客が激減していたこの街では、何日もに亘る逗留は珍しいものになっていたようだ。宿の主人は驚いた顔をしていたが、そこは商売。カウンターで十分すぎる対価を支払うと、請われるままに、グレアスの宿泊のための用意を整えてくれた。
案内された部屋は、質素だが、粗末という感じはしない。部屋の中央には木製のテーブルがあり、椅子は二脚用意されていた。寝台も、清潔そうなシーツがしかれ、きれいに整えられている。
客足が少なくなってからも、それなりに手入れされ続けていたようだ。グレアスは、ほう、と、感嘆の息をついた。
「たしかに、良い宿のようだ」
部屋の中へ歩を進めると、趣味の良いカーテンがかけられた広々とした窓の傍へ寄った。
窓辺からは、温泉街の光景が一望に臨める。その向こうには街に迫る山影が控えていて、なかなか見事な景色だった。
「なるほど、この規模……随分と栄えていたらしいな」
「うん。あの頃は、毎日が祭りみたいでさ、すごく賑やかだったよ」
一緒に部屋に入ってきたリオが、どこか懐かしむように、あるいは自慢げに、嬉しそうに、言った。
「温泉さえ、もとのままだったら」
口惜しそうにつぶやく。その声音からは、ただ生活のためというのではない、温泉とともに栄えてきたこの街への深い愛着のようなものが感じられた。
「大丈夫だ。温泉はきっとなんとかしよう。――俺自身の満足のためにもな」
グレアスが敢えて最後を冗談めかした口調で言うと、リオは、ちら、と、笑った。
「あ、そうだ」
それからリオは、部屋の隅にある棚に用意されていた水差しを取ると、ふたつのグラスに中味を注いで、中央のテーブルの上に置いた。
「グレアスにいさん、これ、温泉水。飲んでみてよ。普通の水とはちがう独特の風味があって、おいしいんだよ」
「いただこう」
グレアスはテーブルにつくと、まるで極上のワインでも呑むときのように、優雅な仕草でグラスを持ち上げた。
目線よりもやや高い位置に掲げ、光に透かすようにグラスの中味を見詰める。それから、ゆっくりと口をつける。こく、こく、と、喉を鳴らして、グレアスは温泉水なるものを飲んでみた。
「たしかになかなか良いもののようだ」
「だろ? あったかいお湯じゃなくなっても、成分はいっしょだからね。身体にも良いって言われてるんだ」
「そうか。それは、老い先短いと思っていた寿命も延びてしまったかもしれんな」
ザフィエが聞いたら、それならとっとと魔界に戻って仕事をしろと怒り出しそうだ、と、グレアスは内心でそんなことを考え、ちらりと苦笑した。
「老い先短いってなんだい? にいさん、いったい何歳なんだよ!」
「ん? 何歳に見える?」
「ええっと……オレより十歳くらい上?」
「さあ、どうだろうな」
グレアスは曖昧にはぐらかした。が、リオはさして気にふうはなく、次は茶盤に載せた菓子らしきものを、こちらの前へと差し出してくる。
「よかったら、こっちもどう? 小麦粉をこねてつくった皮に、棗とか杏子とかを煮た餡を詰めてる饅頭だよ」
「饅頭か、はじめて食べるな」
「うそ! まさか、そんなことある?」
「事実なんだから仕方があるまい」
「饅頭たべたことないって、にいさん、むしろどんな身分の人なの?」
リオに笑われながら、グレアスはひと口サイズよりやや大きめのそれを手に取って、さっそく口に運んだ。
噛みつくと、皮はしっとりとしていて、中の餡はとろりと甘酸っぱい。小麦の風味と木の実の芳醇さとが絡み合い、融け合って、舌を楽しませてくれた。
「うむ。こちらも実に美味だな」
グレアスは満足げに目を細めた。
「温泉水に饅頭か、良いものを味わわせてもらった。このうまいものと共に、ますますここの温泉をのんびりたのしみたくなったな。――それで。この街の温泉に、いったいいつ、何があったんだ?」
本題を持ち出すと、リオの顔がまたすこしばかり曇った。
「温泉の湯がおかしくなったのは、二、三年前だった」
リオは語りはじめた。
「最初はすこし温くなったなってくらいで、ここのお湯はもともとちょっと熱いくらいだったからさ、ちょうどいいって、みんな、あんまり深刻にはとらなかったんだ。でも、そうこうしているうちに、どんどん、湧き出る湯の温度が冷めていって……今じゃむしろ、池の水とかよりも、冷たいくらいになってる」
「ふむ。それでは人はつかれんな。風邪をひいてしまう。――で。原因はわからんと言っていたが、まったく心当たりもないのか?」
グレアスが尋ねると、リオは、ふるふる、と、首を横に振った。
「わかんない。その少し前まで、街はほんとに栄えてたんだ。まだそんな有名でもなかった頃のこの街に勇者さまが来て、温泉を絶賛したって話が広がって、それから何年も何年も、ずっと客が増えてたみたいだし」
そこでリオは、わずかに口許に笑みを浮かべた。
「街の古老なんかはさ、口を開けば、あのとき勇者さまがって、そんな思い出話ばっかり。子供の頃から、いやってほど、いっぱい聞かされたなぁ」
そう言いながら、目の前にあるグラスを満たした温泉水を、リオもひと口飲んだ。
「何年か前かな。街も手狭になってきたし、この際、もっとでっかい旅館や湯治場もつくろうかって話になって、ストニアの森を切り拓いて。それで、これからもっともっとこの街は賑やかになるって、みんな、期待してた矢先のことだったから……」
温泉の異常が人々に与えた衝撃は、いっそうに大きかったようだった。
「ストニア、か」
グレアスは、つぶやいた。
「そう。いまじゃもうないけど、奥の山の麓のあたりに、前はストニアの木がいっぱい生えて、森になってたんだって」
「実は石のごと、の、あのストニアだな?」
「うん、そうだよ。でっかい実がたくさん生るけど、固くて食べらない……っていうか、固すぎて割れもしないし。幹のほうは逆に軟らかすぎたり腐りやすかったりで、建材にもなんにもならない。単なる役立たずの木だって言われてたから」
それで、ストニアの群棲する森を切り拓くことに、誰も反対しなかったという。木は伐り倒され、土地は均され、道が出来、新たな街並みになっていった。
「なるほど……ストニアの森の開発、か」
グレアスが顎に手を当てて、唸るように言ったので、リオはぱちぱちと不思議奏に目を瞬いた。
「なにか関係ありそうなの?」
「いや……まだわからんな。だが、すこし気になることがある」
グレアスは言うと、立ち上がって、再び窓のほうへと歩み寄った。
人通りの少ない大通りを見下ろすと、その視線を、先程自分たちがくぐってきた門のほうへと向ける。降りそそぐ太陽の光に、ちか、と、カラスの像を戴いた緑の屋根瓦が輝いた。グレアスは紅玉の眸を細めた。
「まあ、いい。今日のところはここまでとして、明日、本格的に調べてみることとしよう」
「うん。オレも精いっぱい手伝う。何でも言ってよ、にいさん」
「頼りにさせてもらおう。山へ行こうと思うが、付き合ってくれるか?」
「もちろん」
リオは、ふわっと明るく笑った。
「ところで、リオ少年」
「なに?」
「あそこに便箋と封筒とペンが用意されているな。先程から、あれは何に使うものだろうと気になっているのだが」
グレアスは部屋の隅の棚に置かれている筆記具を指さした。リオは、きょとん、と、目を瞬く。
「え? まさかそれも、温泉が駄目になったのと関係する?」
「いや、まるで別件だ。単に俺の興味関心だな」
そう言って肩をすくめると、なんだ、と、拍子抜けしたように笑った。
「あれはね、友人、知人なんかに、この宿から手紙を書きたいってお客さんが結構いたりしたみたいで、置いてあるんだよ。街としても、温泉につかって良い気分だーって宣伝してもらえたら、ありがたいしね」
リオの説明に、グレアスは、ほう、と、感心するように頷いた。
「手紙か」
それも、魔界にはあまりない風習だった。高位魔族は魔力を使って思念を飛ばすことで離れた相手と交信することが出来るので、わざわざ手紙を認めるといったことを、あまりしないのだ。
だからこそ、宿から出す手紙というものに、温泉街ならではの風情のようなものが感じられる気がした。
「俺も使ってもいいものか?」
「うん、もちろん、かまわないよ。そのために置いてあるんだからさ。――え、でも、にいさん……誰か手紙を出したい人がいるの?」
リオが眸に少年らしい興味を覗かせ、グレアスの顔をのぞきこんだ。グレアスは答えず、立ち上がって棚のほうへ歩み寄ると、便箋とペンとを手に取った。
「なに、ためしに、我が旅の充実を家人に報告してみようかと。今日はもう、さしてすることもないしな」
肩をすくめつつ、悪戯っぽく喉を鳴らす。
テーブルに戻って、優雅な仕草でくるくるとペンの蓋をまわし、キュポ、と、軽い音を立ててそれを取った。銀色に輝くペン先を、紙にさらさらとすべらせる。
「じゃあオレ、いったん、うちに戻るよ。妹も待ってると思うし」
手紙を書き出したグレアスを見て、リオが言った。
「ああ、そうするといい。――また明日」
グレアスは軽く視線を上げ、リオに向かって片手を上げた。




