終‐3 約束の宴
「まったく、待ちかねてたんだぞ、グレアス。あんたほんと、やーっとオレに会いに来たんだな」
夏至の朝の、黎明歌の儀を終えたあとのことである。グレアスの隣を並んで歩く男は、海風にさらされた白髪を無造作にかき上げた。
見せているのは、海辺の街の夏にふさわしい、まぶしい太陽のような笑みである。笑うと、陽焼けした顔の目尻には皺が深く刻まれて、彼がこれまで生きてきた年数を物語った。
「ヴィンセント」
グレアスは男を見て、ふ、と、苦笑するような笑みをくちびるに刷いた。
五十年ぶりのはずだ。それなのに、その年月を軽やかに跳び越えたような男の態度がおかしかった。
「お前というやつは……いきなりあんな手紙を寄越してくるとは、何なんだ。驚いて、俺は魔界を飛び出てきたぞ」
冗談めかして言いながら、グレアスは、ふう、と、薄い吐息をもらしてみせる。
そう、いまから数か月前のこと、グレアスは魔界の魔王城で、いま目の前にいる男からの手紙を受け取っていたのだった。そろそろ寿命が近いから死ぬ前に会いに来い、と、それは要するに、グレアスを急かす内容だった。
だが、男は――……勇者ヴィンセントは、まだまだ元気そうではないか。
「あ? んなこと言ったって、オレ、もう七十歳よ? 事実、棺桶に片足ってやつだろうが?」
「まあ、たしかに……見た目は年をとったな。中味は、変わらんようだが」
「どういう意味だよ、それ? っていうか、あんたは見た目も、ぜんっぜん変わらないなあ」
ヴィンセントは懐かしそうに目を細めた。
「さっすが魔族。すげぇ」
はははは、と、豪快に笑うヴィンセントは、あの若き日の勇者の面影を、確かに残していた。
魔族であるグレアスにとって、五十年はさほど長い時間ではない。だが、人間はちがうはずだ。五十年といえば、人生の半分以上を占める年月だろうに、ヴィンセントはそれをまるで感じさせなかった。彼自身の雰囲気も、それからグレアスに対する態度も、五十年という、彼にとっては長いはずの時を経たものとは、とても思えない――……もちろん、悪い意味ではなくて、である。
なによりも、底抜けに明るい笑顔は、五十年前と寸分違わなかった。
「遅くなった。悪かった」
グレアスは、かつて彼との別れ際に約した言葉を思い起こしつつ、そう素直に詫びた。
「まったくだ。オレは人間だって、忘れてんじゃねぇっつの!」
ヴィンセントは笑って肩をすくめた。
「あ、そうだ! 約束ったら、あれだろ? 酒! 酒飲まなきゃだな」
ふと思い出したように手を打って、ヴィンセントは盃を呷るような仕草をしてみせた。
「あんたが来たら一緒に呑もうと思ってた、とっておきがあるからさ。あ、あと、オレが釣った魚を食わせてやるって言ったよな」
「そうだったな」
「あんた、釣りとか興味ある? 海釣り。オレ、いまから舟出すからさ、行こうぜ!」
「七十歳になっても、うるさいやつだな、お前は」
「友達が元気なんだから喜べよ。で、釣り行く? 行くだろ?」
言いながら、ヴィンセントは、すでにグレアスの手を引いていた。
行かないなどと言う隙もない。が、行かないなどという選択肢がグレアスにはないことを、もしかしたら、ヴィンセントは百も承知でいるのかもしれなかった。
この男にはかなわんな、と、グレアスは苦笑する。
「相変わらずの強引さだな。老い先が短い者の言葉とは思えん」
「ははっ。ま、残り少ないからこそ、やりたいことは即実行だって面もあるけどな」
行こうぜ、と、促され、グレアスはヴィンセントの背に続いた。
白い砂浜から続く、木で出来た桟橋を渡り、ちいさな舟に乗り込んだ。
ヴィンセントの故郷アウロレアの向こうに広がる東海。人魚と人とが隣人として暮らしてきたその海は、今日も、どこまでも澄んだ紺碧である。
帆のないちいさな漁船を、櫂を握るヴィンセントは、力強く漕いでいった。波の静かな沖にたゆたう。空の青がまぶしく、海はラリマールの原石のようで、そしてふわりと潮の匂いがした。
「……静かだな」
グレアスは紅玉の眸を細めた。
「いいだろ? この海は、オレたちアウロレアの民の自慢だ」
「そうだろうな。とてもうつくしいよ。魔界の海とはまた違ったうつくしさだ」
どちらが良いというのではない。比べるものなどではなくて、どちらも、それぞれの良さがあるのだ。
そして、良いものが多くあるというのは、世界にとって素晴らしいことではないか。己の心が、良いものをたくさん知っているというのは、素晴らしいことではないか。
「旅は、いいな」
グレアスは知らず、そうつぶやいていた。
ヴィンセントが釣竿を用意して、グレアスに手渡してくれる。古い友人に教えを請いながら、グレアスも見よう見まねで、釣り糸を垂れた。
そのまま、あたたかな陽を浴びながら、ふたりはしばらくゆったりと舟に揺られていた。
しかしやがて、グレアスの竿の先が、ぴくり、と、かすかにふるえた。
「……ん?」
「お、きたな! ちょっと待てよ、まだ引くな……あわてず、慎重に……魚が餌を完全に呑みこむのを待って……」
ヴィンセントは自分の釣竿をそっちのけにして、グレアスが垂らしている糸の先、水面の浮きの動きを見ている。つんつん、と、ちいさく竿を引く感触がある。グレアスは言われるままに待った。
「っ、いまだ! 引け、グレアス!」
それを合図に、ぐ、と、竿を引いた。
「これは……なかなか、手強いものだな……っ」
魔王は呻く。もちろん魔力を使えばなんなく捕まえられるが、そんなことをしては無粋である。無駄と思えるような手間ひまをかけることでしか、得られない喜びだってあるのだ。
「まーだまだ! ほら、力入れて……よっしゃ!」
ヴィンセントが横から網を持って手伝い、ふたりがかりで引き上げたのは、かなり大ぶりの魚だった。
うろこは淡い銀色と明るい橙のまだら模様で、尾びれが鋭く三叉に割れている。釣り上げられた魚は、舟底で、ぴちぴち、と、元気に跳ねていた。
「こりゃあ、サンリーダだ! アウロレアじゃ、めでたいときにはサンリーダって言う、特別な魚なんだぜ」
ヴィンセントは、にか、と、笑った。
「なるほど。たしかに祝いの席に相応しい見目の魚だ」
魚の色合いは、まさに、この地の太陽に愛されたかのようなそれだ。グレアスは、活きの良いサンリーダを見下ろして笑った。
「ん? お前の竿も、引いてないか?」
ふと気づいて、グレアスは指摘した。
「なに? お、ほんとだ!」
ヴィンセントは慌てて、放りだしていた釣竿を再び手に持つ。そしてしばらくののち、彼は難なく、二匹目のサンリーダを釣り上げたのだった。
「やったな。うち帰って、さっそく刺身と塩焼きにしようぜ」
ヴィンセントは笑って言うと、舟を陸地に向けて漕ぎ始めた。
*
その夜のことである。ヴィンセントの家で、ふたりはささやかな宴に興じていた。
ヴィンセントの養い子のアデルは、いまは友人ジェイドの家に行っていていない。
たぶん、久々の再会を喜ぶ旧知のふたりが水入らずの時間を過ごすのを邪魔しないよう、気を遣ってくれたのだろう。アデルは――豪快を絵に描いたよううなヴィンセントに育てられたわりには――細やかに気を利かせられる青年のようだった。
ふたりがそれぞれに釣り上げたサンリーダは、ヴィンセントの手によって、すでに刺身と塩焼きとに化けていた。大皿に豪快に盛られて、テーブルの上にある。
厚めに切られたサンリーダの切り身は、ほんのり透ける身に、釣りたてならではの光沢がある。塩焼きは、うまそうな焦げ目のついた皮から、豊かな湯気を上げていた。
部屋には、海から届く潮の香りとともに、焼き魚の香ばしい香りが漂っている。
「サンリーダはこの辺じゃなかなかの高級魚なんだ。けど、釣れたときはこうして贅沢できるのが、港街の特権だな」
ヴィンセントは嬉しそうに言った。
テーブルを挟んで向かい合って座ったふたりの目のまえにはグラスも用意されている。ヴィンセントは、どこから出してきたのか、大きな木箱の蓋を開けた。
中から出てきたのは、海のような蒼い色の瓶だ。
「こいつは、黄金の暁って酒。地元でとれた果実と海辺のハーブを使った、祝い酒だな。あんたとこれを開けて呑む日を、オレはずっと、楽しみにしてたんだぜ?」
なのに来るのが遅いんだ、と、相手はわざとらしくくちびるを尖らせたあとで、すぐ、からりと笑った。
「五十年ぶり、か」
グレアスはつぶやいた。
「約束だったもんな。――さあ、乾杯だ」
そう言って、かつての勇者はグレアスのグラスに、太陽の光をひとしずく混ぜ込んだような色合いの酒を注いだ。自らのそれには手酌で注いで、グラスを持ち上げる。
「んじゃ……五十年ぶりの再会に!」
「再会に」
グレアスはしずかに応え、こちらもグラスを持ち上げた。
ふたり、グラスを合わせると、リィン、と、まるで鈴のような軽やかな音が響いた。
グラスの酒を口に含むと、呑み口は意外と辛く、それでいて潮風のような香りが鼻に抜けていった。
「うん、うまいな」
「だろ? ほら、もっと呑め」
ヴィンセントは嬉しそうに笑いながら、空になったグレアスの杯に酒を注ぎ足した。グレアスはまたグラスの中味を一気に呷った。
「魚も食ってみろ。早く」
急かされて、苦笑しながら、フォークを持つ。まずは塩焼きに手を突けた。
サンリーダの身は、白く透き通るようだ。口にふくむと、皮目はぱりっと香ばしく、身はすこしねっとりと甘みがある。
刺身のほうも、焼いた身とはまたちがった、なんともいえない甘さがあった。歯ごたえもたのしい。塩を振ったのと、醤をすこしつけたのとでは、また微妙に味わいがちがっていて美味だった。
ふたりは、呑んで、食べて、大いに語り、笑った。
「――……死ぬ前に会えて嬉しいよ、グレアス」
やがてふと、ぐいと酒を呷りながら、ヴィンセントは言った。
ほんのりと目許が染まってはいたが、この男がこの程度の酒で酔ったとは思えない。それとも、肉体は歳を重ね、かつてほどの酒豪ではなくなってしまったのだろうか。そうだとしたら、すこしさびしい。
だから、気づかなかったふりをしよう、と、グレアスは思った。
ふ、と、目を細める。
「俺もだ、ヴィンセント。お前の手記を頼りに物見遊山というのも、なかなかに楽しかったしな」
グレアスも酒を舐めて、そう答えた。
「はは、そりゃあ、よかった。オレが魔界に行った時、なんだここはって思って、それで人生変わったみたいなもんだったからさぁ。あんたにも、ちょっとばかり、そういう体験をさせられねぇもんかって企んでみたんだが」
「ああ。興味深い経験を、たくさんさせてもらった」
「そりゃあ……よかったよ」
ヴィンセントはしみじみと言った。
遠く、波音が静かに響いている。
やがて、かつて魔界に単身で乗り込んだ勇者は、窓のほうへと視線を向けた。
「あーあ。オレも久々に、旅とか行きたくなってきたなぁ」
そんなことを言い出す。グレアスは、ちら、と、苦笑した。
「なんなら、次はいっそ共にどうだ?」
冗談半分で、誘ってみる。
「おお、それ、いいな! あんたとの旅、滅茶苦茶おもしろそうだし。いつ出発するよ? 明日? 明後日?」
「なんだ、気の早いやつだな」
「だってあんた、オレ、もう老い先短いんだぜ? 親友の末期の我が儘なんだからさぁ、とっとと叶えてくれないと」
「はは。どこかで聞いたセリフだ」
くだらない遣り取りをしつつ、ちいさな宴の夜は更けていく。
「アウロレアで蝶が羽ばたけば、魔界で竜巻が起きることもある」
ずいぶん高い位置まで登った月を窓越しに見上げたグレアスは、ふと、そう口にした。
「なんだ?」
「いいや、なに……世界は実に複雑だという話だ。どこの何がきっかけで、どんな変化が起こるかはわからん。その深淵はおもしろいものだと、改めて思った」
グレアスは紅玉の眸を細める。
「ああ……だな」
ヴィンセントは、くしゃり、と、笑った。
そしてまた、残り少なくなっていたグレアスの杯に、とくとくとく、と、酒を満たした。自分のグラスにも酒を注ぎ、彼はそれをそっと掲げる。
相手の意を察したグレアスも、杯を持ち上げた。
乾杯する。リィン、と、グラスが澄んだ音を立てる。
ふたりは目を見交わすと、互いに笑い、そして同時に、ぐ、と、再会の盃を呷ったのだった。




