終‐2 とある勇者の手記より。(後)
「ん? まあ……面倒だからか」
魔王は事も無げにあっさりとそう答えた。
「はあ? いや、でも、べつにあんたの手なら、ほんのひと手間じゃねえの? 世界征服なんて……」
征服されたいわけではもちろんないし、唆しているつもりもない。だが、事実として、目の前の彼にとってのそれはごくごく容易いことなのではないか、と、ヴィンセントには思えた。
魔王はわずかに首を捻った。さら、と、黒髪がゆれた。
「たしかに、戦闘自体にはさほど時は要さんだろうが……支配地域が二倍になれば、統治の手間は、単純に二倍では済まんだろう。食料、疫病、村や街同士のいざこざの解決……やらねばならなくなることを考えるだけでも、ぞっとする。いまの魔界だけでも、人界との緩衝地域の魔族や魔物どもをおとなしくさせておくのは、それなりの手間なのだ。これ以上、厄介事を抱えてたまるか、というのが、俺の偽りなき本心だが」
グレアスは、その面倒を想像してみるのか、いかにも厭そうに鼻頭に皺を寄せた。
「なんだそれ」
ヴィンセントは拍子抜けしたようにつぶやいた。
「なんだと言われてもな。力で支配してそれで終いなら、誰も苦労はせん。だが、統治がそう単純なものであるわけがない。問題は尽きん。諍いの種も尽きん。残念ながら、な。それに対応する永遠の営みが必要なのに、わざわざ手を出そうと思うか? しち面倒くさい」
はあ、と、グレアスは今度は、大きな溜め息をついた。
「はは……なんだよ、それ!」
ヴィンセントは今度は、あはははは、と、大声で笑っていた。
「あんたさ、いま、すっげぇ真面目でマトモなこと言ってねぇ?」
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭って言うと、グレアスはきょとんと紅玉の目を瞠る。小首を傾けるのに合わせて、また、つややかな夜のような黒髪がさらりと揺れた。
「そうか? 部下には不真面目と怠け性とをよく責められているのだがな」
魔王は、肩をすくめて、そんなことを言った。
「とにかく、魔界の統治だけで手一杯だというのに、これ以上は真っ平ごめんだ。うるさい部下に延々文句を言われることになりそうだしな。それは、もっとごめんだ」
グレアスは大真面目に言って、ふう、と、息をついた。
ヴィンセントもつられたように、はあ、と、長嘆息していた。
「――オレ……何しにここまで来たんだろうな」
口調にすこし、自嘲が交じる。
グレアスが、訝しげな眼差しをこちらに向けた。
「あんたを前にこう言うのも何なんだけど……オレさ、魔王を倒そうと思ってたんだ。そのために旅に出た」
「ほう」
「オレの住んでたとこ、魔界との緩衝域が近かったから、わりと魔物も出たしさ。だから、魔王を倒してやろうって……それで世界に平穏を取り戻すんだって、そう、思ってたんだけど、な」
本当は、世界の平穏が、そんな簡単なことで手に入るわけがなかったのだ――……魔王ひとりが消えて、それで平和になるほど、世界は単純ではない。
饑饑、疫病、人間同士の対立や、そこから生じる争いなど、世界が抱える問題は多岐にわたる。
考えてみれば、たとえば魔王を倒したって、食料危機を乗り越えられるわけがないのだ。魔界は、すくなくとも人間にとっては、不毛の地といっていいような場所だ。作物の栽培や、牛や豚などの飼育に向かないのは、一見して、わかる。魔王を倒してそんな土地を手に入れたところで、人間たちの食糧生産には活きないだろう。
病だって、そうだ。魔族や魔物が原因となる奇病がないわけではなかったが、そんなものは、例外中の例外である。魔王を倒したところで、多くの病気はなくなったりはしないだろう。
人と人との諍いは、そもそも、魔王とは関係がないではないか。
そう思えば、世界が抱える課題のうち、魔王を倒すことで解決できることは、いったいいかほどか。たかだか知れているのではないのか。
どうしてそんな簡単な理屈に、もっと早く、思いを致さなかったのだろう。
いっそ可笑しくて、笑えてきた。
「なるほど……魔界のが人界に迷惑をかけていたようだ。すまなかったな」
自嘲を浮かべていたヴィンセントは、ふとグレアスが口にした詫びに、心底面食らった。
「え?」
詫びを聞くとは思っていなかったから、不意のことに、まるまると目を瞠った。
一方のグレアスは、ふう、と、額を押さえて疲れたように嘆息する。
「かつて我ら魔族は、人間との軋轢が面倒になって、この地へと引っ込んだはずだったのだがな。いまでは、その頃の記憶を持つ者も少なくなった。おかげで、緩衝地帯付近の人間には迷惑をかけているようだ。申し訳なかった。以後もっとしっかり取り締まって、締め付けを強めることを約束しよう」
グレアスの言葉に、ヴィンセントは、はあ、と、間抜けな返事をする。そんなことを約束されても、自分は人界代表で魔界にやってきた外交官でもなんでもないのだが、と、そう思った。
だが、グレアスが真っ直ぐにヴィンセントを見ていたので、何も言えない。否、むしろこちらも、それに見合うだけの約束をしなければならないような気分になった。
「じゃあ……」
ヴィンセントは言いかけ、そこで一度言葉を切ると、すぅ、はぁ、と、ひとつ深呼吸をした。
「オレはオレで、人間たちのほうが無闇と魔物を攻撃しないように、意識改革をはからなきゃだな」
に、と、笑う。
「うん! やっぱオレ、ここまで来た甲斐があったわ。そうだよな、世界は思うほど単純じゃない。でもさ、だからこそ、オレでも変えられる部分がある。いや、オレが変われば、その変化のぶんだけ、ほんのちょっとでももう世界は変わってるんだ! オレだって世界の一部なんだからな。そっから何がどうつながって、世界が物凄くごろっと変わるかなんて、わかんねぇしな!」
「……ものすごく前向きだな、お前は」
グレアスはしばらく呆れた表情でヴィンセントを見詰めていたが、やがて口の端をゆるく持ち上げた。
ヴィンセントも笑った。
「なあ、グレアスだっけ? 魔王さま。オレ、あんたのこと、すっげぇ好きになりそうな予感がするんだけど! いや、むしろ、すでにすっげぇ気に入ってるんだけど!」
「それは光栄だ」
「なあ、あんた、オレと友だちになんねぇ? いいだろ?」
「そうだな。別に不都合はない」
グレアスが苦笑する。ヴィンセントは、腹の前で、ぐ、と、拳を握り込んだ。
「よっしゃ。じゃあさ、酒とかないの? いまオレ、酒とか飲んで、語り合いたい気分なんだけど」
「はは、なかなかに厚かましいやつだな。魔王に酒をねだるとは。まあ、あるから出してやってもいいが」
「ぜひ!」
魔王の言葉に、勇者は――もちろん本人が言ったわけではないものの、この後、魔界へ単身での侵攻に成功し、かつ魔王を追い詰めた功績を讃えられて勇者と呼ばれることになる冒険者ヴィンセントは――にんまりと笑った。
つられるように、嘆息しつつ、魔王グレアスも笑う。ヴィンセントは、魔王にそうさせるだけの不思議な魅力を持つ人間であったことだけは、たしかだったろう。
「言っておくが、俺は酒が強いぞ」
グレアスは酒瓶とグラスとを持ってきて、言う。
「はあ? オレだって弱くないさ。なんてったって、呑んだやつみんなぶっ倒れるって噂の酒だって、平気だったんだからな」
ヴィンセントは対抗するようにそう言い張ってみた。
とくとくとく、と、お互いグラスに透明な酒を注ぎ、リィン、と、鈴のような音を立ててグラスを合わせると、同時にぐいっと一気に呷る。
それから三日三晩、ふたりの酒宴は続いた。どちらも倒れることなく、楽しく呑んだ。語り合った。笑った。
「ってか、魔界の酒って、まっずいよな。こんなの、強いだけじゃん」
ヴィンセントは顔を顰めて言い、それから、がしっとグレアスの肩に腕をまわした。
「なあ、グレアス。あんたさ、今度いっかい、人界に来いよ。おすすめのうまい酒、ごちそうするからさぁ」
「そのうちな」
「絶対だぞ! そんときゃあ、今回はつきそうにねぇ飲み比べ対決の決着、つけようぜ」
「そうだな、それも悪くない」
「オレ、漁師なんだよ。新鮮な魚つってきて、そいつもご馳走してやるからな。それをつまみに、呑み明かそう」
「それはたのしみだ」
「だろ?」
ヴィンセントは太陽のように笑った。
そして、いつかの再会を約して、明るく手を振って魔界を去った。
それから、五十年――……ある日、ヴィンセントは、魔王グレアスに手紙を認めた。
『おいグレアス、人間のオレはそろそろ寿命も見えてきたぞ? 生きてるうちにとっとと会いに来いよ』
そして、鳥に魔法をかけて、魔界へと届くようにして送り出した。
『追伸 せっかくだし、ついでに人界の旅を楽しんでみたらどうだ?』
そうも書き添えて、物見遊山の参考にと、かつて自分が魔界を訪ねた旅の行き帰りについて記した手記も一緒に送りつけたのだった。




