終‐1 とある勇者の手記より。(前)
二十歳のとき、ヴィンセントは故郷である海辺の街アウロレアを離れた。
が、その選択をしたことに、これといったはっきりした理由があったわけではない。そのまま街に残って――街のほとんどの者たちがそうなっていくように――漁師になるというのでは、なんとなく、つまらないような気がしていた。それだけだ。
冒険者をやってみるつもりになったのは、とりあえず、外の世界を広く見てみたいという気持ちがあったからだ。加えて、自らの身体がそこそこ壮健で、運動能力も高く、魔法の才能にもわりと恵まれているようだという自負もあった。
当時、冒険者はそれなりに多かった。それだけ、彼らが相手にすべき魔族や魔物の人界への出没が多かったということだ。いちおう、そのことも、ヴィンセントがアウロレアを出て冒険者となったことに影響していたかもしれない。
世界はいつからか、人界と魔界とにわかれたのだという。
そして、人界と魔界との境界には、ふたつの地域の緩衝地帯となる森や山、海などがある。
そうしたところに近い街や村では、それなりの数の魔物による被害が報告されていた時代だった。
アウロレアは海辺の街で、その接する海である東海は、いちおう人間の勢力範囲だった。が、オリエンティアの海底には、人魚が暮らす都市がある。そこは魔界の飛び地だとされていたから、その意味では、緩衝地帯に近い場所だといえたかもしれない。
実際、オリエンティアからすこし南に下ったヴァントゥラ海は、魔界の海域との緩衝地帯となっている海だった。そこには魔物も普通に出た。そして、人々を恐怖させた。
ヴィンセントも時にそうした魔物退治に借り出されることがあったし、そういうときには大いに活躍もした。
そして、魔物を倒すたび、思ったものだ。魔物たちの総元締め、魔界の王を倒してしまえば、世界は平和になるだろうに、と――……若かったということもあり、思考が短絡的だったのだろう。
とにかく、ヴィンセントは、二十歳で故郷アウロレアを後にした。
冒険者として、魔王討伐を目標に掲げ、魔界の西の湖畔にあるという魔王城を目指すことにしたのだった。
旅は順調だった。
だが、旅の中で立ち寄った場所で、ヴィンセントは、人の世界にあまりにも自然に融け込み、人の隣人として生きている魔界の生き物がいることを知った。たとえばフィレンネルでは我が子のために花を降らせる太古の龍に出逢い、スプリングスではその街を支える温泉の源となっているのが焔の魔鳥だと気付いた。
そして、ふと、考えたのだ。
そういえば、故郷アウロレアの海には魔族サイレンが棲むといわれていたが、彼らが人を害したという話などとんと聴いたことがない。その歌は嵐を呼ぶ不吉なものだと言われていたが、歌声を聴いて海から戻り、嵐に遭わずに済んだ漁師たちは、いったいどれほどいただろうか。
そう考えてみると、サイレンもまた、人の隣人たる魔であるように思われた。
魔界とはどんなところだろう。
そこを治める魔王とはどんなひととなりなのだろう。
そんなことに、純粋なる興味が湧いた。
そして辿り着いた魔界は――……息をのむほど、うつくしかった。
まず目の前に広がったのは、マゼンタ色の空に蒼銀の月が浮かび、そこに黄金色の虹がかかっている光景だった。遠い山並みは紅く燃え、水晶の池の水面がきらきらと輝いていた。木々は白金の幹に金箔や銀箔のような葉をつけ、そこに風がふきつければ、さらさら、ちらちら、と、美しい音を響かせた。野原には極彩色の花が咲き乱れていた。
こんな世界の王とは、いったいどんななのだろう。魔王に対する興味は、ヴィンセントの中で、ますます募った。
ヴィンセントは魔界の奥へと進んだ。
魔物や魔族はいたが、ただ目の前を通っていくだけのヴィンセントにいきなり襲いかかってくるようなものは、ひとつもなかった。次第に、魔物と見れば見境なく攻撃していた自分たちのほうが、よほど理性のない生き物だったように思えてきた。
とりあえずここまで来たから、せっかくだし魔王には会ってみたい。
だが、対面がかなえば、その思い出を手土産に引き上げよう。おそらく彼を――彼女かも知れないが――倒す必要性などないだろう。
魔王城に辿り着く頃には、ヴィンセントは、もうそんなふうに思っていた。
が、そんな自分の考えがいかに思い上がった、愚かしいものであったか。そのことを、魔王とされる相手と対峙したその瞬間に、ヴィンセントは思い知る。
倒す必要性などない、だと――……愚かにもほどがある。
自分の思い上がった思考を、ヴィンセントは思わず鼻で嗤った。
倒せるわけがない。
目の前に現れたのは、自分とさほど変わらぬ年齢に見える青年だった。すらりとした長身を、黒い衣装が包んでいる。白い肌、鮮やかな紅玉色の眸。真闇を絹糸に紡いだような黒髪。整った容貌はどこか気品を感じさせるほどだったが、それでも、目にした瞬間に底知れぬ恐怖を覚えた――……否、あるいはそれは、畏怖だったのかもしれない。
威圧感が違った。
ひと目見て、桁違いの力の差を感じ取った。
ためしに斬りかかってみた。魔法での攻撃を叩きこんでもみた。
魔王は――あるいは彼は、そのとき退屈でもしていたのかもしれない――笑いながらヴィンセントの相手をしてくれた。斬り合い、また、魔力を使った攻撃を撃ち合った。
しかし、互角にやりあっているように見えるのは、相手が己の力を抑えているからだ。おそらく魔王はその実力の十分の一も出してはいなかっただろう。実戦形式の練習試合を楽しむような、そんな余裕が、相手の表情にはずっと浮かび続けていた。
「――あんた、めっちゃ強っえぇー!」
半日ほどやりあっただろうか。ついに、ヴィンセントは音をあげた。ばたん、と、無防備な仰向けでその場に寝転んだ。
しかし、相手はその隙にこちらを襲うようなこともない。必要なかったのだろう。最初から、相手には刺々しい戦意の欠片もなかった。ただ、たわむれ、遊んでいただけ。その遊びが終わったので、もう手を出してこなくなっただけだ。
ヴィンセントは、ふ、と、笑うと、がばりと身を起こした。
「オレはヴィンセント! あんたは?」
訊ねると、相手は困ったように苦笑した。
「グレアス」
「グレアスっていうのか。なんか恰好いいな。――って、なに笑ってんの、あんた?」
「いや……おかしな人間だなと思っただけだ」
そう言って、くすんと肩をすくめた。深い紅玉色の眸がすぅっと細められた。
ヴィンセントは、そうかな、と、首を傾げた。
「魔界へ単身乗り込んだ冒険者がいると聞いて、どんなやつかと思っていたが」
「んー、まあ、なんか魔物とか魔族とかって、こっちが攻撃しなきゃ、無闇やたらと襲ってきたりしないんだなーって。そうとわかったら、あとは散歩みたいなもんだったしな。っていうか、本気でオレ、ふつうに歩いてただけだったぜ?」
ヴィンセントは頭を掻く。
「はは、この魔界を散歩とは。やはり変わったやつのようだ」
魔王グレアスは、軽く声を立てて笑った。
「変っていやあ、あんただって、そうじゃねえ? だってさぁ、あんた、めっちゃ強いじゃん。なのになんで、世界征服とかしないわけ? 簡単だろ?」
「まあ、簡単といえば、そうだが」
グレアスはあっさり認める。
事実、この男がその気になれば、それこそ単身で人界に乗り込んで支配し尽くすことくらい容易なのではないだろうか。ヴィンセントは、剣を交えたときの感触を思い出すように右のてのひらを見下ろしつつ、思った。
「ちなみにさ、なんで……やらねぇの?」
してほしいわけではないが、興味が勝って、尋ねていた。




