有閑魔王に夜明けの歌を。(終)
「勇者ヴィンセント」
グレアスは相手の名を呼んで、肩をすくめた。立ち止ったヴィンセント老は、グレアスの顔を見ると、に、と、太陽のように朗らかに笑った。
「まったく、ちょうどいいところに来てくれたもんだ! 助かったぜ、グレアス」
相手もまた、グレアスの名を、気やすい調子で読んだ。
傍らでは、ジェイドが事態を呑み込めずに目を白黒させている。
「え……勇、者……?」
「あー、むかし、なんでかそう呼ばれてた時期があるってだけだ。気にすんな。それより、ジェイド。お前、ぼーっとしてねぇで、早いとこ、うちのアデルに薬のませてやってくれ」
ヴィンセントは、ぼんやりと立ち尽くすジェイドを叱咤するように言う。背からアデルを下ろし、砂浜に半身を横たえるようにさせた。
はっと我に返ったジェイドが、先程サイレンから受け取った薬を、慌ててアデルの口の中に入れた。すると、ヴィンセントは持っていた皮袋の口を開けて、手早くアデルに水を含ませた。
時を同じくして、遠く沖合から、か細い歌が響きはじめる。見ればサイレンたちである。歌われているのは、眠りの魔術を解くための呪文だ。
アデルを囲む皆が固唾を呑んで見守る中、程なくして、すぅ、と、アデルの目が開いた。瞼の下から現れた海のような蒼い眸で、アデルは自分を覗きこむ者たちの顔をぼんやりと見る。
「あれ、ジェイド……僕、どうしたんだっけ……?」
掠れた声でそう言った。
「アデル……目ぇ覚めて、よかった……!」
ジェイドが感極まったように言った。しかしアデルのほうは、まだちっとも状況が呑み込めていないのだろう。親友の様子に、不思議そうに瞬きを繰り返している。
「えぇっと……ヴィンセントさんも、なんで……? サイレンの件で、王都へ出掛けてたはずじゃ……」
「ああ、ちょうど戻ってきたとこだ。その件も……概ね片付いたようだしな」
ヴィンセント老は、養い子だというアデルに向かって、穏やかな笑顔を見せた。
「ジェイド、その薬、他にも倒れて眠ってるやつらのとこへ届けてやれ。サイレンが術を解いたから、皆、もう目を覚ましてるはずだ。あとは薬で病が完治すれば、何の問題もなくなる」
行け、と、街の若者に的確な指示を出すと、ふう、と、息をついて、老人は砂浜にどかりと座り込んだ。
「やれやれだな。――ほんと助かったよ、グレアス。ほっといたらサイレン討伐なんて話になりそうだったんで、慌てて王都まで行ってたんだ」
「やはり、国王軍がサイレンを攻撃しないよう根回ししたのは、お前だったのだな、ヴィンセント」
グレアスは、ふ、と、口許を綻ばせる。
「そりゃ、オレは、なんてったって魔王を親友に持つ男だからな。無闇やたらと魔を排除させたりできんだろ」
ヴィンセントは、にか、と、太陽みたいに笑った。
「そうだ、グレアス! ちょうど明日は夏至だ。うちの街の黎明歌、ぜったい聴いてけよ」
「ああ、もちろん、そのつもりだ。それも旅の目的のひとつだからな」
グレアスは変わらぬ男の笑顔を前に、ちらりと苦笑するようにして言った。
*
紺青色だった東の空が、ゆっくりと、淡い珊瑚色に染まりはじめている。水平線から陽が昇る。
水面が輝き、空が夜明けの色に滲んでいく。
大陸で最も早く朝を迎える場所、アウロレア――……暁を名に負う海辺の街である。
朝と夜とが入れ替わる狭間の時間に、この街の人々は、白砂の海岸に集っていた。汀に並んで立って、海の方へと視線を向けている。
年に一度、夏至の日の朝。その夜明けとともに、アウロレアの地で、オリエンティア海に向かって歌われるのが、黎明歌だ。
いつ、誰がはじめたとも知らない儀式なのだという。否、儀式という言葉は、かえってそぐわないのかもしれない。
それは、海辺に生きる者たちの、ごくごく自然な祈りの営みなのだ。
グレアスは砂浜に立って、その光景を眺めていた。
歌詞のない歌がうたわれている。
だが、歌詞がないといっても、それは人間の言葉ではないだけのことだった。かつて、誰かが聞いたサイレンたちの歌声を写して、それは歌い継がれてきたのかもしれない。
「『さいわいあれ』」
グレアスも、思いついたように、その音色を口ずさんだ。
「『さいわいあれ。この海に生きる者。この一日がよきものでありますように』」
子供たちが、汀から海へ向かって貝殻を投げ入れていた。それも、毎年行われている行為なのだろうか。それとも、今年は、海の隣人への感謝を伝えるために、特別に為されるのだろうか。
アデルをはじめとして、疫病に倒れて眠っていた者たちも、薬で恢復し、いまはみなこの場にいるはずだ。
グレアスはゆったりと目を細めた。朝のさわかやな空気の中を、心地好い潮風が吹いてくる。
ざぁん、ざぁあぁん、と、潮騒が、永遠にやまぬ音楽のように響いてくる。
そのとき、ふと、沖合いに、いくつもの影が浮かび上がった。
夜明けの空のような藍色の髪、月の光のような眸。肌は真珠のように、内から淡く光を発するかのようなうつくしさだ。もちろん、サイレンたちだった。
周囲が一瞬、ざわめいた。
だが、そこに広がるのは、畏怖ではあっても、恐怖ではない。
アウロレアの人々の歌は続く。そしてそこに、不思議な声音が入り混じった。
透き通った、しずかな声――……どこまでも沁み渡っていくような、サイレンたちの歌声だった。
海は優しく、海は怖い。恵みをもたらしもすれば、ときに、理不尽に奪いとっていきもする。それでも、アウロレアの民は海と共に生きていく。そんな彼らの傍らには、これからも、サイレンたちの歌があることだろう。
夜が明けてゆく。
陸も海も、いっしょくたになって、淡い光に包まれる。
「うん、聴けて良かった。実に良い歌だ」
旅の目的のひとつを果たしたグレアスは、しみじみとつぶやいた。
「だろう? そりゃあ、オレの故郷の自慢だからな」
隣に立った旧知の友――勇者ヴィンセントが、朗らかに笑いながら、胸を反らすようにしてそう言った。




