有閑魔王に夜明けの歌を。(11)
『この薬を、わたしくしたちがアウロレアの民に? ……ですが、それでよろしいのでしょうか?』
まるで手柄を横取りするようで気が咎める、と、サイレンの長ネレイラリュティアは困惑顔だ。
「なに、そうしてもらうのが俺にとっても都合がよいというだけのことだ。気にするな」
グレアスはちらりと苦笑して言った。
あの後すぐ、再び海底都市を訪れたグレアスである。そこでネレイラリュティアに依頼したのは、バルスロイからせしめた疫病治癒のための薬を、サイレンたちの手で届けてやってほしいということだった。
そうすることで、いまアウロレアの者たちがサイレンに対して抱いている悪感情を払拭することができるだろう。もとの、畏れは感じていながらも排除したりはしない距離感を、取り戻せるのではないだろうか。
嵐を呼ぶ歌声の主。その不吉な歌が聞こえれば、漁師は海から逃げ帰る。けれども、だからこそ、荒れる海に呑まれることにはならずに済む。そして、不思議な隣人をなだめ、なぐさめるため、人々は彼ら彼女らにうつくしい貝殻を贈る。
そんな在り方に戻るためには、ぜひとも、サイレンの手によって事態が解決に向かうという演出が必要だった。グレアスが言うと、ネレイラリュティアはこくりと頷いた。
『わかりました……グレアスさまが、そう仰せなら』
「協力に感謝する」
『それはこちらの言葉ですわ。ですが、いま浜辺には、騎士や、武器を持ったアウロレアの民が集まっている様子です。わたくしたちが姿を見せても、大丈夫でしょうか?』
サイレンが病の原因だと思われているのだ。海辺へ出て行った途端に攻撃されるのではないのか、と、サイレンの長はそれを案じるようだった。
「心配ない。――そう、国王軍は……決してサイレンを攻撃しないはずだ。そなたらが敵ではなく隣人なのだと知っている者から、話が通っていることと思う」
グレアスが言うと、ネレイラリュティアは不思議そうに淡い金の眸を瞬いた。
グレアスは、ふ、と、笑う。
「アウロレアの民のほうは、俺がなんとかする。ひとり、知り合いの漁師の青年がいるんだ。その者に働きかけよう」
『わかりました』
うまく取り計らうことを約束すると、ネレイラリュティアはもう一度うなずいた。
*
それからすぐ、グレアスは浜辺へと戻った。アウロレアの海岸には、まだ騎士やアウロレアの民たちが物々しい様子で並んでいる。その中から、ジェイド青年を見つけ、その傍へと歩み寄った。
「あ、アンタ……!」
ジェイドは、グレアスの姿を見とめると、はっとしたように駆けてくる。
「なんとかするって言ってたけど……大丈夫なのか、これ? なんかさっき、沖に変なものが群れてそうだった……いまは見えなくなったし、サイレンでもなさそうだったけど、あれって、別の魔物じゃないのか? アウロレアは、どうなっちまうんだ……?」
不安からなのだろう、矢継ぎ早に言葉を畳みかけてくる。グレアスは、まあ落ち着け、と、苦笑しながらジェイドを宥めた。
「沖を見てみろ。じきにサイレンたちが来る」
「え?」
「お前たちに害を為した魔は退けられた。疫病に効く薬を持ってきてくれるはずだ」
グレアスが宣言すると、ジェイドは、信じられないというふうに丸々と目を瞠った。
「なんで……」
ジェイドは、なぜグレアスがそんなことを知っているのか、それを訊ねたかったのかもしれない。しかしグレアスは、敢えてはぐらかすように肩をすくめた。
「さて……サイレンたちはお前たちの永の隣人だからだろうかな」
やがて、沖の波間が盛り上がる。現れたのは数頭のサイレンだった。
そうかと思うと、彼らは再び、銀の水晶のように輝く水しぶきを上げつつ水中へと潜り、まるで波の合間をすり抜けるように、今度はさらに浜辺へ近づいた場所にふわりと浮かび上がった。
アウロレアの民たちは一瞬ざわめき立ち、手にしている銛などを握り直した。が、騎士たちは、剣を手に油断なくそちらへ眼差しを向けてはいるものの、攻撃に移る様子はなかった。
グレアスは、自分の想像がどうやら的を射ているらしいことを悟って、目を細める。そして、ジェイドのほうを見た。
「ジェイド青年、お前、行ってサイレンから薬を受け取ってくるんだ」
「え? 薬? って、オレが?」
「そうだ。心配しなくていい。彼らは、永くお前たちとこの海で共に生きてきた、隣人なのだから……きっとお前の親友を助けてくれるだろう」
さあ行って来い、と、もう一度促すと、ジェイドは一瞬、まだ戸惑うような顔でグレアスを見上げた。
が、こちらが穏やかに笑いながら、ひとつ頷いてやると、それで決意を固めたようだ。すぐに汀に向かって駆け出して行った。
パシャパシャと水しぶきをあげながら、サイレンのほうへと近づいていく。かなり深いところまで、水に入っていく。
沖のサイレンたちの先頭にいるのは、昨日まさにジェイドから矢を射かけられた女のサイレンだった。が、彼女はジェイドが傍近くへ駆けていっても、逃げるような素振りを見せない。
彼女は、青年が距離を詰めるのを待っている。じっとジェイドを見詰めている。
そして、その白くうつくしい手を、ゆっくりと持ち上げた。
青年に向かって無言で差し出されたたおやかな手には、ひとつ、貝殻が載っている。暁、陽が昇る刹那の神秘的な海のような色合いの二枚貝だった。その中に、丸薬らしきものが入っているのがわかる。
ジェイドはサイレンの手からそれを静かに受け取った。そして、まるで礼と詫びとを兼ねたように、深々と頭を下げた。
ジェイドが踵を返し、砂浜へと戻って行くのを見届けたサイレンたちは、もといた沖のほうへとゆっくりと泳ぎ去って行く。
浜辺に立つ者たちは、誰もかれも、ぽかんとしてその光景を見守っていた。
彼らの様子を眺めやったグレアスは、ふと、アウロレアの街のほうからこちらに向かっているらしき人影に目をとめた。
「ああ、来たか……さすが、絶妙のタイミングだな」
ひとりごちて、くつ、と、喉を鳴らした。
ジェイドが砂浜へと上がってくる。そして青年もまた、グレアスが眼差しをやるほうへと視線をむけて、はっと息を呑んだ。
「爺さん……! アデル……!」
そう、いまちょうどこちらへと向かってきているのは、ジェイドの親友アデルを背に負った、ひとりの老人だった。
とはいえ、その身は頑強そのものである。アデルを背負った状態でありながらも、すこしの危なげもない足取りで、こちらへと歩んでくる。
グレアスは目を細めた。
昨日、アデルの家にあるものを見たとき、確信していた。
漁師の家にあるにしては似つかわしくない、古びた地図入れに、剣の鍔。なにより、テーブルにはフィロ・ドラクラの乾燥花が飾られ、壁にはストニアの種のペンダントが吊るされていたのだ。
それならば、あの家に棲むのは、この男以外にありえないではないか。
「久しいな――……勇者ヴィンセント」




