有閑魔王に夜明けの歌を。(10)
グレアスが転移したのは、アウロレアの砂浜の上空だ。
遥か足下では、汀の砂を舐めるように、打ち寄せては返す波の永遠の営みが繰り返されている。小さな巻貝が波に洗われるように転がっていた。
グレアスは陸地のほうへと眼差しを向けた。
石畳の路を、馬に乗ってこちらへと駆けてくる、甲冑姿の一団が見えている。金属が擦れる独特の音を、グレアスの耳は捉えていた。
胸甲の獅子の紋章は、国王軍の証だ。ざっと三十ほどいるだろうか。
魔物が目撃されたのを受けて動いたとしたなら、ずいぶんと早い。転移の魔法を使ったのかもしれない。
対魔の大規模な戦闘を想定しているにしては人数が少ないのは、おそらくは、移動手段による制限のためなのだろう。人間の魔法では、そこまでの大人数を送ることは出来ないはずだ。距離が離れればなおさらだった。
騎士たちがアウロレアの街中を駆け抜けていく。
家々から、様子をうかがうように、住人達が姿を現した。中には、手に銛などを持って、騎士の後に続く者もいるようだ。
向かうのは白砂の海岸である。
「まったく……」
グレアスはちいさく溜め息をついた。
海上に目を移せば、こちらにも動きがある。
ざわざわと蠢きながら陸地へと迫る、へどろの塊みたいなものだった。魔物たちだ。
グレアスに恐れをなすようにいったん退いていたものが、再び戻ってきたものとみえる。海の底へと逃げ戻ったのを、主に叱責されでもしたのだろうか――……否、今度は、魔物の群れを率いている者が存在するようだ。
「バルスロイ」
魔物をけしかけ、人と争わせようとした企みを邪魔されて、今回は自分が出てくることにしたらしい。あの程度で怒り心頭となり、相手如何に関わらず表に出てきてしまうようでは、その程度も高が知れている、と、鼻で嗤う。愚かなことだが、こちらとしては好都合だった。
「とっとと片付けるとするか」
グレアスは海辺の清掃活動でもはじめるかのような軽い調子で口にした。
振り返ると、騎士団は早くも砂浜に到着し、展開していた。さすがは国王直属の部隊だけあって、無駄のない、洗練された動きである。
その後ろには、何人かのアウロレアの人々が、武器になるようなものを携えて並んでいた。
グレアスは、その中に、漁師の青年ジェイドの姿をみつけた。
だが、出逢った際には問答無用でサイレンを攻撃していた彼は、いまは、その際に使っていた弓矢を持っている様子がなかった。居ても立ってもいられず出てはきはしたが、昨日グレアスが語って聞かせたことが効いているらしい。他のアウロレアの人々とは違って、海の隣人に敵意を向けることに、いまのジェイド青年は戸惑いを覚えるのだろう。
グレアスは、ふ、と、口許をゆるめた。
「青年のためにも、可及的速やかにけりをつけねばな」
グレアスは、ぱちん、と、ひとつ指を鳴らした。すると、目の前に、海の泡のようなちいさな球体が現れる。ふよふよ、と、形を変えつつ揺らめいたそれは、グレアスが瞬くと、一挙に巨大化した。
沖に展開し、迫りくる魔物の一群を呑みこんだところで、球体は巨大化を止めた。
空間が仕切られる。外界と隔てられる。透明な膜に包み込まれたその内側は、音もなく、魔界の昼間のように、やや赤紫がかった薄闇が満ちていた。
球体の天辺付近に浮かんでいるグレアスは、そこから足元を見下ろした。
「南海公バルスロイ、これ以上の勝手は許さんぞ」
どすを聴かせた声が、空間内に響きわたる。その声だけで、結界の内側の空気はびりびりと震えるようだった。
「そんなんだから振られるんだ。挙句、こんな大層な八つ当たりとは……まったく、愚かしい」
グレアスが吐き棄てると、魔物たちを追い立てるように背後に控える位置にいたバルスロイが、ぴく、と、眉を動かした。
「黙れ! 貴様ごときに我が胸の痛みが分かるものか……!」
「わからんよ。俺は振られたりしないからな」
「っ、はぁ? 舐めてんのか、貴様!」
「舐めてはいない。いや、舐めているか? お前ごとき、俺の相手になどならんことは、最初からわかりきっているからな。あと、俺が振られないのは事実だから仕方がない」
グレアスは、に、と、不敵に笑った。
ぱちん、と、また指を鳴らす。途端に、グレアスの足元の空気が粘度と重さを増す。
ずん、と、重しでも乗せられた気分だろう。あるいは、大きな手にでも、思い切り押さえつけられたような感じかもしれない。バルスロイの前にいた魔物たちが、海面に押し付けられ、そのままずぶずぶと水中に沈められ、喚き、喘いだ。
「……くそっ、なにをする……っ!」
「何って、掃除だよ、掃除。清掃活動だ。これから俺は、この地で行われる儀式を見物する予定なんでな。海辺にごみは落ちていないほうがいいだろう? 清掃の勤労奉仕をしようというわけだ」
小馬鹿にしたようにグレアスが言うと、挑発に乗っていきり立ったバルスロイが、腰にある剣を抜いた。
グレアスがかけている圧力の中でも、立ったままの姿勢を保ち、剣を持ち上げるのはたいしたものだ。南海公と呼ばれるだけのことはあって、そこらの魔物や魔族に比べれば、それなりの力はあるということなのだろう。
が、グレアスの敵になるはずがない。
グレアスは紅玉の眸を眇める。
刹那、その姿は残像だけを残して、もといた場所から消えていた。
現れたのはバルスロイの目の前だ。グレアスは容赦なく、バルスロイの腹を蹴り飛ばした。
次は、相手の身体が吹っ飛んだ位置に転移して、踵落としで海面へと叩きつける。ついで、その頭を鷲掴みにして、片手で掲げるように持ち上げた。
「さて、バルスロイ。何をすれば俺の寛恕が得られるか、わかるな? その程度の賢明さは持ち合わせがあるはずだと思ってやっているうちに、出すがいい」
グレアスは凄んだ。
「お前の魔術による疫病など、本来、瞬きする間にどうとでも出来るし、やってもいいのだがな。それでは、アウロレアの民がサイレンたちに悪感情を向けたままになるやもしれん。それはぜひとも避けたい。事態回避のためにも、俺は、お前が治療薬を出してくれることを期待しているのだが……どうだ、バルスロイ?」
グレアスが言うと、バルスロイは眉間に皺を寄せ、呻いた。
残念ながらまだ反抗的な視線をしている相手に、グレアスは、はあ、と、嘆息する。
「出さんのか? では、仕方がない。今回のことで、サイレンの長どのはたいそうお困りのようだったからな。アウロレアの民が疫病で命を落とすことになるよりは、自分たちは嫌われたままでも民が助かることを、彼女ならば望むことだろう。――……ふむ、こうなっては、とっとと俺の魔術で治癒してしまうべきだな。ネレイラ殿もきっと、俺に感謝されるに違いない」
グレアスが、ふ、と、笑って言ったときだった。
「っ、ネライラリュティアを気安く呼ぶな!」
バルスロイが叫ぶように怒鳴った。
それを聞いたグレアスは、不快げに眉根を寄せる。
「何様だ、お前は。彼女をどう呼ぶかは、彼女と、彼女を呼ぶ者との関係の中で決まるものだ。お前がどうこう口を挟む問題ではない。そんなふうに、一個の存在としての彼女を尊重できず、彼女の気持ちや立場を慮れず、己の想いのみを優先し、己ばかりを押し付ける。そんなやつが好かれるわけがなかろうが。その末の愚行、若気の至りとはいえ、度を越せば看過しがたい」
お前なぞこのまま跡形もなく消し飛ばしてやってもよいのだぞ、と、グレアスは紅玉の眸の奥にほの昏い光を宿して、低い声で言った。
バルスロイが、うぅ、と、言葉に詰まる。その顔が歪む。
「だ、だって……おれ……」
「これだけ傍迷惑なことをしでかしておいて、だってとは何だ、だってとは。ふざけるなよ。――ほら、わかったら、とっとと寄越せ」
グレアスが溜め息をつきながら手を出すと、ようやく観念したのか、バルスロイは疫病治療のための丸薬が入った袋をこちらへと手渡した。
グレアスはそれを懐に仕舞うと、はあ、と、大きな溜め息をついた。
「――ザフィエ。お前、来てるなら高みの見物などしてないで手伝えよ」
グレアスが呆れたように何もない空間に向かって声をかけると、不意にそこが縦に避けて、蒼銀の髪の魔族が姿を見せた。グレアスに向かって、にこ、と、笑う。
「すみません。かえって邪魔かなと思いまして。とりあえずお詫びに、後片付けは私がしておきますね」
まるで悪いなどとは思っていなさそうな側近のその言葉を合図にしたように、銀糸の繍のなされた黒衣を纏った一団が場に現れた。
ザフィエの下僕たちである。彼らは、グレアスに海に沈められたままになって、じたばたしている憐れな魔物たちを、てきぱきと捕縛しはじめた。
それを確かめたグレアスは、バルスロイを、ぽいっ、と、ザフィエのほうに無造作に投げた。
こちらの意を察したザフィエは、南海公の身をさっと拘束する。
「お友達もついでに、私の下僕にしましょうかね」
にこ、と、美貌の青年魔族に微笑みかけられ、バルスロイは大きな恐怖を感じたのか、頬を引き攣らせた。
「こっちは任せたぞ。俺は人間たちのほうの後始末をつけてくる」
グレアスは言うと、結界を畳んで、その場からすっと姿を消した。




