有閑魔王に夜明けの歌を。(9)
頭の上に、まるで天井のように、水面が見えている。それはきらきらと輝き、あたかも礼拝堂のステンドグラスのごとくである。あるいは、無数の宝石を敷き詰めてあるみたいだ。
射し込んでくる光は透明な蒼だった。幾条もの光の柱が、しずかな海の底に立ち並んでいた。
海底の砂は、アウロレアの海辺と同じような白砂である。そこに、紅色珊瑚が杜をつくっている。
色とりどりの魚が泳ぎ、さまざまな貝が息づいているそこは、地上の都市とはまるで違う、幻想的な楽園のような場所だった。
水面へと浮かび上がっていく泡が、きらきら、と、銀の水晶のように輝いた。
白砂の上に築かれた建物は、どれもみな、夢のように美麗な貝殻で飾られていた。星月夜のような貝、真昼の空のような貝、あるいは夜明けのような貝。薄紅色の、繊細なかたちの巻貝が、吊るしランプのように提げられているところもある。
巨大な赤珊瑚を柱にした楼閣があった。透き通った青い玻璃のドームがあった。
そして、建物群の中央には、真珠色に輝く水晶の塔がそびえていた。
音はない。
否、水底にはずっと、かすかな歌声が響いているような気がする。誰かが歌っているのか、あるいは、それは都市をたゆたうように巡る水の流れが生み出した歌なのかもしれなかった。
夜のやさしい静謐に似た旋律の中を、グレアスは、塔のほうへ向けて歩んでいった。グレアスの歩みに合わせ、魚たちが、傍を泳いだり、あるいはぱっと散ったりする。鱗が、きらきらと輝く。
グレアスの身体は魔力のヴェールで包まれており、地上にいるときと同じように動くことが可能だ。こんな危急のときでなければ、この壮麗な都市見物を思う存分楽しむのに、と、心底残念でならなかった。
しばらく進むと、中央の水晶の塔の入り口が見える。そこに誰かがいる。
透けるような長い銀の尾びれがひらりひらりと揺らぐ様がうつくしい。人のそれと同じかたちの上半身を覆うのは、水面に反射する青味を帯びた光を糸に紡いで織りあげたような薄布だ。
長い髪は海の波の如き、深く、それでいて鮮やかな藍。眸は海に反射する月の光でつくった宝石のようだった。
そして、細い首には、貝殻を連ねた首飾りをつけている。
『ようこそおいでくださいました、グレアス=オーギュスト。お運びに心より感謝いたします』
歌うように――比喩ではなく、まさしく歌そのものを言葉として――彼女はグレアスに言った。ゆっくりと、丁寧に、頭を下げる。
『わたくしはサイレンの長、ネレイラリュティアと申します。どうぞ、ネレイラとお呼びになってくださいませ』
「ネレイラ殿。――では俺のことも、ただグレアスと」
グレアスは相手に優雅に礼を返した。
『突然お招きした御無礼を、どうぞご容赦くださいませ、グレアスさま。昨日、一族の者が海辺でお姿を拝見したと申しまして、それで』
ネレイラリュティアが言うのは、グレアスが貝殻投げをした際、水面に姿を見せたあのサイレンのことだろう。今日、長の伝言を携えてやってきたのも同じサイレンだった。
『厚かましいお願いとは存じますが、ぜひとも、わたくしたちにお力をお貸しくださいませ』
ネレイラリュティアが切実な眼差しでグレアスを見詰めた。
「バルスロイとの件だな」
グレアスが言うと、こくり、と、ちいさく頷いた。藍色の髪が、ふわり、と、なびく。
『まさか、こんなことになるなんて……』
サイレンの長は、細く形よい眉を困惑げに顰めた。
「聞く限り、そなたは悪くないようだ。南海公バルスロイが、勝手に暴走しているだけだろう」
責任を感じる必要はないのでは、と、グレアスはネレイラリュティアを慰めた。
『ですが……わたくしがもっとうまく立ち回っておればと、いまは悔いるばかりです。アウロレアの民にも、迷惑をかけてしまいました。関係ないのに、理不尽に巻き込まれてしまって……』
「それも、巻き込んだバルスロイが、第一義的に悪い。そなたらは、眠りの魔術を使って、いまも人を守っているではないか」
何人もの人間を、衰弱させぬよう、けれども病を進行させることもないように、絶妙な均衡で眠らせておく。それには、かなりの魔力を消費するに違いない。
それだけの力を、いま、サイレンたちは人のために使っているのだ。人のために、せいいっぱい、献身している。
『わたくしたちは、かつて人界と魔界とが分かたれたとき、それでもこの東海オリエンティアに……人の傍らに、残ることを選んだ一族です。以来、アウロレアの民の隣人として、長く、共にこの海で生きて参りました。ですから、今度のことも、当然のことをいたしたまでのこと。もともと、わたくしのせいでもあるのですし』
ネレイラリュティアは静かに言った。
『でも……此度のことをきっかけに、もう、人とは共にいられなくなるかもしれない。いまの彼らはきっと、わたくしたちを恐れ、恨んでいるでしょう』
サイレンの長はかなしそうに息をつく。
積極的に手を携えあっているわけでは決してない。ただ、同じ場所で生きる者として、このうつくしいオリエンティアの海を共有する仲間として、サイレンとアウロレアの民とは、つかず離れず、絶妙の距離感を築いてきていた。
その心地好い関係が毀れてしまった。そのことを、ネレイラリュティアは嘆いているようだった。
「いまは誤解があるだけだ。それが解ければ、きっと、またうまくやっていけるようになるだろう」
ふ、と、紅玉の眸を細める。
『そうでしょうか……?』
ネレイラリュティアは、憂わしげな眼差しを、グレアスに向けた。
「我ら魔の者と、人とは、違う。まあ、魔と魔だろうが、人と人だろうが、それぞれ別個の存在である以上、違うといえば違うのだが」
『グレアスさま……?』
ネレイラリュティアは、グレアスが何を言おうとしているのか、その意図をはかりかねるようで、不思議そうに目を瞬く。グレアスは、ちら、と、苦笑めいた笑みをくちびるに浮かべた。
「誰も彼も、理解し合えないのが、普通だ。わかりあうなど、幻想だ」
くすん、と、肩をすくめる。
「だがな、その前提のもと、それでも理解に近づこうとする営みを、俺は、尊いと思う。あるいは、理解できずとも、わからないならわからないなりに、それでもうまく付き合っていく態度こそ、叡智だというべきか」
グレアスはラリマールの原石のような、頭上に広がる水面を見上げた。
「理解できないものを、理解できないことを理由に拒否したとき、そこに分断が生じる。争いが起こる。だが、そなたらは……オリエンティアの海のサイレンとアウロレアの者たちとは、そうはしなかった。人と魔でありながら、決して深く理解しあっているわけではないながら、それでもずっと、絶妙にうまくやってきていた……それを、俺は、うつくしいと思う」
ふ、と、グレアスは笑った。
「だから決して、毀させはしない。この俺が」
大丈夫だ、と、グレアスが請け負ってやると、長い睫が縁どる眸をはたはたと瞬いたサイレンの長は、しばらくしてその目を細め、ゆっくりと頷いた。
「人が軍を動かすかもしれんが、そなたらには、武器をとらないでいてほしい。人を攻撃せず、堪えてほしい。敵意を向けられれば恐ろしいだろう。だが、向こうにも、絶対に攻撃させはせぬ。俺を信じて……静観してくれ。頼む」
グレアスは丁寧に頭を下げた。
『はい、グレアス=オーギュスト……あなたさまの仰せのままにいたします』
ネレイラリュティアは、ふわりと微笑んだ。グレアスは、うん、と、頷いた。
そして、ふと、サイレンの長を飾る首飾りに目をやる。
「素晴らしい首飾りだな」
グレアスが目を細めると、ネレイラリュティアは連珠を手に取って、たおやかな指先で、いとおしげに撫でた。
『ありがとうございます。人の子がくれるのです』
「うん。――なあ、ネレイラどの。そなたらサイレンは、なぜ、かつてこの東海に残ったのだろう? わざわざ人の傍に暮らす道を選ばずとも良かったはずなのに」
そもそも人界と魔界とが分かたれたのは、人と魔との間で摩擦が絶えなかったからだ。そんな時代に、それでもサイレンは、人界の中にある魔界の飛び地として、オリエンティア海で生きることを選択した。
『ずいぶんと昔のことですから、わたくしにもはっきりとはわかりません。ですが……人はときどき、わたくしたちに綺麗な貝殻をくれるのです。そのうつくしい贈りものが、わたくしたちは、とても好きなの。時おり聞こえてくる、漁師たちの舟唄に耳を澄ませるのも、好き……だからかも、それません』
サイレンの長のその答えに、グレアスは柔らかく笑った。
「なるほど、いいな。――そう、それでいいのだろう。理解しあえずとも、何者かと何者かが、うまく繋がって回っている……それがこの世界だ」
目を細める。
「さて……そなたたちと人との関係を毀させぬためだ。俺は、おいたを仕出かした愚か者を懲らしめにいくとするか」
グレアスは低く唸るようにつぶやいた。紅玉の眸の奥に、一瞬、昏い焔のような光が宿った。
「では失礼する、ネレイラ殿。ぜんぶが片付いたら、いずれまた、ゆっくり訪ねさせてもらおう」
その際は、今度こそ思う存分に海底都市を観光しようと思いつつ、グレアスは目を閉じた。その瞬間には、もう、その姿は海の底から掻き消えていた。




