有閑魔王に夜明けの歌を。(8)
足元には澄んだ蒼い海が広がっている。グレアスは、片手に載せた魔力の塊を、ほんの軽く押し出すような仕草で、アウロレアの海岸へと迫る魔物の群れのほうへと投げやった。
その刹那、空気が変わった。
風圧に似たものが、海と陸とを駆け抜け、呑み込むかのようだった。それなのに、辺りは凪のように、しん、と、静かだ。
静謐そのものが、とてつもない重みを持っていた。
犇めき合っていた魔物たちが、ざわめき、さんざめき――……そして次の刹那、怯えるようにわずかに後じさった。
彼らは知っているのだ――……畏れるべき対象を。
グレアスは畳みかけるように、けれども静かに、力を撃ちこむ。今度は、パァン、と、何かが弾けるような衝撃があった。
海が沸騰したかのように、烈しく波立つ。泡立つ。
かと思うと、波打つ水面はあたかも壁のように隆起し、透明な城壁のようになって、魔物のたちの進路を妨げた。
魔物たちがそれに怯むとみると、続いて、ざぱぁん、と、群れに向かって容赦なく倒れ込む。魔物たちは水の塊に呑みこまれ、揉まれ、沖のほうへと押し返された。
グレアスが駄目押しのようにそちらへと紅玉の眼差しを向けると、無言の威圧を感じとったのか、彼らは海の底へと退いていった。
なにが起きたのかわからず、騎士たちは呆気にとられている。だが、もちろん、彼らは無傷だ。
とりあえず、朝っぱらからの、のっぴきならぬ衝突というは、いったん避けられたようだ。とはいえ、大挙して陸地に押し寄せる魔物の姿を目撃されてしまった以上、この先の展開も決して楽観視はできなかった。
「誰だ、魔物をけしかけたやつは……前面衝突など真っ平だぞ、俺は。面倒くさい。――ったく、せっかく気楽な遊山中だというのに……」
どうやら本格的に仕事をしなければならない気配を感じ、グレアスは久々に疲れた溜め息をついてた。
『グレアスさま』
ちょうどそのとき、側近の声が頭の中に響いてくる。
グレアスは浮かんでいた空中からゆっくりと高度を下げ、波間に浮かぶ巨岩の上へと降り立った。そこに腰掛け、海の彼方へと視線をやりつつ、ザフィエの声に応答する。
「どうした? 俺はいま忙しい」
『おや、休暇中のあなた様が、私たちよりもですか?』
そんな厭味を返されて、グレアスは口を曲げた。
「のんびり遊山とばかりも言っておれなくなったのだ。残念なことにな」
溜め息をつくと、そのようですね、と、ザフィエは応じた。どうやらグレアスの側近は、アウロレアで起きている事態をそれなりに把握済みであるらしい。
『その件で、少々お耳に入れたいことがございまして』
「なんだ?」
『私の新たな下僕候補が、下僕調教の最中、たいへん興味深いことを口にしたのです。アウロレアの疫病の件と関係がありそうな魔族について』
ザフィエはしれっと口にするが、そこにいたるまでに、先日グレアスが捕らえた魔族に対して、彼はいったいどんな苛烈で拷問染みた教育を施しているのだろうか。グレアスは、どうやら口を割らされたらしい魔族に少々ばかり同情しつつ、ふう、と、嘆息し、ザフィエに話の先を促した。
「誰だ?」
『ご想像のとおりで、間違いないかと』
ザフィエの寄越した返答はそんなものだったが、グレアスにとっては、それで十分だった。もとより、犯人について、まったく予想が立っていなかったわけでもないのだ。
「南海公バルスロイだな」
『ええ』
グレアスがうんざりした調子で言うと、ザフィエは短く肯定した。
『うちの下僕候補は、どうやら彼とおともだちのようでして。いろいろと話を聞くことができました』
ザフィエの言葉に、そういえば、と、グレアスは思い起こす。フィレンネルの街の上空で捕らえたとき、南海公がどうとかこうとか言っていたような気がする。類は友を呼ぶというが、身の程を弁えないろくでなしども同士つるむなよ、鬱陶しい、と、舌打ちしたい気分だった。
「バルスロイの目的は何だ? いまさら人間と戦争でもするつもりなのか? それとも気紛れのお遊びか?」
魔族は一般に領土的野心は強くない。生態上、生きるための食料生産や狩りなどが必須ではないためか、広い土地を領有することに対する執着、こだわりが、あまり存在しないのだ。種族や一族で群れていない者は、特に、そうだった。
その一方で、中には己の力の誇示になによりも喜びを感じたり、何かをいたぶることに楽しみを覚えるような嗜虐趣味を持っていたりする者も、存在していた。そういう魔族が時に人間をおもちゃのように弄ぶことがある。
アウロレアに疫病を撒いてみたり、人間の海域であるオリエンティアにまで魔物を送り込んだり、いったい、バルスロイは何をしたいのだろうか。
「お前の下僕は何を吐いた。聞き出せたことがあるなら教えろ」
グレアスは鋭く尖らせた視線を遥かレーノス海の方角へとむけつつ、ザフィエに訊ねた。
『たぶん、いやがらせですね』
側近が短く答える。
「は……?」
グレアスは形の良い眉をぴくりと動した。
『うちのが聴いた話によると、南海公バルスロイは、近頃、失恋したのだそうで』
「失恋だと?」
『ええ。サイレンの長さまに一目惚れして告って、ついでにあっさり振られたんですって。で、自分を振った相手への腹いせで、相手の平穏な暮らしを邪魔してやろうってんですから、まさしく嫌がらせでしょう? それ以外に表現のしようがありません。サイレンは、隣人として、アウロレアの民をいつくしんでいる面がありますからね。それで、そこに手を出した、と。人間がサイレンを憎んだり、彼らと争いになるようなことになれば、溜飲が下がるとでも思ってるんじゃないですか?』
心底嘲るような口調でザフィエが言った。
「………………馬鹿なのか?」
グレアスは額を押さえた。南海公が聞いて呆れる、と、思う。
「くだらなさすぎるではないか」
深い溜め息をついた。
『ええ、まったく。まあ、十中八九、馬鹿なんでしょうね』
ザフィエも嘆息したようだった。
『ただ厄介なのは、アウロレアの件が、すでに人界では王都にまで伝わっているようだということです』
「しかもさっき、騎士団には魔物の群れを目撃されたしな」
今回は領主が派遣した騎士団だったようだが、もし危機感が高まれば、次に動くのは国王軍ということになるのだろうか。
そして、そうなったとき、サイレンたちはどうするだろう。これまで人間と争ったことがない種族とはいえ、殺気立った人間たちが海岸に犇めけば、さすがに応戦態勢を整えるかもしれない。
万一、人間とサイレンが一触即発などといった状況に陥ったら、グレアスとてこのまま暢気に物見遊山をしているわけにはいかなくなるではないか。
グレアスは、はあ、と、大きく息をついた。
「だが、まあ……国王軍のほうは、あいつが何とかしてくれる、か……?」
グレアスは、海とは反対の、王都のほうへと紅玉の眸を向けた。
『なにかお考えが?』
グレアスの独白を聞きとがめ、ザフィエが怪訝そうにした。
グレアスは、いや、と、曖昧な返事をして首を振った。
「とりあえず、いま俺が働きかけるべきは――……」
ラリマールの原石のような海へと眼差しを投げたそのとき、グレアスが腰掛ける岩のわずかに先の水面が盛り上がった。
『尊厳王』
現れたのは、藍色の髪を波打たせた、うつくしい女のサイレンだ。彼女は、夜の海に映りこむ月のような黄金色の眸をグレアスのほうへ真っ直ぐに向けた。
彼女が発するのは、歌のようでいて、ただ純粋な歌ではないものだ。それはそのままに言葉である。
ただ、グレアスは、彼女のうたう歌を、言葉として理解することができる。
『長が、あなた様に、ぜひとも我らが宮殿にお越しいただきたいと……お力をお借りいたしたいのです、オーギュスト』
求められ、立ち上がったグレアスは、ゆっくりと頷いた。
「俺もちょうどそなたらの長に会わねばならないと思っていた。――まったく……こんなときでなければ、海底都市探訪もまた一興と、楽しむことができただろうに」
そんな暢気な気分でいられないのが実に残念だ、と、肩をすくめつつ、グレアスはさっそく、サイレンたちの暮らす海底都市へと転移したのだった。




