有閑魔王に夜明けの歌を。(7)
翌朝、グレアスはアウロレアの街を歩いていた。
朝の光は、昼間のそれに比べると、まだ淡く穏やかだ。昨日と変わらず、街にはやさしく心地好い潮風が吹きつけていた。
が、どこか、張り詰めたような空気が漂っている気がする。
店は今日も開いていない。海のほうを見渡してみても、どうやら、漁に出ていく船はないようだ。
だが、これについては、昨日はじめてこの街に入ったときにも同じだった。それなのに、今日は、どこか何かが違うと感じる――……まるで、街全体が、息を潜めているかのようなのだ。
グレアスは視線を鋭くした。
街の者たちはみな家の中にいるのか、グレアス以外に道を歩いている姿はない。その、人影ひとつない道の向こうから、聴こえてくる音があった。
鐙の音だ。馬は一頭ではない。おそらく五、六頭はいるだろう。
そして、ちゃり、と、金属がこすれるようなかすかな音をも、グレアスの耳は捉えていた。
「騎士団か」
つぶやいたとき、ちょうど、その姿が目に入った。
重たそうな甲冑を身に付けた騎士である。数は五。胸の紋章は碇と太陽だから、領主のところの騎士だろう。
この急な騎士団の登場が、いま街を騒がせる人魚の件と無関係であるはずがない。グレアスは眉根を寄せた。
アウロレアの街でいま流行する〈眠り病〉は、東の海オリエンティアに棲む魔物、サイレンが引き起こしたものだと考えられているのだ。それで領主が騎士団を動かしたということだろうか。
とはいえ、サイレンの討伐を目的とするならば、さすがに五人というのは少なすぎる。ということは、調査のための先遣隊、あるいは、街の者にこれ以上の被害が出ないよう、海辺の警備を任としてやってきたといったところだろう。街が変に静まりかえっているのは、騎士団を出すにあたって、領主から何らかのお達しでもあったのかもしれなかった。
グレアスは、馬に乗ってやってくる騎士団を避けるように、道の端に寄った。騎士たちは、こちらを気にするふうもなく、グレアスの横を通り過ぎ、海辺のほうへと向かっていく。朝日を受け、甲冑が、きら、と、ひとつ強く光った。
騎士団の背中を見送ったグレアスは、ふう、と、ちいさく息をつく。
「ますます厄介なことにならねばいいが」
サイレンはこれまで、人間と事を構えたりはしてこなかったはずだ。彼ら彼女らは、アウロレアの民の隣人である。その関係が毀れてしまうような事態はぜひとも避けたいものだった。
今回の〈眠り病〉も、サイレンには人に対する害意はない。
疫病はあくまでサイレンとはちがう魔族の仕業なのだ。サイレンは、病の治癒の方策がないために、仕方なく人々を眠らせているだけのことである。
だが、そうと知らぬ者たちが、無闇とサイレンを攻撃しはしないだろうか。そして、人間から攻撃を受ければ、さすがのサイレンとて、反撃に出るかもしれない。
騎士団には、すぐの討伐のつもりはないかもしれないが、それでも、不慮の衝突が起きないとも限らなかった。
「これは、まあ……ますます、放ってはおけんよな」
仕方がない、と、グレアスはつぶやくと、さっと踵を返す。そしてそのまま、騎士団の背を追うように、来た道を海岸のほうへ戻りはじめた。
海岸まで戻ったグレアスが直面したのは、危惧したもの――サイレント人との不慮の衝突――とは全く別の、とんでもない事態だった。
海から、何かがどろどろと迫ってきている。昏く濁った眸をした、魚とも虫ともいえぬような魔物が、退去して陸地へと向かっているのだ。
瘴気を帯びた鱗の怪物たちは、もぞもぞと、何脚もある足を蠢かしている。
まだ陸地までは遠い。が、すでにその尋常でない姿は、人間の目にもとらえることができているだろう。
その証拠に、砂浜の上に並んだ騎士たちはそれぞれに抜剣し、海原のほうへ銀色に光る切っ先を向けている。
しかし、その手はかすかにふるえているように見えた。剣を構えてはいても、どこか、腰が引けているようでもある。
それはそうだろう。魔界も平和だが、人界もここしばらくのところ、平穏なはずなのだ。
そもそも魔と呼ばれる者のうち、滅多やたらと人を襲うものは限られている。魔と人との間で衝突が起こる場合、だいたいは、やられたからやりかえしたというのがほとんどだった。ただし、魔物、魔族は、やられたときのやり返し方が倍返し程度では済まないのが普通なので、人の側の被害が大きくはなりがちではある。
だが、一握りの無駄に血気盛んな面々をふくめ、ここ五十年来、皆が比較的おとなしくしていたはずだった。魔王であるグレアスとその家臣団が、圧倒的な力で以て威嚇、威圧し、人界との緩衝領域の魔物や魔族たちを抑えつけていたからである。
そういう事情もあって、いまの若い騎士たちは、魔物や魔族と対峙したことなどないだろう。それどころか、そうしたものを目にしたことすらないものが多いのではないのだろうか。
このままの状態で、もうあと数世代を重ねれば、魔族や魔物も、魔界の存在も、人間たちにとってはおとぎばなしのようなものになっていた可能性すらあった。すでに、アウロレアのサイレンですら、そうなりかけているように、だ。
魔と接することのない世の中で生きてきた騎士にとって、魔は未知のもの。それに恐怖を覚えるのは当然である。
「とはいえ、恐怖に駆られた者は無謀をしかねんしな」
グレアスは息をつく。怯えてその場でかたまっていてくれればいいが、我を忘れて無闇やたらと魔物の群れに突っ込んでいったりしては、怪我をする。怪我ですめばいいが、もちろん、最悪の事態だって想定された。
「で。あっちはあっちで、見境もなく突っ込んできているが……俺が魔界に不在だと気付いたやからが、けしかけでもしたのか?」
魔王の居ぬ間になんとやらで、隙をついて、魔族の誰かが人界にちょっかいをかけているということだろうか。魔物の群れのほうへと眼差しをやり、グレアスは舌打ちをした。
「まったく……せっかくの休暇中に、朝から面倒事とはな」
グレアスは眉を顰め、小指から順にゆっくりと指を握り込む。その動きにあわせて、拳の中には、魔力の塊が作りだされた。
てのひらをひらくと、力が凝った球体が、ふわりと浮かび上がる。回転する。糸巻が糸を巻き取ってふくれていくときのように、赤黒の球体は大きさを増していった。
迫る魔物の群れに対し、騎士団は勇敢にも応戦の構えだ。が、五人の騎士で相手になるわけがない。
グレアスは、さらに力を集中させる。足元から風が巻き上がり、次の瞬間には、その姿は、すぅ、と、音もなく浮かび上がって、はるか高い上空にあった。




