有閑魔王に夜明けの歌を。(6)
「身体の時を止めるような、ということだ。とはいえ、さすがに完全に止めるのは難しいから、ごくごく遅くしているといったところか」
「いったい……なんのために?」
「さて。サイレンに聴いてみねば、確かなことはわからんな」
「っ、やっぱりやつらの仕業なのかっ?」
ジェイドは一瞬で目を怒らせた。拳を握りしめ、いまにもまた海へ駆け出していきそうだ。
「眠りの魔術は、まず間違いなくサイレンだろう。海辺で歌が聞こえていたと言っていたが、サイレンの歌は、そのまま彼らの言葉だ。聞く者が聞けば、ちゃんと言葉としても意味が汲み取れるもの……そして、言葉は魔力を宿す。いま街で眠り続けているという者たちは、彼らの歌を通じて、眠りの魔術をかけられたのだろうな」
「っ、じゃあやっぱり、あいつらを倒さないと……!」
ジェイドは厳しい顔つきをして、絞り出すような調子で言った。グレアスは、いいや、と、頭を振る。
「単純にサイレンを倒しても、事態は解決しないかもしれん」
「っ、なんで……!? だってこ、やつらがかけた呪いなんだろ? だったら、やつらを倒せば……!」
「呪いか……どうも、そうとは思えないな」
グレアスは再びアデルを見下ろした。ジェイドは、え、と、目を瞠る。
「呪いじゃない……?」
「見てのとおり、アデル青年に、衰弱の兆候は見られない。肉体はきわめて安定している。そうなると、おそらくこれは……むしろ眠りの魔術によって、守られている状態というのが近そうだ」
「守られてる……? って、いったい、何から……」
ジェイドが信じられないというふうに言って、アデルを見た。
「疫病だ」
「え?」
「風邪のような症状が、眠ってしまうよりも先に見られたのだろう? それだ。おそらくこれは、風邪症状からはじまって、やがて眠りについてしまうという、ひとつながりの病なのではない。風邪に似た症状を発する病があって、その進行が、眠りによってとどめられている状態だと理解するのが正しいように思う」
疫病は、もしかすると、進めば死に至るようなそれなのかもしれない。だから肉体の時を止めることによって、病がひどくならないようにしている。
だとすれば、いますべきことは、患者を眠りから覚ますことではなかった。そうではなく、疫病の治癒こそが肝要だ。
「病を治す術が判明するまで、眠らせたままにしておくほうが良いだろう」
「でも、それじゃあ……まるでサイレンは、皆を守ってくれてるみたいじゃないか。そんなことって……だってサイレンは、不吉の象徴だろ……?」
ジェイドは混乱して視線を泳がせ、ひとりごちた。
「『海に在るとこしえの隣人』」
グレアスは、ふと、口にした。
「ある者の手記に、そうあった。この街の出身の者だ。はっきりと書かれているわけではないが、それはサイレンを指すように思われる」
「どういうことだ……?」
「サイレンが歌うと海が荒れるんだったな」
「そう、だよ」
「それは、こうも考えられないか? サイレンが、海が荒れることを歌によってお前たち漁師に教えていたのではないか。歌は彼らの言葉だ。嵐がくるから早く帰れ、と、彼らは言っていたのかもしれないだろう?」
「そ、んな、ことって……」
ジェイドはまだ信じ難いらしく、声には困惑が色濃く滲んでいた。
「もちろん、真実はわからん。なにせ俺は、サイレンの歌を聴いたことがない。だが……」
もう一度、アデルを見た。
「すくなくともこの青年の身体からは、いま、別種のふたつの魔力が感じ取れる。眠りの魔術のほうがサイレンだとすれば、もうひとつのほうは、疫病だろう。サイレンのほうはともかくとして、そっちには間違いなく、悪意があるぞ」
グレアスは視線を鋭くして、低く唸るような声で言った。
「悪、意……?」
ジェイドが、息を呑んだ。
「病も、魔物かなにかの仕業なのか? サイレンとは別の……?」
「そうだな。魔術の痕跡がある以上、これは自然に発生した病とは考えにくい。誰かが病の種を撒いた」
「……魔物……?」
「あるいは、魔族だな。東海オリエンティアと接する緩衝海域、ヴァントゥラ海。そこにいるやからか、あるいはもっと南、魔界の海である南海レーノスに棲む者か……おそらくは、こっちだろうな」
グレアスは顎に手を当ててつぶやいた。
「とにかく、だ。魔物あるいは魔族がからむ病であれば、人の手には負えないだろう。サイレンが患者を眠らせていなければ、すでに死者が出ていたかもしれん」
「そんな……」
ジェイドが目を瞠って息を呑む。その傍らでグレアスは、ちいさく、息をついた。
「ったく、余計な厄介事を起こしてからに……尻拭いをするこっちの身にもなってみろ」
ジェイドは訝しそうに眉をひそめてこちらを見たが、こちらの話だ、と、グレアスは首を振った。
「とりあえず、いまはサイレンを憎むよりも先にすべきことがあるのではないか? サイレンがなぜ別の魔族のおこした病を止めているのか、その意図はわからんが、すくなくともお前たちに対する悪意、敵意の類は、疑わなくて良いと思う。それよりも問題は、疫病のもとになっているほうだ。そいつをなんとかしないことには、患者を目覚めさせるわけにはいかないからな」
グレアスが言うと、ジェイドはしばし、黙って思案する様子だった。
サイレンに対する自分の認識を覆された戸惑いがあるのだろう。ややうつむいて、くちびるを引き結び、何かを呑みこもうとするかのようだった。
「……わかった」
しばらくのち、ジェイドはようやく頷いた。
「アンタの言う通りなら、アデルを助けるためにオレがすべきは、サイレンを倒すことじゃない。それは、わかったけど……でも、だったら、どうしたらいいんだ……?」
解決の方策がまるでわからず、青年は今度は、途方に暮れたような表情をした。
「なに、俺がなんとかしよう。――いや、これはおそらく、俺のすべき仕事のようだ」
魔界を預かる魔王グレアスは溜め息を重ねた。せっかくの物見遊山中に、と、そうは思ったが、旅を心置きなく楽しむためにも、目の前の事態は片付けなければならない。
「俺に任せておけ。明後日は夏至……それまでにはなんとかする。なにせ、アウロレアの黎明歌の儀を、俺は見たいのだからな」
最後はジェイドを安心させるように、すこしおどけた調子で言った。




