有閑魔王に温泉を。(1)
『昼間からのんびりと湯につかり、ついでに酒を呑む。これ以上の贅沢があるだろうか。スプリングスの街の温泉は、湯加減もちょうどいい。泉質のおかげか、疲れもすっかり取れる気がする。癒される。ほんとうに最高だ。こんな素晴らしいもの、まさに神の賜物と言っていいだろう。いや、むしろ、これは魔性の湯かもしれない。それくらい魅力的だ。あまりにも心地好すぎて、この地を離れたくないと思ってしまうほどなのだから』
――とある勇者の手記より
***
りんりんりんと車輪が鳴る。
馬が牽く簡素な車には、いま、荷物が満載されていた。その荷駄の間に、魔王グレアスは座している――……もちろん、この車の主がその正体を知っているわけではないのだが。
魔界を出たグレアスは、魔界と人界との境にあたる南の森ヴァルツから街道を北上し、シルキエという街を経て、さらに北を目指していた。
最初は歩きでの旅を楽しんでいたが、ものはためし、と、いまは通りがかった馬車に乗り込んでいる。獣だの賊だのに襲われたときのための護衛を引き受けるかわりに、車に乗せてもらったのだ。
魔物も魔族も魔術を使える。それが魔を定義するひとつの指針といっていいだろう。ちなみに人間も――才に恵まれた者に限っては、だが――魔力を駆使して何かをすることがあるが、それは魔術の模倣のようなもので、区別して魔法と呼ばれていた。
魔術を使うことが当然である魔界では、行きたい場所へはふつう、転移魔術か飛行魔術かで移動する。長距離を、徒歩または馬などの動物を使って移動するようなことは、まずやらなかった。
そんな非効率をやろうとするのは、だから、酔狂の部類だろう。
その酔狂を、グレアスはこの物見遊山の際に、敢えてやってみようと思ったわけだ。
そして、いざ実行してみれば――……悪くはないと思えた。
こういう旅もたまには味があっていいものだな、と、グレアスはいま剥き出しの荷台の上にあって、心地好い微風に目を細める。
いい天気だ。道端の草が、やわらかな風に吹かれて揺れていた。鳥の鳴き声もする。動物が下草を踏む音も、グレアスの耳は捉えていた。
「――にいさん、ほら。向こうに見えてる山、あの麓のあたりが、スプリングスの街だよ」
やがて車の主の男が、眼前の景色を指さした。グレアスは、ほう、と、応じて、そちらのほうへ紅玉色の眼差しを向けた。
「スプリングスは有名な温泉街らしいな。ぜひともこの青空の下、のんびりと湯につかってみたいものだ」
しみじみとした声で言う。すると男は、少々困った顔をした。
「にいさんのお目当ては、やっぱり温泉なのかい?」
「そうだが……それが何か、問題でもあるのか? スプリングスは、いい湯が湧くので知られた街なのだろう?」
「ああ。何年か前までは、確かにそうだったねえ。客も、そりゃあ多くてさ。手狭になった温泉街を広げたりもしたみたいだ。ほら、山の麓……あのへんはずっと、実も固くて食べられない、おまけに木材としても役立たずの木、ストニアの木ばっかりが茂ってたんだが、その森を切り拓いて整備したんだと」
「いまは賑わっていないのか?」
「それが……」
男がグレアスの問いに答えようとしたときだった。パチン、と、不意に何かを弾くような音がした。
「む」
グレアスの優れた視覚は、道の脇から馬をめがけて飛んできた小石の影を、しっかりととらえていた。それだけでなく、すかさず懐から銅のコインを取り出して、小石に向かって投げつけた。
もちろん、外すわけがない。小石は銅貨とぶつかって向こうへと弾き飛ばされた。が、グレアスの動作は素早過ぎて、誰もそれをとらえられなかったことだろう。きっとただただ座ったままそこにいたようにしか見えなかったはずだ。
石と銅貨がぶつかって、キィン、と、いう高く澄んだ金属音が響いた。直後、それに驚いたらしい馬が急に鼻を鳴らし、いきり立った。
「な、なんだ? どうした? ――落ち着け、落ち着け」
何が起こったかわからないながらも、男は馬の手綱を引き締め、その身体をやさしく叩くようにして宥めている。それで何とか暴れ出すようなことは防げたが、馬はまだ落ち着かない様子で、何度かその場で足踏みを繰り返した。
「少々、降りる」
グレアスは停まった馬車の荷台から、優雅な動作でひらりと飛び降りた。真っ直ぐに灌木のほうを見る。動物ではない、何者かの気配があるのを感じ取っていたからだった。
「おい、そこの。ひとりか? 何の用だ?」
グレアスが語りかけると、向こうからは息を呑む様子が伝わってきた。こちらに存在を気取られいないとでも思っていたのかもしれない。
しばし逡巡するような間があった。
そのあとすぐ、一瞬の静寂を挟んで、さほど大きくもない影が灌木から勢いよく飛び出てきた。青年と呼ぶにはまだ幼さのほうが勝る年頃の、ひとりの少年だ。
「悪いけど……生きるためなんだ! 荷物を置いてってくれ!」
少年はこちらに短剣の切っ先を向けると、ぎりりと精いっぱい視線を鋭くして、低く唸るようにそう言った。髪はぱさつき、やせた頬も色つやがない。服も汚れ、ところどころがほつれていた。
少年はこちらに短剣を向けたまま、歯を食いしばっている。が、鋭く尖らせてこちらを睨む眸の奥には、どこか、迷いや怯えのようなものが見て取れた。短剣を握るその手もふるえているように見える。
「ふむ」
グレアスは切っ先を向けられても微塵も動じず、ただ小さく首を傾げた。




