序-2 魔王の部下は大変です。
澄んだ青空を知っているか。
毒のない花を知っているか。
魔力の籠らない、ただの音楽というものを、味わったことがあるか。
うまい酒、うまい飯。口に入れたときの至福を、知っているか。
マゼンタの空もうつくしい。
毒の強さこそ花の価値だというのも否定しない。
音楽は魔力そのもの。
食わずとも死なないから、基本的に、食事はしない。
それもいい。
だが、ただ、それしか知らぬがゆえにそれでいいと思っているのは、口惜しくはないか。
――世界ってのは、広くて複雑なものなんだな。
いつか誰かが笑って言った。
思い出したら、居ても立ってもいられなくなった。
***
魔法のかかった一羽の鳥が、或る日、人界の東の果てから、魔界の中心、水晶のきらめく湖畔に建つ城まで、一通の書簡を携えて飛んできた。そのあくる日、玉座の間でのことである。
「なあ、ザフィエ」
男はふと、側近の名を呼んだ。
「思えば俺ももうずいぶん長く生きた。寿命を感じる。そろそろ終活というものを考えてもいいと思うのだが」
立派な玉座に深く腰掛けた男は、すらりと長い足を優雅に組み替えてから、そ、と、溜め息をつくように言った。
この男こそ、魔界と呼称される地域を統べる魔王、グレアスである。
ちょうどそのとき、魔界のマゼンタ色の空には冴えた蒼銀の月が皓皓と輝いていた。そこには黄金色の虹が架かっていた。
「はあ、左様でございますか」
魔王の側近のひとりであるザフィエは、唐突なグレアスの言葉に、またか、と、思いつつ適当に相槌を打った。グレアスは猫のように気儘なところがあったので、時折、想定外のことを言い出したりする。しかし、それをいちいち真に受けていては、魔王の最側近など務まらないのだ。
もう何年前になるものか、勇者の侵攻を退けて以来、魔界はじつに平和であった。
すなわちいま、魔王は退屈しているのだ。それゆえの戯言、と、そう思うことにして、王の言葉を見事にさらりと受け流した。
その、つもりだった。
魔族は――というか、魔界と呼ばれる地域に生きるものたちは――総じて、人間に比べれば長命である。いまグレアスは年齢を語ったし、実際、彼は何百年という時を生きてきている。もしかしたら、その年月は千だって超えるのかもしれない。
だが、洗練された黒衣を纏うすらりとした長身は、人間の年貌で言えば、せいぜい青年のそれである。身体は無駄なく鍛え上げられ、いかにも壮健といった感じだ。
容貌も同じくだった。少々ばかり目つきは悪いが、それでも、グレアスの容姿は端整で、どこか品があった。それゆえにかえって妙な迫力を具えたその容姿は、まだまだ若々しいものである。
誰かが聞けば、何が寿命で何が終活か、と、思うであろう。ザフィエだってそう思った。
「で?」
魔王の側近は、青味の交じった鉄色の眸で、じと、と、主君を見た。
「此度はまた、いったい何を思いつかれたのですか? まあ、おかげさまでいま魔界は安定しておりますし、あなた様が少々の物好きと怠け癖を発揮されたところで、なんとかなりますけれども」
ふう、と、溜め息をつくと、グレアスはからからと笑った。
「おう、頼もしいことだな。俺の部下はそろって優秀で助かる」
その笑い方はいかにも明朗快活だった。が、男はすぐ、一転して不満げな表情を見せる。
「お前……さては寿命の話を本気にしていないな?」
「はあ、まあ、そうですね。――ちなみに、余命どのくらいだとお感じで?」
「そうだなあ。ざっと六百六十六……」
「時間だとか日だとか言うのならまだしも一大事ですが。どうせ単位は年とかでしょう? というか、そもそも適当でしょう? あなた様がいたって健康なのは、私が一番よく存じております。トップの健康問題は国を揺るがしかねませんし、医師ともども抜かりなく監理しているんですからね」
「む」
畳みかけるように言ってやると、グレアスは黙り込んだ。反論してこないところをみるに、やはり寿命云々の話は口から出まかせの適当発言なのに違いない。
きっと魔王は、珍しくしばらく瑣末な厄介ごともなかったので、退屈してきているのだ。ただそれだけのことだ。
「まったく、お前には適わんな」
「恐縮です」
そう答えて優雅に礼をしたザフィエを前に、男は端整な顔に苦笑めいた笑みを浮かべる。それから、魅惑的な光を宿す紅玉色の眸を大きな窓の外のマゼンタ色の空へと向けた。
「寿命、か」
魔王グレアスはしみじみとつぶやいた。ザフィエは、あれ、と、思った。グレアスの声に含まれるのが、単なる戯言の響きではないような気がしたからだ。
「グレアス様?」
「ん。いや、なに……俺もずいぶん長く生きて、実際、寿命というものについて、最近ふと考えたのだ。――生きとし生けるものはみな、生まれた瞬間から、死に向かって歩み続けているのだからな」
「はあ、まあ、そうですけど……どういう風の吹き回しですか? っていうか、風邪でも引いてます?」
「お前な」
魔王はげんなりしたように言うと、仕切り直すように、こほん、と、咳払いをする。
「実は、俺には大きな心残りがある」
「はあ、左様ですか」
「死ぬまでにどうしても果たさねばと思っているのは、ほかでもない、勇者とのことだ」
「いえ、ほかでもないかどうか、私はまるで存じませんが」
「あやつが魔界へ攻め入ってきたとき、つけ損ねた決着……死ぬ前に、つけねばならんと思い立った。もう時間がない」
「はあ、終活ってやつですね。――っていうか、だから、あなた様はそうそうすぐに死にませんよね? なんでいま? やっぱりあなた、暇を持て余してるだけなんじゃないですか?」
「俺は人間界に行くことにした。旅をしながら、まずは人間を観察する。勇者との決着のためには、そうすることが、ぜひとも必要なのだ。なに、心配するな。生まれたからには必ず死ぬ。そう思えば、生きるとはすなわち、すべてが終活だとも言えよう」
「なに言ってんだこいつ。おいこら魔王。私の話、聞いてます? ってか、なんですかそれ。人間の観察? 勇者の弱点探しってこと? ……そんなの、必要です?」
そんなことをせずとも、たとえ勇者といえどもひ弱な人間のひとりやふたり、本来ならばグレアスが手を焼く相手ではないのではないか。赤子の手をひと捻りするようなもののはずだ。だが――……では、なぜ、前回の侵攻の際、魔王グレアスは勇者を退けながらも、決着をつけないままに終わったのだろう。
ザフィエがグレアスをうかがい見ると、彼は、ふ、と、紅玉の目を細めた。
「さて、な」
長い足をまた組み直し、今度は、ぱちん、と、指を鳴らす。
何をやってもそれなりに様になるところが、この魔王の厄介で癪に障る部分である。たとえ何もない空間から現れたのが、得体の知れないぼろぼろのノートのようなものであったとしても、それを手にして眺めるグレアスの端麗な姿は、まるで一幅の絵画を見るかのようだった。
ここにいるのがザフィエでなければ、うっとりと見惚れていたかもしれない。しかし、いちいちグレアスに魅惑されていては、最側近など務まるものか。
「グレアス様、それは?」
ザフィエは何の感情も動かぬ声で、見慣れぬノートの正体を問うた。
「ああ、これな。勇者の日記というか、手記というか……旅の記録だ」
グレアスはノートを片手に軽く振って見せる。
「とりあえず俺はこれから、これに記された場所をいくつか巡ってみようと思う。これも死ぬ前に、勇者との決着をつけるためだ。――というわけで、魔界のことはしばらく頼んだぞ、ザフィエ」
玉座から立ち上がったグレアムは、颯爽とザフィエのほうに歩み寄り、すれ違いざま、ぽん、と、肩を叩いた。
「なに、勇者との決着をつけてくるまでのことだ。末期の我が儘をかなえるため、お前は魔界で、俺に代わってきりきり働いておいてくれ。頼りにしているぞ、ザフィエ。俺の優秀な側近どの。――では、な」
魔王は、ひらひら、と、後ろ手に手を振って、そのまま部屋を出ていこうとする。一瞬ぽかんとしたザフィエは、けれど、弾かれたように振り返った。
「って、ちょっと待て! あんたね! 末期の我が儘って、当分死ぬわけもないくせに何言ってんだ! やっぱり暇を持て余して、人界に物見遊山に行きたいだけなんじゃないですか?」
「そうかもな。そうともいう」
「どうせ、おいしい料理とかお酒とか、いい景色とか、いいお宿とか温泉とか、なんかそういうの楽しむ気満々なんでしょう?」
「うむ。勇者の手記には、たしかにそういう情報も載っている。実に楽しみだ」
「はあ? ほらみろ、やっぱり遊びにいくんじゃないか!」
「まあまあ、そうカッカするなよ、ザフィエ。帰ってきたらたっぷり土産話をしてやろうほどに」
魔王は朗らかに笑いながら言った。
「そんなもんいらんわっ!」
「はは、そう言うな、側近どの。――じゃあな」
くく、と、喉を鳴らす音はすれど、そのときにはすでにグレアスの姿はその場から掻き消えていた。転移魔術だろう。魔界一の実力者が使う魔術に、いったい誰が、追い縋れるというのだろうか。
「っ、この、放蕩魔王!」
グレアムの消えた空間へと投げられた罵り声は、けれど、いまや主のいなくなった玉座の間の、高い天井まで続く虚空の中に、むなしく響くばかりだった。




