序-1 酒は飲んでも倒れるな。
「いらっしゃい。――おや、めずらしい。旅のお方かい?」
店主は入り口を潜って中へ入ってきた男にちらりと眼差しをやると、わずかに目を|瞠《みは]]った。もはや宵の口よりもやや遅い時間だ。だが、まだ夜半というほどでもない刻限のことである。
「ふむ……旅人だと、わかるものか?」
店主の言葉に、男が、ちら、と、苦笑を見せた。相手にカウンター席を勧めながら、店主は肩をすくめる。
「見慣れない顔だからねぇ。最近じゃ、この店に来るのは街の者、しかもだいたい常連ばっかりだ」
「なるほど」
男は頷き、席につくと、さほど広くもない店内をぐるりと見回すようにする。今は男のほかに、奥のテーブル席に仕事上がりの農夫がふたりいるだけだった。
静かなものである。
ここは、もともと大きな街道沿いにある、それなりに栄えた街だった。が、その実、この街自体、あるいはこの街の近くに、さしたる観光名所があるわけでもない。
かつて、まだ魔界との間で戦闘状態が続いていた頃には、街にやってくる冒険者たちも多かったという。しかし、そうした人々の訪れも絶えたいまとなっては、旅人の存在自体が珍しいものになっていた。
この店のある通りも、然りだ。
先代の頃には、冒険者の靴音で日々賑わっていたのだと聞いていた。場末といって間違いない辺りだが、それでも、旅人たちが多く訪れ、店も繁盛していたのだという。
だが、今となっては、その頃の賑わいなど見る影もない。地元の客を相手に細々と商売を続けているといったありさまなのだ。
それが不満というわけでもないが、と、店主の男は息をついた。
「よう、にいさん。こんなさびれた街にいったい何の用だね?」
先にテーブル席についていた農夫のうちのひとりが、入ってきた旅の男の眼差しに気が付いて、手にある杯を男のほうに向けて持ち上げた。
「まあ、なんだ。ちょっとした物見遊山といったところか」
男はまた、ちらりと苦笑するように言った。苦笑とはいえ、皮肉っぽさや、嫌味ったらしさ、拗ねたような雰囲気はまるでない。どこか老成したような、不思議とやわらかい笑み方だった。
「はは、にいさん、とんだ冗談を!」
もうひとりの農夫が、からからと笑う。
「ん? 冗談とは?」
自分はそんなつもりはないとでもいうふうに、男はきょとんとした。その眸は、深い深い紅玉色だ。肌は透き通るように白く、髪は艶やかな黒である。眸の色はさておくとしても、旅の者というには、どこかそぐわない雰囲気かもしれない。
「冗談でなけりゃ、にいさんは、とんだ物好きだね」
「どういうことだ?」
「だってさ、こんなとこ、見るべきものなどなんにもなかろう?」
農夫は我が街を卑下するようなことを口にする。店主はそれに何も言わなかった。この街が嫌いなわけではないが、何もないというのも、まったき事実なのだ。
だが、旅の男は、こちらが予想もしない反応を見せた。
「ん? そうでもなかろうに」
その言葉には世辞や社交辞令の響きはない。男は心底そう思っているようだった。
紅玉の眸が、ふと、店主のほうへと戻される。
「ああ、店主……俺にも酒を一杯」
一瞬、なぜか、その眼差しに気圧された。が、すぐに我に返った店主は、にこやかな笑みを作ってみせた。
「あいよ。なんにする?」
「夜闇酒」
男は迷いなく注文した。店主は再び、はっと息を呑んだ。またしてもなぜか理由はわからないが、思わず背筋を伸ばしてしまっている。
「お客さん……」
戸惑うように口籠ると、相手は、わずかに首を傾けた。つややかな黒髪が、さら、と、揺れる。
「ん? この店で呑めると、書いてあったと思ったのだが……ちがったか?」
極上の紅玉のような瞳を瞬いた相手は、そんなことを口にすると、懐から、いそいそと、一冊の帳面を取り出した。ずいぶん使い込まれたもののようだ。タイトルはない。誰かの手記とか、あるいは雑記帳かなにかなのかもしれなかった。
男は、ぺらぺらとその帳面をめくる。やがて該当の箇所をみつけたようで、そこを指でなぞりながら、深く耳心地のよい、朗々とした声音で読み上げはじめた。
「『魔界との境にあたる森まで、あと数日といったことろか。そこまでの間にある大きな街は、ここ、シルキエが最後らしい。なるほど、食料や装備を整える冒険者どもの姿が多いわけだ』」
内容を聞くに、男が持つ帳面はやはり、誰かの手記であるらしかった。シルキエというのは、まさにこの街の名だ。たぶんそれは、ここがまだ賑わっていた頃の記録なのであろう。
「『冒険者が集まる街の酒場はいいものだ。情報交換にもってこいというのももちろんあるが、なんといっても、変わった酒を置いている。偶然入った場末の店で呑んだ夜闇酒、あれは、実にいい酒だった』」
そこまで読み上げて、男は顔をあげた。
「この酒、俺もぜひとも呑んでみたいと思ってな。それでこの店を探し当てたのだが……さては、俺の早とちりか?」
探し直しか、と、ほんとうに残念そうに肩を落とす。眉をひそめつつ嘆息して、男は帳面を閉じて懐にしまった。
「いや……合ってるよ」
店主は、ゆっくりと答えた。
「ただ、そんなもん、最近じゃ注文する客なんていないんでね。ちょっと驚いただけさ」
「お、そうか。それは重畳。ぜひ呑ませてくれ」
男は一転して、嬉しそうに目を輝かせた。今にも舌なめずりせんばかりである。
店主はその様子に頬をゆるめ、いったん、店の奥に引っ込んだ。棚の上から瓶を一本取り出すと、それを抱えて、男の前へと戻った。
「これが夜闇酒だよ、お客さん。――ほんとに呑むかい?」
「と、言うと?」
「これは普通の酒じゃない……と、言われてる」
「普通ではないとは?」
「いや、実は俺も飲んだことがないんだがね。というか、最後にこの酒をあけたのは、いったい、どれだけ前なのかって話だ。まだ魔界との戦いが続いていた頃だろう」
「そうなのか」
「まあな。――うまいはうまいらしいんだが、往時も、屈強な冒険者どもでさえ、ひとくち呑むなりぶっ倒れたって言う。それほどにキツイ酒らしい」
「ほう」
旅の男は感心したように頷いた。
「その手記の書き手だって、どうせ、ぶっ倒れたうちのひとりなんじゃないかい? まあ、呑んで倒れたとは、わざわざ書いたりしないだろうがよ」
この酒を呑んで平気でいた者の話は、先代である父から聞いてはいた。かつて勇者がうちの店に立ち寄ったのだ、と。だが、場末の酒場の主人の話なのだ。大袈裟に盛った逸話だった可能性も多分にある、と、そんなふうに思っていた。
「さて……どうかな」
客の男は、ちら、と、口許に意味深な笑みを刷く。
「その話を聞いて、ますます呑んでみたくなった。否、呑まずに済ますわけにはいかないというか」
彼は、どこか可笑しがるかのように、くつくつ、と、喉を鳴らした。
「どうなったって知らないよ、お客さん」
店主はため息をつき、透明なショットグラスを取り出して、瓶の中身を、トトトト、と、注いだ。
夜闇酒――その原材料は、魔の森と呼ばれる、魔界との境でしか手に入らない。黒曜石のごとく艶めく巨岩の陰に湧く、清水。赤銅色の月が出る蝕の夜にしか咲かないとされる、紅月草の蜜。光を吸い込むような漆黒の酒は、それなのに、グラスに注ぐと月光のごとき淡い光が模様を描く。鮮烈な苦みの奥に香るのは、ひとしずくの甘露だとか。
ひとくち含めば、刹那、夢幻と現実の境が曖昧になったような、たまらない酩酊が身を貫き、脳天まで駆け上がるらしい。だが、呑んで立っていられる者など滅多といない。
おかげで、実は出どころは魔界だとか、醸したのは魔族だとか、真偽不明の話まであるような酒だった。
男は店主からグラスを受け取ると、ゆるゆる、と、振ってみせた。するとたしかに、冴えた冬の月のような光が、蝶が鱗粉を撒き散らすときのように、かすかに、液体の中で揺らぐ。それを見て、男は満足げに笑った。
優雅な仕草でグラスを口許へと運ぶ男を、店主も、それから客の農夫ふたりも、息を呑んで見守った。
薄いくちびるをグラスにつけ、男はそれを傾ける。白い喉がゆっくりと動く。
そして、しばし。すっかり空になったグラスを手に、男は、ほう、と、息をついた。
「うむ。たしかに、いい酒だ」
彼は顔色ひとつ変えるでもなく、ただ、感嘆の言葉をもらした。端正な顔には、満ち足りた表情が浮かんでいる。
「……なんともないのかい?」
店主が案じて問うと、酔うほどではないな、と、相手はしっかりした口調で答えた。
「普段呑んでいる酒は、もっと強い。が、ただ強いだけで、味気がない。それに比べて、この酒はじつに良いな。味に深みを感じる」
「もっと強い酒って……」
魔界産だと伝承されるほどの酒よりも酒精がきついものを日常的に口にしているとは、いったいどんな酒豪なんだと店主はいっそ呆れる思いだった。
「あんた……何者だい?」
「はは、何者に見える?」
「わからんが……ただ者ではないんだろうな」
少なくとも、かつて夜闇酒を呑んで平気でいたという伝説を持つ者と、同等かそれ以上の存在だということだろう。知りたいような、知るのが恐ろしいような、そんな不思議な感覚に襲われた。
「隠せない気品を感じるねえ。さてはご立派なお方の、お忍びなんだろ?」
冗談めかして店主が言うと、男はまた肩をすくめ、ちらりと苦笑した。
「まさか。買い被りだな」
「そうかい。じゃ、そういうことにしとこう」
「馳走になった」
男は懐に手を入れると、財布を取り出し、銀貨を五枚、カウンターに置く。
「おいおい、酒一杯のお代にしちゃ多すぎるよ、お客さん。やっぱりあんた、世間の相場を知らない、お偉方なんじゃないのかい?」
店主は慌てたが、席を立ちつつ、男はまた、ちいさく例の苦笑をもらした。
「取っておけ。――良いものにはそれなりの対価を払う主義なだけだ」
そう言った相手は、すでに店を出かけている。
「ああそうだ、最後に……アウロレアまでは、まずは街道沿いを行けばいいか?」
何かを思い出したかのように振り向くと、東の果ての海辺の街の名を口にした。
「あ、ああ。しばらくは街道を北へ……スプリングスって街のあたりから、東に向かう道が伸びてる」
「なるほど、わかった。――では、急に邪魔をしたな」
その言葉を最後に、男は颯爽と去っていった。
「アウロレア……勇者の生まれ故郷の街か」
男の背を見送った後、店主はぽつりとつぶやいた。




