有閑魔王に夜明けの歌を。(3)
陽気な港街――……そうであるはずだと、思っていた。
見も知らぬ街なのにどうしてそんな思い込みがあったのか、と、ふと考えたグレアスは、ああそうか、と、すぐに得心した。
かつて出逢った男の、太陽のような明るさ、朗らかさ。どうやら自分は、明朗快活だったその男の印象を、まだ見ぬこの街に無意識に重ねていたものらしい。おかしなものだな、と、グレアスはちいさく苦笑をもらした。
東の果ての夜明けの街、アウロレア。
その街に足を踏み入れたグレアスは、すぐ、その街に蟠る奇妙な静寂に気がついた。
潮風は穏やかだが、路地に人々の明るい話し声、笑い声は響いていない。道に沿って並ぶ店々は、どれもこれも軒を閉ざしていた。
同じ港街でも、先日滞在した街の賑やかさとは大違いだ。街全体が、重たく沈んだ空気に覆われているような気がする。
「なるほど……これはたしかにおかしいな」
そう呟いたグレアスは、そのまま人影もまばらな街を通り抜け、海辺へと歩を進めた。
白い砂浜が続く先に、明るく澄んだラリマールの原石みたいな海が広がっていた。眩しい太陽に照らされ、波がきらきらと輝いている。まるで宝石のようなうつくしさではあったが、しかし、漁にいそしむ船の一艘も見えず、なんとなくうそ寒い光景のようにも思われた。
グレアスは砂を踏む。さら、と、かそけく繊細な音がした。砂の口ずさむ歌のようだ。
ここでは波も久遠に歌をうたっている。グレアスは蒼い海へと眼差しを投げた。
そのとき、グレアスの耳は、誰か砂に足を踏み込む音を捉えた。そちらを見れば、子供がひとり、何かを拾っては海へ向かって繰り返し投げている。
「石投げか?」
グレアスは子供に近付くと、すっとしゃがんで子供に声をかけた。
「貝殻投げだよ」
子供はグレアスにそう答えた。
「サイレンはみんな、きれいな貝殻が好きなんだって。おうちに飾ったり、つないで首飾りにしたりするんだって。だから」
言いながら、子供はまた、足元に落ちていた星月夜の空のような模様の貝を拾い上げた。
なるほど、アウロレアの街には、すくなくとも人魚についての伝承があるようだ。この貝殻投げは、子供たちの間でよくなされる遊びなのだろうか。それとも、街に異変のあるいま、サイレンの好むものを捧げて機嫌をとり、これ以上なにかが起こらないようにとの祈りを籠めているのだろうか。
子供は拾った貝殻を海に向かって思い切り放り投げた。貝殻は放物線を描いて飛ぶ。が、子供の力のこと、さほど遠くまで届くわけではなかった。
すこし先の海面に、ぽちょん、と、音を立てて落ちる。そのまま、ゆらゆらと揺れながら、まだ浅瀬の底へと沈んでいくのが見えていた。
「どれ。俺もひとつ、やってみよう」
グレアスは言うと、自らも足元の茜空のようなちいさな貝殻を拾った。指先にすこしばかり魔力を籠める。空へと投げあげるように、下手から貝殻を海へと放った。
貝殻は弧を描き、かなり沖のほうまで飛んだ。
「わあ、すごい……!」
子供が目を輝かせ、感嘆の声をあげる。グレアスは何も答えずにふと笑うと、もう一つ、今度は春咲く花のような薄紅色の貝殻を取り上げた。
同じように沖へと投げる。
遠くで、ぽちゃん、と、着水の音が響いた。まさにその刹那だった。
ザバァアァン、と、音を立てて水面が不自然に盛り上がった。
「来たな」
グレアスはつぶやいて、ちら、と、笑う。向こうから反応がないかと思って、わざわざ貝殻に、わざとらしく魔力を籠めてみたのだ。
姿を現したのはサイレンだった。小首を傾げるようにして、こちらを見詰めている。
肌は白く透き通っていながら、内から淡く光を放つ真珠のようでもあった。髪はゆったりと波打つ藍色、眸は、夜の海に映りこむ月のような、しずかな黄金色だった。
魔族のこと、実年齢はわからないが、人間で言えば二十歳くらいの見目の女のサイレンだ。
ぱちゃん、と、遠く、水音が響く。陽の光に透ける優雅に長い尾びれが水面を打った音だった。
「……サイ、レン……? ……うそ……」
信じられないというふうに、子供は口を開けたまま固まってしまった。サイレンの伝承はあっても、それはあくまでも言い伝えであり、実際たしかにその存在を目の当たりにするようなことまでは、ないのかもしれない。
相手はじっとこちらを見詰めている。
グレアスが彼女に話しかけようとした、その時だった。
ひゅん、と、鋭く空気を裂くような音と共に、沖の人魚に向かって矢が飛んだ。グレアスははっと振り返る。
背後から、ひとりの青年が波打ち際に向けて駆けてくるところだった。その手には弓矢がある。
「化け物め!」
青年は叫びながら、ばしゃばしゃと音を立て、海の中へと入って行く。立ち止ると、弓に矢をつがえて、きりきりきり、と、引き絞った。
ひゅん、と、再び矢が風を裂く。矢はサイレンに向かって飛んだが、しかし、彼女に命中することはなかった。彼女が静かに波間へと姿を消したからだ。
静寂が落ちる。
青年は苦々しい表情をして、サイレンが消えた波間を睨みつけた。
「くそっ……逃げられた」
悔しげにくちびるを噛んでいる。
グレアスは傍にいた子供に帰るよう促すと、静かに青年のほうへと歩み寄った。
「いきなり攻撃とは、感心しないな」
自分も汀に足を踏み入れて言うと、青年ははっとしてグレアスを振り返った。




