有閑魔王に夜明けの歌を。(2)
そのまま宿に一泊したグレアスは、次の日、まばゆい朝の陽射しの射す街道を、ひとり、アウロレアに向かって歩いていた。
「――ザフィエ」
その道々、自分の不在のあいだ魔王城を預かってくれている――正確には押し付けて出てきたわけだが――側近に呼び掛ける。
『なんですか、グレアスさま。いまいいところだったのに』
ザフィエはすぐさま思念で応答した。ついでに、いかにも鬱陶しげな舌打ちまで聞こえてきた。
思念の交信だから、もちろん、ザフィエの姿が見えるわけではない。が、グレアスには、側近が不機嫌そうに眉根を寄せているその顔が、ありありと見える気がした。美貌なだけに、そういう顔をするときのザフィエには凄絶な迫力があるのだ。
「…………いいところって、いまなにをしてるんだ、お前は?」
グレアスはいちおう尋ねておくことにした。
『え? ああ……ちょっと前にあなたが捕まえた、貧相な小物魔族がいたじゃないですか』
「ああ、あいつな」
グレアスは、フィレンネルの上空での出来事を思い出す。
「そいつがどうした?」
『よく見たら、身体つきこそ貧相ではありますが、そこそこ整った顔をしておりまして。これなら僕として使ってもいいかなと思ったので、いま、絶賛下僕調教中です』
「…………そうか。楽しそうだな」
グレアスは側近の弾んだ声の調子に――もちろん思念なのだが――ちらりと苦笑した。
「お前……面食いだよな」
『今頃ですか? でなきゃ私、そもそもあなた様の側近とかやってないですよ、たぶん。でも、いいんです。私は美形好きをちゃんと自覚してますからね。無自覚なあなた様よりましでしょう』
「ん? 俺?」
急に己に話題が飛んで、グレアスは目を瞬いた。
『ええ、そうです。あなたの家臣団、顔は良いけど性格に難あり、でも仕事はできます、みたいなのばっかりじゃないですか』
そうだったかな、と、グレアスは虚空を見上げ、部下たちを思い描いてみた。そして、うぅむ、と、唸る。
なるほどそうかもしれない。その筆頭がお前だがな、と、いま思念の遣り取りをしている最側近のことを思い、ちらりと苦笑していた。
「まあ、それはさておきだな。お楽しみの邪魔をして悪いんだが、聞いてもいいか?」
『どうぞ』
「いまアウロレアの近くまできてるんだが、東海にはたしか、人魚が棲んでいたよな」
大陸の北東、海に突き出る半島部にある街アウロレア。その街が面している東の海は、オリエンティア海と呼ばれていた。陽の昇る場所が由来である。
そこに暮らす魔の一族の名をグレアスが挙げると、ザフィエは頷いた。
『ええ、そうですね。オリエンティアの海底都市にいるはずです。ただ、サイレンの暮らす海底都市こそ、いちおう魔界の勢力圏内の場所ですが、とはいえあそこは、人界の中にある魔界の飛び地みたいなものですからね』
「彼らの生活の実態はあまりわからない、か」
『はい。これまでに彼らが人界と摩擦を起こしたという話は聞かないので、特に積極的に干渉する必要もありませんでしたし』
「そうだよな」
グレアスは側近からの情報に、ちいさく息をついた。
かつて世界には、いまあるような、人界と魔界との別などなかったのだという。それは、ザフィエも、グレアスでさえも、この世に生まれるよりずいぶんと前のことだ。いまの人間たちの中には、その頃のことを記憶している者など、まずもっていない、遙か昔の出来事である。
いまは人間たちの国が築かれている地域にも、かつては、ごく普通に魔物や魔族が存在していた。それが、人間の勢力圏が拡大するにつれ、魔と人との間に種々の摩擦、軋轢が生じるようになってきた。それによって、人と魔との関係、特にその生息領域が、大きく変化することになる。
動いたのは魔と呼ばれる者たちのほうだった。面倒をきらった魔族たちが、魔物を率いて、当時まだ未開で不毛の地とされていた地域に移り住むことにしたのだ。
そのうえで、人界との間に境界となる緩衝地帯――森や山脈、湖や海など――を設けることにしたらしい。
そんなふうにして魔のものたちが引き篭もった地域が、いま魔界と呼ばれている場所である。概ね大陸の西側から南側にかけての地域がそれにあたった。
ちなみに海における境界、緩衝海域となっているのは、レーノス海と呼ばれる南海と、東のオリエンティア海との間の海、ヴァントゥラ海である。それより北側の海が、基本的には人界側の海ということになっていた。
魔界に対して人界と称されることになった領域には、魔族や魔物は極端に少なくなった。とはいえ、いまなお密かに人界に暮らしている魔のものが存在していることを、グレアスはこの旅路で目の当たりにしていた。
たとえば温泉街スプリングスで出逢ったフレアクロウがそうであり、花と芸術の街フィレンネルの上空へと時を経て巡ってくるファルドラコンがそうだ。
彼らの存在は、魔界の現統治者であるグレアスも、これまできちんと把握していなかった。彼らは本当にひっそりと存在していたのだ。
が、人魚たちの場合は、それとはまた少し事情が異なる。
サイレンは魔族の一種族である。そうでありながら、彼ら彼女らは、魔族たちがこぞっていま魔界と呼ばれている地域に引っ込んだ際にも、東の海オリエンティアに残ることを選んでいた。海底に、彼ら彼女らの暮らす海底都市が、いまもある。魔界も、人界の中の飛び地として、そこを把握している。
ただ、人間たちが魔族サイレンの存在をどう認知しているかは、よくわからない。ただ、これまで大きな衝突どころか、ちいさな問題の報告すら上がってきていないところを見るに、積極的な友好ではなくとも、うまく共存しているはずだという認識だった。
「サイレンは、人間を襲ったりしないよな?」
人界の残った魔族、魔物の共通点は、人との摩擦を起こさずに存在できるということに尽きるだろう。いても、その存在を知られていない。あるいは、伝承として語り継がれるのがせいぜいだ。
そうでなければ、とっくに人間の勢力範囲内では暮らせなくなっていただろう。
サイレンたちも、人との間に問題を抱えなかったからこそ、いまなお東の海に暮らし続けているはずだった。
『人を襲う、ですか。よほどでなければ、しないと思いますけどね。船乗りが海や海辺で舟歌を歌っていると、寄ってきて一緒に歌うことがあるなんて言われているくらいですし』
ザフィエはグレアスの言葉を肯定するように、そう言った。
「そうだよな」
グレアスは、うぅむ、と、唸る。
『なにかサイレン絡みの問題でも起こっているのですか?』
「いや、まだわからんのだが……夜の海辺で歌が聞こえたうえ、その歌のせいで眠ってしまった人間が目覚めないとかいう話を聞いた。場所が場所だし、関係していそうではないか?」
『はあ、たしかに』
サイレンの歌は言葉そのものだと言われる。そして、言葉というものは、総じて魔力を帯びるものだ。この地で奇妙な歌の噂となれば、どうしても、なんらかの形でサイレンが関与していることが想定された。
「あまり厄介ごとに関わりたくはないんだが」
グレアスは眉を顰めて天を仰ぐ。
『部下に仕事をぶん投げて自分は物見遊山なんていう、超絶いいご身分を満喫中ですものね、いまのあんた』
ザフィエが厭味たっぷりに言った。が、グレアスは無視することにした。
「放ってはおけんよなぁ。このままアウロレアに異変が続けば、夏至の日の黎明歌の儀がなくなるかもしれん。それは困る」
『なんの話ですか?』
「俺は黎明歌を聴いてみたいんだ。どうしても」
『おいこら、聞いてます?』
「そうなれば、アウロレアの件は、何とかせねばならんよな、やはり」
『ちょっと! 私の話を聞き流すんじゃない、魔王!』
「うむ。仕方がないから、調べてみるか。――じゃあな、ザフィエ」
そう言うと――まだ向こう側でザフィエが何やら喚いているような気はしたものの――グレアスは一方的に交信を断ち切った。




