有閑魔王に夜明けの歌を。(1)
『アウロレアは海と共にある街だ。海はやさしい。けど、海は怖い。どちらともが真実だ。海は大いなる恵みをもたらすが、時に牙を剥いて人の命を攫ってもいく。ひとたび荒れれば、恐怖の塊となって人を襲う海。だがそれでも、この街はなお海と共に生きるのだ。夏至の日、東の海の果てから曙光が差す。その荘厳なる夜明けの瞬間に、アウロレアの人々は歌う。この街の決意を、海に在るとこしえの隣人に向けて』
――とある勇者の手記より
***
空気にかすかに潮の香りがまじっている。
海辺の街は、高く昇った太陽の光をいっぱいに受けて、まぶしいくらいに白く輝いていた。照りつける陽光でじんわりと熱を帯びたような石畳に、濃い建物の影が落ちている。そのコントラストがあざやかだ。
明るい声をあげながら石畳を駆ける子供たちの姿が見えていた。港街の子供らしく、その肌は健康的に日に焼けている。
道に添っていくつも並ぶのは露店だ。売っているのは、鮮やかな色の果物や、さまざまな魚介、そしてとりどりの香辛料などだった。
道の先にはちょっとした広場があって、人々の憩いの場になっているらしい。弦楽器の陽気な音が響き、それにあわせて軽やかなステップを踏んで踊る男女の姿があった。もちろん、ベンチに腰掛けて、飲み物を片手に他愛ない会話に興じる人々の姿もある。
雑多な活気に満ちた街を抜けると、その向こうに広がるのは、抜けるような空と、ラリマールの原石のような海である。白い波間には、漁船だろうか、ちいさな船影が見えていた。
その光景を前にグレアスが紅玉の眸を細めたとき、ゆるやかに吹きつけた風に乗って、かすかに潮とシトラスがふわりと香り立った。
「そこの旅人さん、お泊りに、うちの宿はどうだい?」
ふと声をかけられて、グレアスは立ち止まった。
「うちから眺める海の景色は最高さ。それに、うまい飯だって出せるぜ」
宿の亭主らしき男は、日に焼けた顔をにこやかに笑ませて言った。
その宿はどうも、一階が食堂になっているらしい。とはいえ、昼餉時にはすでに遅く、夕餉にはまだ早い中途半端な時間のこと、食堂の中にいま人影はないようだった。
「今からでも食事が出来るか?」
グレアスは亭主に訊ねた。
「飯がうまいのが本当なら、泊まってもいい」
すこし冗談めかして口にすると、もちろんさ、と、亭主は太陽みたいに朗らかに笑い、グレアスを中へと案内した。
中にはテーブル席がいくつかとカウンター席がある。そのカウンターの奥が、ちょっとした調理場になっているようだった。
「ほう、亭主が料理もするのか?」
男がカウンターの中に入って調理用具を用意しはじめるのを見て、グレアスはカウンター席のほうへと腰掛けた。
「見ていても構わないだろうか?」
「ああ、どうぞ。減るもんじゃないしね。で、旅人さんよ、何が食べたい?」
「そうだな……ちなみに、おすすめは?」
「そうさなぁ……この時期なら、茜貝のシトラス蒸しかな。あと、ちょっと時間はかかっちまうが、黄金エビのパエリアなんかどうだい?」
「いいな。では、それを。さほど急ぐ旅でもないから、時間は気にしない」
「あいよ」
男はグレアスの前に檸檬スライスを入れた水のグラスを差し出しつつ頷いて、さっそく調理にかかった。
鍋に、香草類とにんにく、オリーブオイルを入れて、火をつける。香りが立ってきたところで貝を投入し、葡萄酒を加えて蓋をした。しばらく経って貝の殻が開けば、最後に柑橘を絞って、刻んだパセリを散らして完成である。
その間に、亭主はパエリアの調理にも取りかかっていた。
こちらで使うのは、平たい鉄鍋のようだ。オリーブオイルとにんにくとを入れて火にかけると、やはり香りが立ってきたところで、みじん切りの玉葱、細切りのパプリカ、鶏肉や黄金エビを入れて、手早く炒めていった。火が通ったところで具材はいったん取り出し、今度は鉄鍋に米を入れ、スープを加える。一度沸騰させたあとに、ことことと煮ていくようだ。
「まだしばらくかかるから、よければ先に、こっち食ってな」
男は言って、仕上がった茜貝のシトラス蒸しを皿に盛りつけ、グレアスの前に差し出した。
「一緒に檸檬酒もどうだい?」
「ぜひもらおう」
グレアスが即座に求めると、グラスに真昼の陽光を薄めたような色合いの酒が提供される。グラスを揺すって色をたのしみ、目を閉じて香りを楽しんでから、そっと口をつけた。すると、さわやかな甘みとほんのりとした苦味とが広がった。
「うん、うまいな」
グレアスは目を細める。人界の酒の味には、いったいどれだけの種類があるのだろうか。酒精の強さこそ正義で命といわんばかりに、ただただ喉を焼く魔界の酒とは、ずいぶんと趣が違っていた。
人とはある意味でひどく貪欲な生き物ではないか、と、グレアスはひとり、ちいさく喉を鳴らした。
「なに笑ってんだい、旅人のにいさん?」
「いいや、別に。昼からうまい酒を呑むなど、なんと贅沢なことかと思っただけだ」
「はは、違いねぇな。ところで、にいさんはさっき、急ぐ旅ではないと言ってたが……どっか旅の目的地はあるのかい?」
調理の合間の世間話という態で、亭主はそう話を振ってきた。
「まあ、あるといえばあるが、ないといえばない。のんきな物見遊山だな」
「そりゃあ、気儘でいいねぇ。うらやましいこった」
亭主が笑って言うのに、グレアスは答えずちいさく肩をくすめた。
出された蒸し貝を口に運ぶ。貝自体の味に果実酒の風味が加わり、奥深い味わいだ。口に入れた瞬間にさわやかに抜けていく柑橘の香りも良かった。
「なんというか……食べずとも死なないからと言って食べることを放棄するのは、自ら極上の楽しみを棄て去るに等しい、実に愚かな行為なのかもしれんな」
魔界の食事事情を思い起こしながら、ちら、と、苦笑しつつひとりごちた。
「ん? なんだって?」
「いいや、こっちの話だ」
グレアスは軽く頭を振った。
「とりあえずはこの後、アウロレアまで行くつもりではあるのだが。夏至の日の夜明けに海辺で歌われる、黎明歌とやらを聞きたいんだ」
気儘な遊山の次なる目的はそれ、と、食事を口に運ぶ合間に、ふと、そう言ったときだった。ちょうどふっくらと炊き上がった米に、あらかじめ炒めてあった具材を飾りつけていた亭主の手が、ぴた、と、止まった。
「どうかしたか?」
男の反応を訝ってグレアスは問う。
「いや……」
相手は曖昧に応えて口籠ったが、完成したパエリアをカウンターテーブルの上に出してくれながら、真剣な面持ちでグレアスを見据えた。
「旅人のにいさん、悪いこたぁ言わん。アウロレアは、いまはやめといたほうがいいと思うよ」
「ほう……なぜだ?」
「病気だよ、病気。ちょっと前から、どうも妙な病気が出てるって噂だ」
男は、空になっていたグレアスの杯に酒を注ぎ直しつつ、すこし言いづらそうに言った。視線を向ける先には窓があり、その先には海が見えている。
「ふむ」
低く頷きながら、グレアスはパエリアをひと匙すくい、口許に運んだ。
この街から海岸に添って北東に進んだところ、海に突き出た小さな半島部に位置するのがアウロレアだ。この国のどこよりも早く日の出を迎える、夜明けの街。暁がその名の由来だとされていた。
亭主が言うには、その街でいま、病がはやっているのだという。
「妙な、とは、どういう病なんだ?」
「おれも噂に聞いただけだがね。最初はなんてことない、風邪みたいな症状が出るんだと。咳とか熱とか、な。それが、そのうち夜にふらふら外へ出ていくらしいんだよ。決まって、海のほうへ」
「海、か」
「そう、まるで何かに呼ばれるみてぇに、な。そうなった患者を追かっけてった者がいうには、そのとき、海では妙ちくりんな歌が聴こえてたって……」
そこで宿の亭主は、ひとつ息を吐いた。
「そんでその後、患者はことんと眠っちまうんだそうだ。で、そっから一度も、目を開けねぇとか」
グレアスはそこでちらりと眉根を寄せた。
「それで、そうした患者はどうなったのだ? 死んだのか?」
「いや、死人が出たって話は、まだ聞かねぇが。けど、病が出たって話からだいぶと経つが、目覚めたやつがいるって話も、とんと聴こえてこねぇなぁ」
それでは、患者と思わしき者たちは皆、いまもまだこんこんと眠ったままになっているということだろうか。
「魔物の仕業じゃねえかって……」
亭主の男は、ぽつ、と、こぼした。
さぁん、さぁあぁん、と、遠い潮騒に紛れて、ふいに高く澄んだ歌声のようなものが流れてきた気がした。
「魔物、か」
グレアスは顎に手を当て、ふむ、と、ひとつ唸った。
「じきに夏至だというのに疫病とは……これで万一、黎明歌の儀がなくなっては困るではないか」
せっかく楽しみにしているものを、と、溜め息をついた。




