有閑魔王に花の祭りを。(終)
ふわ、ふわり、と、ファルドラコンがその翅を大きく動かした。
風が発る。その背の花が、いっせいに、ふるえるように揺れた。
「あ!」
リリアーナが声をあげたのと同時に、朝焼け色の花は、ひとつ、またひとつと、龍の背を離れ、空中へと舞い上がった。くるくると乱舞しながら、フィレンネルの街が広がる丘、ドラクラへと、ゆっくりと舞い落ちていく。
「戻るぞ。いまなら、花降るさまを、地上で見られる」
グレアスは言った。
「前回の訪いは真昼だったようだが、此度は夜だ。とはいえ、幸いにも、いまはフィオレ・フェスタの期間……まだ街は寝静まってはおるまい。フィロ・ドラクラの花が降るさまを、街の者たちみなも、きっと道端や窓越しに見ることだろう。お前たちも、その幸運に浴したくはないか? 幻の花園とともに、もうひとつ、フィレンネルに語り伝えられてきた奇跡の光景だ」
「奇跡……」
リリアーナがぽつりと言うのに、グレアスは頷く。
「俺は、見たい。――ある者がいうには、ずいぶんと壮観だそうだからな」
ちら、と、笑ったときには、三人の姿はやはり、その場から消えていた。
そして刹那ののち、その姿はもといた花屋の前の道へと戻ってきている。
その場から、そろって遠く空を見上げた。
ファルドラコンは蜃気楼のように雲に紛れ、はっきりとは見えなかった。もしかすると、もうそろそろ上空で花を撒き終わり、天高くへと再びの上昇をはじめている頃なのかもしれない。
「あ……!」
リリアーナが声をあげた。
「花が……」
ソフィが呟いた。
グレアスは目を細める。
いままさに、はら、はらはら、と、朝焼け色のうつくしい花が、夜空の奥から大地へと降りそそいできたところだった。
これこそ、フィオレ・フェスタの花撒きの風習の、もとになった光景だ――……かつても、きっと幸運な者が、この神秘的で奇跡のような場面に遭遇したのだろう。
あるいは、フィレンネルが花と芸術の街として発展してきたのは、こうした絵のようにうつくしい光景がここで展開されたからなのかもしれない。
この世界にたしかに存在している不思議なつながりを感じとって、グレアスは口の端をゆるめた。
フィロ・ドラクラの花は、地に落ちてしまえば、まるで雪が融けるときのようにすぅっと消えていってしまう。繭に眠る龍の子のエネルギー源として吸収されてしまうからなのだろう。
花が降るのもほんのわずかの時間なら、おまけに、降った形跡も残りはしない。刹那の奇跡が通り過ぎたあとにはもう、何事もなかったかのように、いつもの白壁の街並みがあるだけだ。
いま、この時に居合わせた者だけが見詰める、花降る景色――……まだ通りにいた人々が、驚きと、そして感嘆の声を上げている。それに気付いた家の中の人々も、ある者は扉から外に出て、またある者は窓を開けて、めいめいに空を仰いでいた。
フィレンネルの老若男女が、いま、この花降る奇跡の夜の中にいる。
「たしかに……これは壮観だ」
ふと手記の文言を思い出しながら、グレアスは、くく、と、笑った。
「きれい……」
「ほんとうに、ね」
リリアーナとソフィアも、互いに目を見交わして、そう頷きあっている。
そこでふと、何か思うことがあったのか、リリアーナがグレアスを見た。
「でも、グレアスさん。この花って、龍の子のごはんみたいなものなんですよね。ごはんを食べて、そしたら、龍はいつか、生まれるんですよね?」
「ああ。いつかは、そうなるのだろうな」
グレアスはリリアーナの問いに頷いた。
「もしいつか、街の下の繭から、龍が羽化したら……フィレンネルの街って、大丈夫なんでしょうか?」
不意に不安になったようで、グレアスを窺うリリアーナの眸には憂いが浮かんでいた。
「さて」
グレアスははぐらかすように言って、くつくつと喉を鳴らす。
「とはいえ、ファルドラコンは、俺たちとはまるでちがう時間スケールを生きるものだからな。ファルドラコンが繭から孵るまでには、おそらく、まだ相当の時がかかるとは思う」
それこそ、この地に人が棲み始める前から、蝶龍の営みはこの地にあったはずだ。そして、もしかすると、次代が羽化して飛び立つのは、この地から人の営みが絶えてしまったその先というくらい、遙か彼方の、遠い未来のことなのかもしれなかった。
「そう、なんですね」
グレアスの言葉に、リリアーナは安堵めいた息をもらした。
「でも……そのときがきたら、街が上にのっていても、ちゃんと生まれることができるでしょうか?」
どうやら少女は、街だけではなく、蝶龍の子のことも案じるらしい。グレアスは、はは、と、軽く笑った。
「どうしても心配なら、街を徐々に、丘から移していけばいい。たとえそれに三代百年かかったとしても、それくらいの時間は、ファルドラコンにとってはほとんどないも同然だろうから」
グレアスが静かに諭すと、こちらの言を噛みしめるようにしばらく黙った後で、リリアーナは、はい、と、明るく頷いた。
「――あ、そうだった!」
それからまた、急に何かを思い出したかのように、声をあげる。
「ちょっと待っててね、おばあちゃん!」
今度は祖母に向かってそんなふうに言うと、少女はそのあまま店の中へと駆けていった。
しばらくしてから、ちいさなブーケをふたつ、大事そうに手にして戻ってくる。
もちろんひとつは、フィロ・ドラクラの花を使ったブーケだ。リリアーナは真っ直ぐに祖母ソフィのもとへ歩み寄ると、にこりと笑って、それを手渡した。
「フィロ・ドラクラのフィロは、愛って意味なんですって。おじいちゃんったら、ほんと、ロマンチストだよね」
「ありがとう、リリアーナ……まったく、あの人ったら、ねえ」
ソフィは、朝焼け色の花束を手に、まるで少女のようなはにかんだ微笑をみせた。
「グレアスさん!」
リリアーナはついで、すこし離れたところに立っていたグレアスのもとへと駆けてきた。
「あの、これ、受け取ってください」
差し出されるのは、リリアーナが手にしていた、もうひとつの花束である。ちいさめのカラーは、けれども存在感のある深い赤だ。そこに薄い紅色の蘭が添えられ、白いリボンでまとめられている。
「感謝のしるしです。ほんとうに、ありがとうございました」
リリアーナは、にこ、と、大輪の花が綻ぶときのように笑った。
「では……遠慮なくいただこう」
花束を贈られるなど、魔界ではないことだ。物見遊山ついでに滅多に出来ない良い経験をさせてもらった、と、思いつつ、グレアスはちいさなブーケをそっと抱えた。
「見たい景色も見ることができたことだ。俺はもう行こう」
ゆっくりと踵を返しかける。
「えっと、あの……またいつか、お会いできますか?」
リリアーナが、どこか引きとめるような調子でおずおずと言い、グレアスを見詰めた。
「さて……だが、ファルドラコンもいつかまた巡ってくるのだ。縁があれば、また」
「はい……お気をつけて」
「ああ。――幸いかな花祭り《フィオレ・フェリス》」
最後にそうつぶやいて貰ったブーケの花のひとつに恭しく口づけしてみせる。それから今度こそ踵を返したグレアスは、歩き出しながら、後ろ手にブーケを軽くふって見せた。
そのとき、目の前で、朝焼け色の花の最後のひとつが、はら、と、地上へと舞い落ちてくる。まだ夜は深いが、やがて東の空に曙光が差してくるだろう。その東雲の色だ。
グレアスは東の空へと紅玉の眼差しを向けた。
次に目指すのはアウロレア――……暁を名に負う、どこより早く夜明けを迎える、東の海辺の街である。
「――待っていろ、勇者よ……約束を果たそう」
空を見上げたグレアスは、誰もいない虚空へ向かって、そ、と、語りかけたのだった。




