有閑魔王に花の祭りを。(10)
「おばあちゃん!」
店の前まで戻ると、リリアーナは弾かれたように中へと駆け込んでいった。グレアスはゆったりとその後に続く。
店内では、木製テーブルの前の椅子に腰掛け、ソフィが孫娘の帰りを待っていた。その視線の先には、かつて、彼女の夫であるルキノが描いた花園のキャンバスがある。
「ああ、おそかったわね、リリアーナ。夕ご飯にしましょうか。よければ、グレアスさんも一緒に」
「それどころじゃないわ、おばあちゃん。グレアスさんがね、その絵の花園へ、おばあちゃんを連れて行ってくれるって」
リリアーナが急きこんで言うと、ソフィは、え、と、目を丸くする。
「どういうことなの、リリアーナ。だって、フィオレ・ド・ラクラは伝説の中の花で……」
「それがね、やっぱりそうじゃなかったみたいなの! あの花は、ほんとはフィロ・ドラクラで、この街は龍の繭の上にあって、繭の中の子供に龍が栄養を与えるために花を降らせてるんだって!」
「ど、どういうこと……?」
「グレアスさんが教えてくれたの。あれは単なる伝説じゃないって。おじいちゃんは、ほんとに、ほんとに、この花園をみたんだよ、おばあちゃん!」
リリアーナは昂奮した様子で、早口でそう言い立てた。しかしソフィのほうは、わけがわからず、目を白黒させている。
グレアスは、祖母と孫娘との遣り取りを、しばらく傍らで黙って眺めていた。それから、つかつか、と、絵のほうへと歩み寄り、そこでソフィを振り返った。
「まあ、細かいことは、さしたる問題ではない」
ファルドラコンの泰然さを真似るように、グレアスは口にする。
「街の成り立ちやら伝説やらの話より、お前にとって何より大事なのは、この光景だろう? お前の夫が見たこの花園の景色を、今度は、その目で見てみたくはないか? 問題はそこだけだ。それ以外の事情など、いっそ放っておいてかまわない」
見たいか見たくないかどちらだ、と、首を傾げると、ソフィはすこしばかりぽかんとした。それから、夫の描いた絵を見詰める。
すぐに、その眸には強い意志のようなものが宿った。
「もちろん……見たいわ。見たいに決まってる」
「そうだろうとも」
「でも……ほんとうに、見られるの?」
「ああ、見せようではないか。さあ、この手を取れ」
グレアスは芝居がかった仕草で、右の手をソフィにむけて差し出した。
椅子に座っていたソフィが立ち上がり、ふら、と、こちらへと一歩を踏み出す。それを確かめて、グレアスはソフィに歩み寄り、老婦人の手を恭しく取った。
「おばあちゃん、いってらっしゃい」
リリアーナがやさしい眼差しで祖母を見詰める。それを見て、グレアスは、くつ、と、笑った。
「なにを暢気に……おまえも連れて行ってやれるぞ」
グレアスが言うと、リリアーナは驚いたように、きょとん、と、目を瞠った。
「え? そ、そうなんですか?」
「最初から、ひとり限定だなどとは、俺は言っておらん。そんなけちくさいことをするつもりはないぞ。というか、その花園に咲く花で、おまえは祖母に花束を作ってやりたいのではなかったのか? それとも、おまえはここに残りたいか?」
すこし悪戯っぽく問うてやると、リリアーナは慌てて、ふるふるふる、と、首を振った。
「い、行きたいです! もちろん、行きたいわ! わたしも見たい……おじいちゃんの見た、幻の花園を」
「では、お前も手を」
グレアスは、今度は左のてのひらを、リリアーナに向けて差し出した。リリアーナは、すらりとしたグレアスの手指の先に、自分の右手をちょこんと乗せた。グレアスは、その指を、そっと掴む。
「いくぞ」
低い声がそう宣告した刹那、三人の姿は室内から掻き消えていた。
そして次の瞬間には、雲海を突き抜けた空に、グレアスはリリアーナとソフィとを抱えて浮いていた。その空は、いまは神秘的な紺青に染まっている。
見下ろすと、薄い雲の下には、夜のフィレンネルの街並みが見えていた。リリアーナもソフィも、あまりのことに言葉を失っている。
「心配せずとも、落とすようなへまをしはしない」
グレアスはふたりにそう囁きかけてやった。
「見てみろ」
紅玉の眼差しを向けて指し示すのは、自分たちのさらに上空である。遠く、更に高い位置にある雲の切れ間に、まるで蜃気楼のような影が見えていた。
ふわり、ふわり、と、ゆったりと高度を下げつつ舞い降りてきているのは、いにしえの龍、ファルドラコンだ。はばたくたび、うつくしい翅から鱗粉がきらきらと散っていた。
「あれ、が……」
リリアーナが息を呑む。
「そうだ。あれが、おまえたちの街がそうと知らずに語り継いできた、太古の龍だ」
そう言うと、グレアスは音もなくすぅっと高度を上げた。
ちょうど蝶龍の真横まで来ると、相手に目礼する。ファルドラコンも、応えるように、ゆったりと瞬いた。
それを合図に、グレアスは、ふわり、と、龍の背のほうへとまわった。ゆっくりとその背に降り立つ。足が龍の背についたのを確かめてから、リリアーナとソフィも、そこに下ろしてやった。
「フィオレ・ド・ラクル……いいえ、フィロ・ドラクル……これが」
リリアーナは目の前の光景に感嘆の息を漏らした。
「あのお調子者が……まさか、ほんとうのことを言ってたなんて」
ソフィが微笑する。その頬はほんのりと紅潮し、眸はわずかに潤んでいるようだった。
「すこしなら摘んでも構わんそうだぞ」
グレアスはリリアーナに言ってやる。
「ほ、ほんとうですか?」
リリアーナが戸惑いつつも、嬉しそうな表情をした。
ファルドラコンは何かを伝えるように、ふわ、と、しずかに翅を動かす。それを確かめて目を細め、グレアスは頷いた。
「ああ、良いそうだ。だが、急げ。もうすこし下まで降りたら、龍はこの花々を撒いてしまうからな。繭の上に、栄養となる花を撒く……それがファルドラコンの訪いの目的だ」
「っ、はい!」
リリアーナは明るく答え、自分の周りの花を数輪、やさしく丁寧な手つきで摘み取った。
そのとき、蝶龍が下界へ向けて、雲海を突き抜ける。
「そろそろか……戻るぞ」
グレアスはそれを合図に、再びふたりのほうへ手を伸べた。
リリアーナもソフィも、促されるまま、グレアスの手を取る。グレアスはふたりとともに、ふわ、と、空中へ浮かびあがった。
しばし、夜の中を飛ぶファルドラコンの背の花園を見送る。リリアーナもソフィも、名残惜しそうに、幻想的な夜明けの空の色を宿した花畑の光景を見詰めていた。
グレアスにも、ここを離れがたいと思っているのだろうふたりの気持ちは、十分に理解できる。が、しかし、そろそろ――……刻限だった。




