有閑魔王に花の祭りを。(9)
「――すまん、騒がせたな」
男の姿がすっかり消えると、ふう、と、息をついたグレアスは、あらためてファルドラコンの傍に浮かんだ。
『グレアス=オーギュストにも、なかなかご苦労があるようだ』
「はは、そうでもない。側近たちが優秀だからな。――ところで、ひとつ伺いたいことがあるのだが」
グレアスが言うと、なんだ、と、いうふうに、ファルドラコンはグレアスに眼差しを向けた。
「五十年前……そなたは背に人間を乗せたか?」
『ああ、そんなこともあったな。たしか、ふたりだったか。あの時は、いまの騒ぎの何十倍、何百倍、下界は騒がしかった。たまたま降りていったのが午の明るい時刻でな、吾の姿を見つけた人間に攻撃された』
「そのふたりというのは、そなたを攻撃した者か?」
『いいや』
ファルドラコンは、ふぁさ、と、はばたく。その眸が、やわらかく細められた。
『助けてくれたというべきだろう。人の攻撃を防いで、吾を上空へと逃がしてくれたようだ。その際に、しばし、吾が背の上にいたな』
まるで他人事のように語る龍の言葉に、グレアスはちらりと苦笑する。この大いなる生き物にとっては、そうしたすべてもまた瑣末事なのかもしれない。そう感じさせるような言い方だった。
ファルドラコンの言ううちのひとりは、おそらくリリアーナの祖父のルキノであろう。一介の画家がどうして蝶龍を守ろうなどとしたものか、そのあたりの理由ははっきりしない。が、この点は、ファルドラコンに訊ねたところで、たしかな返答があるとも思えなかった。龍は、人間の事情になど、およそ興味も関心もないだろう。
単なる好奇心だったのかもしれない。あるいは、空から降る花の姿を見て、フィレンネルの街に暮らすものだからこそ、何か感じるものがあったのかもしれない。
とにかく彼らは、人間に攻撃されているファルドラコンを見兼ねて、助けたのだ。
彼ら――……もうひとりは、いずれ勇者と呼ばれることになる者だったろう、と、グレアスは笑う。
「なるほどな」
グレアスは、ふう、と、吐息し あらためて目の前の威厳ある蝶龍に呼びかける。
「いにしえの龍よ」
『今度はなんだ、グレアス=オーギュスト』
「頼みがひとつ。聞き入れてはくれまいか?」
『内容による』
「そのうつくしい背の花園に、人を招いてやってほしい。あと、そなたの背の花を、ほんの少し、摘ませてやってくれ」
そう頼むと、ファルドラコンは、ゆったりと瞬きする。それから、諾うようにふぅわりとやわらかく翅を動かした。きらきらと鱗粉が舞う。
『良いだろう。ただし、吾は地上へは降りられぬ。そういう生き物だ』
「もちろん、そなたの在り方を歪めるような真似は、するまいよ」
グレアスは言った。
大いなる龍はいつしかずいぶんと高度を下げている。雲を空かしたその下には、夜のフィレンネルの街の姿が望めるようになっていた。
*
空でのひと掃除を終えて、グレアスが地上に戻ったときには、すでにすっかり日が暮れていた。
とはいえ、花祭り《フィオレ・フェスタ》の時期だからだろう。夜になってもまだまだフィレンネルの街の熱気は衰えず、通りや広場は賑わったままだった。大通りに面した店々には、夜になり、明かりが灯っている。軒先に吊るされたランプの中には、スズランやチューリップの花を象ったものがあった。乾燥花を束ねたものをランプシェードの上に飾ったものなどもある。
ほんとうに見ていて飽きない街だ、と、グレアスは笑む。
広場に出ている屋台も、宵らしく、酒や肴などを提供する店が増えているようだ。きっと花びらを漬け込んだ果実酒なども探せばあるのに違いない。
「――待たせたな」
グレアスは礼拝堂の傍らに佇むリリアーナに声をかけた。
「グレアスさん! ……よかった、ご無事ですか?」
リリアーナは、急に行先も告げずに姿を消したグレアスを案じて、どうやら気を揉んでいたらしい。グレアスの顔を見るなり、ほっと安堵の表情を見せた。
「むろん無事だ。さあ、いったん店へ戻るとしよう。もうあまり時間がない」
「時間……?」
「ああ。あの絵に描かれた花園へ、僭越ながら亡くなったご夫君ルキノどのになりかわって、ソフィどのを連れていってやるつもりだという話だが」
グレアスが笑むと、リリアーナは驚いたように目を瞠った。
「おばあちゃんを……? でも、どうやって? だって……空の上、なんですよね?」
リリアーナは天を仰いだ。
そこにはまだ蝶龍の姿は見えてはいない。その影は遠く、夜の雲の影に隠れているのだろう。だがじきに、人間の目にもたしかめられる辺りまで、彼の龍も降りてくるはずだ。
「心配するな。実は俺は飛べる」
グレアスは、くすん、と、肩をすくめ、リリアーナを家路へと促した。




