有閑魔王に花の祭りを。(7)
フィレンネルの街は、そろそろ薄暮に包まれていた。白壁の家々には、ぽつ、ぽつん、と、あたたかな橙色の灯がともりはじめている。それはそれで、また昼間とは違った幻想的な光景だった。
宵の入り口というのは、ちょうど人々の視界が効きにくくなる時刻だ。好都合だな、と、グレアスは紅玉の眸を眇めた。
「騒ぎを起こして、楽しい祭りに水を差す無粋など、したくはないからな」
誰にも悟られず、異常なことなどほんの欠片ほどもなかったかのように、始末してしまおう。グレアスの眸の奥には、ちか、と、一瞬だけ昏く妖しい光が宿った。
人界にやって来て以来、これまで――人がするような旅を味わうために――飛行魔術も転移魔術も使ってはこなかった。魔術自体もそう。物見遊山の旅をするのにはさして必要ではなかったから、ほとんど使用はしていない。
が、べつに、使えないわけではなかった。
「それを勘違いでもしたか? ははっ、小物だな」
人目を避けるために入った路地で、グレアスはひとりごちた。そして、その次の刹那には、その場から、彼の姿は掻き消えていた。
次に現れたのは遥かな空の上である。ひょぉおぉん、と、強い風が吹き抜けた。
影が差す。
大きい。
風の動きに合わせるように、それは、ふわり、と、やわらかそうな翅をはばたかせた。
蝶龍――……グレアスもずいぶん長く生きてきたが、実物を目にするのははじめてだ。太古から命を繋ぐ、龍族の一である。
まるで千万の蝶のはばたきを見るかのようだった。透けるように繊細な極彩色の翅から、きらきらと幽かな光を放ちつつ、鱗粉が散っているのだ。
すこしずつ、すこしずつ、それは高度を下げてきている。ちょうどグレアスの真横あたりまで降りてきたとき、巨な背の一面に咲き乱れる、朝焼け色の花々が目に入った。
ファルドラコンが、ちら、と、グレアスを見る。万華鏡のように煌めく眸は、威厳と慈愛とに満ちていた。
『グレアス=オーギュストか』
重々しい声が響いた。が、それは現世の音ではない。頭の中に直接、相手の思念が語りかけてきているのだった。
「知っていただけていたとは光栄だ、いにしえの龍よ」
グレアスはやや芝居がかった調子で言い、優雅に、恭しく礼をした。
「しかし、偉大なる太古の龍にオーギュストなどと言われたのでは、少々こそばゆい」
今度はややくだけた口調で続ける。ファルドラコンはそれには答えず、しずかで、ゆるやかな下降を続けていた。
はばたくたびに柔らかい風が吹く。春に吹く微風のように、それはあたたかでやさしい空気の流れだった。
背に咲き乱れる花が揺れている。
およそ五十年に一度、まだ繭として眠る子のもとを訪れ、その花を与える。長い長い時の果てに羽化した次代の蝶龍も、やがてまた同じように空を経巡るようになるのだろうか。
くりかえされるその営みはまるで、大いなる自然の摂理そのものかのようだ。
悠久の時を生きるものは、ただただ泰然としていた。まるで自然そのものかのような、瑣末事をすべて超越した存在だった。
なにものにもかかずらうことなく、果てしない旅路をつづける龍――……。
「太古の龍よ。まことに申し訳ないが、少々、騒がせる」
グレアスはファルドラコンに向かって軽く目礼した。
そして、顔を上げると、視線を鋭く尖らせて彼方を睨んだ。
「無粋者めが……」
舌打ちとともに、低くつぶやいたときだった。ゆったりと流れていた時を斬り裂くように、空間を歪めて何かが飛んできた。
「――墜影ッ!」
呪文なのか、そんな喚き声とともに、黒紫の矢がうなりをあげて奔る。風雅の欠片もない、けたたましい音が炸裂した。
あろうことか、ファルドラコンのうつくしい翅を射ぬく軌道で飛んできた矢に、グレアスは、眉根を寄せた。
「身の程知らずが」
ち、と、舌打ちして、さっと右手をひと振りした。
魔力を操るのに呪文だの詠唱を必要とする者の力など、恐れる対象ではない。矢は急激に勢いを失い、次の瞬間には、グレアスのてのひらの中にとらえられていた。
グレアスは、いかにも詰まらないものを見るような冷めた視線で、手の中の矢を見下ろした。が、すぐに、ぽい、と、無造作に放ってしまう。グレアスの手から離れたそれは、そのまましばし落下したかと思うと、蒼白い焔に包まれて灰燼に帰した。
はあ、と、グレアスは嘆息する。矢の飛んできた方向を静かに睨めつけた。
「身の程知らずが」
もう一度、低くどすをきかせた声でつぶやくと、グレアスは宙を蹴った。




