有閑魔王に花の祭りを。(3)
その後、グレアスはしばらく石畳の敷かれたにぎやかな目抜き通りの散策を楽しんだ。
フィレンネルの街は、どこもまぶしい白壁の家々が並んでいる。小さな窓の花、壁にかけられた鉢植えの花などを眺めながらぶらぶらと歩いているだけでも、ずいぶんと気分は華やいだ。
魔界のマゼンタの空も、それはそれで、悪くない。しかし、白壁の街並が続き、そのそこかしこに色とりどりの花が飾られている光景には、明るい青空がぴったりだ。そんなことを思いつつ、グレアスはゆったりと道を歩く。
街並みの向こう、ゆるやかな丘をのぼりきったところに、やはり白い石を積んでつくられた背の高い塔が見えていた。
その塔のほうへ向けてゆるい坂道になっている大通りをいましばらく進み、角をひとつ曲がる。すると、すぐに目的の店が目に入った。
先程たすけた少女が言っていた、花屋である。
店はやはり白い壁の建物で、その上に載った太陽のようなオレンジ色の屋根が、見る者の気分を明るくさせるような雰囲気を作りだしていた。
短い階段が通りから店の入り口に向かって続いている。扉の横には手描きの木製看板がかけられており、光の花という文字が綴られていた。やさしい響きのその言葉が、どうやら、この店の名前であるらしい。
店に向かって続く階段の一段一段の端には、ちいさなヴィオラの鉢植えが置いてある。くすんだターコイズ色の扉が、いまは大きく開け放たれていて、その向こうがちいさなホールのようになっているのが見て取れた。
入り口にあたりにあるのは、ガーベラやラベンダー、ローズマリーだろうか。まるで春を切り取ってきて詰め込んだかのような空間だ。
ふと風が吹いてくると、ほんのりと香りが立って、鼻腔を擽る。
グレアスはゆったりとした歩みで階段を上り、そ、と、店の中をのぞきこんだ。
ふつうの住居に比べて、窓がかなり大きめに切られている。そのおかげで、室内とはいえ、中にはやわらかな陽光が注いでいた。
床には陶器の壺に活けられた花がたくさん並んでいる。壁沿いにいくつもの木の棚が設えられていて、そこにも様々な花が咲き揃っていた。乾燥花のリースや、香草をリボンで束ねたものも、とりどりにうつくしい。
だが、中でもグレアスの目を引いたのは、店の奥の壁にかけられた大きなキャンバスだ。描かれているのは雲ひとつない空を背景に広がる花畑である。
絵の中で一面に咲き乱れているのは、朝焼け色の花だった。紺青から淡く透けた青、薄紫、ほんのりとした茜へとグラデーションをえがく花びらがうつくしい。神秘的な朝焼けの空の色を、そのままうつしたかのようだった。
「……フィロ・ドラクラ」
グレアスは思わず、ほう、と、嘆息するようにつぶやいていた。
そのとき、店の奥からエプロン姿で花束を抱えた人影が現れる。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか? ――って、先程の……!」
姿を見せたのはリリアーナだった。
「お越しくださって、うれしいです。あらためて、先程はほんとうに助かりました。ありがとうございました!」
ぺこり、と、頭を下げる。
「配達は無事に済んだか?」
グレアスは笑って言った。顔を上げたリリアーナは大輪の花が咲くときのように笑った。
「はい、おかげさまで。――もしよかったら、そちらのテーブルにおかけになってください。すぐにお茶をお出ししますから」
「いや、気遣いは無用だ。少々訊ねたいことがあって寄っただけだから」
礼を期待してのことではない、と、グレアスは苦笑しつつ肩をすくめたが、リリアーナは引き下がらず、やや強引にグレアスに席を勧めた。
「そうはいきません、座ってください。恩人ですもの、お茶くらいご馳走させてくださいな。ね?」
春の花の精のようにふわりと可憐に笑って言われ、グレアスは結局、席についた。
やや背の高い木製の小さな丸テーブルは、いつもは花束などをつくる作業台として使われているのかもしれない。天窓から、あたたかく明るい光が降りそそいでいた。
「あの、お名前をお聞きしてもいいですか?」
少女に訊ねられ、グレアスだ、と、こだわりなく我が名を教えた。
「グレアスさん。素敵なお名前ですね。ちょっと待っていてください、すぐにお茶をお持ちしますね」
「ああ、ありがとう」
グレアスが応じると、リリアーナはくるりと踵を返して、店の奥へと姿を消した。その間、グレアスは再び、壁の絵を眺めていた。
「お待たせしました」
白い陶器のポットとカップが載った盆を持って、リリアーナが戻ってくる。それをテーブルの上に置くと、グレアスの目の前でカップに紅茶を注いでくれた。
「これも、よければ」
そう言って指し示されるのは、透明な瓶に詰められたジャムだ。
「ジャスミンのジャムなんです。お茶に入れて飲んでみてください」
「ほう」
グレアスは言われたとおりにジャムを木匙でひとすくいすると、紅茶に混ぜてみた。茶を口に含むと、茶葉のゆたかな香り以外に、華やかで甘い、けれども爽やかな香りが広がった。
「なるほど、花とはこういう楽しみかたもするものなのだな」
グレアスは茶を味わい、ふ、と、口許をゆるめた。目を細めるグレアスを前に、リリアーナのほうも嬉しそうにしていた。
「ところで、先程、聞きたいことがあるっておっしゃってましたけど。わたしでお役に立てることでしょうか?」
グレアスが茶器を置いたところで、リリアーナが言った。
「ああ、そうだった。――この街の花祭り、フィオレ・フェスタでは、フィロ・ドラクラの花が降る光景を見ることができると小耳に挟んだ。ぜひともこの目で見てみたいのだが、いつ行われる儀式なんだろう。リリアーナ嬢は、何か知っているか?」
知っていれば教えてほしい、と、グレアスが言うと、リリアーナはにこりと笑う。
「よかった、それならわたしでお役に立てそうです。――あの絵……」
少女は店の奥の壁にかけられている、花畑の絵のほうへと向き直った。
「あそこに描かれているのが、フィオレ・ド・ラクラなんです。といっても、ラクラの花は伝説上のもので、現実のお花じゃない、幻の花だって言われてるんですけど」
「フィオレ・ド・ラクラ……幻の花、か」
グレアスは意味深につぶやくと、絵のほうへと紅玉の眼差しを向けた。
「ちなみに、その絵は誰が描いたものなんだ?」
「えっと、亡くなったわたしの祖父です。祖父は絵描きで、礼拝堂の天井画の下絵として、若い頃に描いたものだって聞いています。伝説の中にしかない、幻の花園……でも」
何かを言いかけて、そこでふと、リリアーナは黙った。
その沈黙を訝って、グレアスは片眉を上げる。
「でも、なんだ?」
「あ、なんでもないんです!」
少女は慌てて首を左右に振る。だが、言葉とはうらはらに、どこか神妙な顔つきで再び絵を見ると、そ、と、ちいさく溜め息をついた。グレアスは、ちら、と、苦笑する。
「俺はこの街で、その花が降る光景が見られるのだと思っていたが……間違った情報だろうか? 楽しみにしていた光景が見られないのなら残念なのだが」
話の糸口としてそう水を向け、続けて嘆息してみせる。すると、リリアーナはまた、ふるふる、と、頭を振った。
「あの、間違いとかでは、ないと思います……フィオレ・フェスタの時期には、毎日、街の中央の礼拝堂の塔の上から花を撒く儀式がありますから。もちろん本物のフィオレ・ド・ラクラではないんですけど、似た花を降らせるんです。きっと、それのことじゃないかしら」
「ああ、なるほど」
グレアスは、ふむ、と、唸った。
「やはり……本物のフィロ・ドラクラの花が降る光景をみるのは、難しいのか」
ひとりごちつつ深い溜め息をもらすと、聞きとがめたらしい少女が、はっと息を呑んだ。
「ほん、もの……?」
「ないのか?」
「フィオレ・ド・ラクラは、幻の花で……」
「さっきリリアーナ嬢は現実の花ではない、幻の花だと言われていると言ったが。その口振りがまるで、誰が何を言おうと、自身はどこかでその実在を信じているかのように聞こえた。俺の気のせいか?」
グレアスが口の端を持ち上げていった言葉に、リリアーナは目を瞠った。
「わ、たし……」
少女は言いよどみ、再び絵の花園を見詰める。しばらくきゅっとくちびるを引き結んでいたかと思うと、少女はグレアスに向き直り、真剣な顔つきで言った。
「わたしは、この花園が、ほんとうはどこかに実在していると思っているんです。だって、おじいちゃんは……」
そのときだった。店の奥から、誰か別の人物の声が聞こえてきた。
「まったく、リリアーナったら。あんたまだ、ルキノの言葉なんか信じていたの?」
そんな声とともに現れたのは、一人の老婦人だ。
「おばあちゃん」
リリアーナは彼女にそう呼びかける。
「あ、グレアスさん。こちら、祖母のソフィです。一緒にこの花屋をやってるの」
そんなふうに老婦人を紹介してくれる。グレアスはソフィに向かって優雅に礼をした。
「俺はグレアスという。フィレンネルの街へは、フィオレ・フェスタを楽しみに来た。特に花降る光景に興味があって、リリアーナ嬢にお訊ねしていたところだ。できればぜひ、絵の花……その本物が降る光景を見たい。ソフィ殿にも、ご存知のことがあれば教えてもらいたいのだが」
「ねえ、おばあちゃん。今年って、おじいちゃんが言ってた五十年目にあたる年でしょ? だったら、もしかしてもしかすることだって、あるかもしれないじゃないの」
グレアスの言葉に続けて、リリアーナは畳みかけるように言った。
「もしかしたりなんか、しないわよ。きっとルキノ……あのお調子者が、適当なことを言ってただけなんだから」
ソフィは孫の言葉を否定して、軽く首を振った。
「適当だなんて……そんなことないって。だっておばあちゃん、おじいちゃんから、フィオレ・ド・ラクラの花束をもらったことがあるんでしょ? それを結婚式のブーケにしたんじゃないの?」
「そうね。たしかにルキノは、あれをフィオレ・ド・ラクラだって言ってたけど……ほんものだったとは限らないわよ。単に似た花だったんじゃないかしらね」
「もう、おばあちゃんったら……!」
リリアーナは困ったように眉根を下げた。
「興味深い話だな。差し支えなければ、もうすこし詳しく聞かせてくれないか、ソフィ殿。ご夫君のルキノ殿との思い出を」
グレアスは目を細めた。




