有閑魔王に温泉を。(終)
そんなふうにして当初の目的のとおりめいっぱい温泉を堪能した数日後の朝のことである。
リオの話によると、温泉街の湯は、各所で、ゆっくりと温かさを取り戻しつつあるらしい。この調子なら、じきに適温にまで戻ることだろうということだった。
そうなれば、再び街に活気が戻り、温泉を求めて客がやって来るようになる。その日もそう遠くない未来だろう。
街の出入口である門のところで、グレアスは緑色の屋根瓦の上の、堂々たるカラスの像を見上げた。その手には、温泉水で作った果実酒と、リオとメイアが丹精込めて用意してくれた、お手製のサンドイッチがある。
「行っちまうんだな、グレアスにいさん」
わずかばかりしんみりとした声で、リオは言った。
「スプリングスの湯はずいぶんと堪能させてもらったしな。そろそろ次の目的地を目指そうと思う」
「そっか。次はどこへいくつもりなの?」
「フィレンネルへ行ってみようかと思っているが」
「ああ、花と芸術の街か……たしかもうじき、花祭り《フィオレ・フェスタ》の時期だったっけ? もしかして、それが次の目的?」
「そうだ。今度は祭りを楽しみたいと思っている」
グレアスが答えると、リオはもう一度、そっか、と、短く言った。
「にいさんが祭りに参加したいってんなら、ここにいつまでも引きとめておくわけにはいかないかぁ」
どこまでも名残惜しそうにはしながらも、リオは結局、そう引き下がったのだった。
そんなリオの隣には、妹のメイアの姿もある。
「グレアスさま、ほんとうに、ありがとうございました。街にお湯が戻ってきて、これから、お客さんもきっと増えます。そしたら、兄さんの夢も、いつか叶うかも」
兄のほうへと眼差しを向けつつ微笑む少女に、グレアスもまた穏やかな表情をつくる。
「ああ、そういえば、リオ少年は飯屋になりたいのだったな」
そう応じて、再びリオに視線を向ける。
「では、いつかお前が店を開いたあかつきには、きっとまたこの街を訪ねよう」
グレアスが笑うと、リオは目を瞬いた。
「それ、ほんと?」
「もちろんだ」
「っ、オレ、頑張る! で、にいさんのこと、待ってるから!」
「ああ」
グレアスはしかと頷くと、踵を返し、門を出た。
「またな、グレアスにいさん!」
リオの声が背を追い掛けてくる。
「グレアスさま、お気をつけて!」
続いて、メイアの声がした。
グレアスは軽く振り向くと、紅玉の眸を細め、ふたりに向けて手を挙げた。
「また」
そう応じた自分の声に、かつての別離の記憶が重なった。
――じゃあ、また会おうぜ。そんときこそ、決着つけるぞ。
に、と、口角を持ち上げてそう言った相手がいた。けれどもそれきり、いまのいままで、その男とは顔を合わることのないままだった。
グレアスは懐に手を差し入れると、古びた手記を取り出して、しばし眺める。ふ、と、口の端を持ち上げると、気持ちよく澄んだ蒼い空を仰いだ。
そのときだった。不意に見知った気配を感じとって、グレアスは片眉を上げた。
「――何か用か? ザフィエ」
せっかく人が別れの余韻に浸っていたものを邪魔するなよ、と、軽く嘆息を漏らす。
「いちおう言っておくが、俺はまだまだ帰る気はないぞ」
そう言ってやると、あちらからも溜め息の気配が伝わってきた。
『ええ、ええ、そうでしょうとも。ずいんと旅を満喫していらっしゃるようで、まったく、良いご身分ですね、グレアスさま』
グレアスの言葉に反応して、頭の中に、聞き慣れた側近の声が響いてくる。ザフィエは、魔力を使って思念を飛ばし、魔界から直接グレアスに語りかけているのだった。
「そりゃあ、魔王だからな。魔界一の、良いご身分だ」
グレアスは、ひょい、と、肩をすくめる。
『はいはい』
ザフィエはいかにも適当にグレアスの言を受け流した。
「それで結局なんの用なんだ、お前は?」
グレアスは苦笑して、側近に話を促した。
『さっきこちらにあなた様からの手紙が届きましたよ。――なんなんです? わざわざ魔獣を召喚して、走って手紙を運ばせるとか……非効率にもほどがあるじゃないですか。しかも、そうやって届いた手紙の中味ときたら、〈俺は温泉街スプリングスにいる。まだ温泉にはつかっていないが、とりあえず温泉水と饅頭がうまい〉なんていう、私にとってはどうでもいい、ふざけたものですし。意味がわからない』
「うん? この温泉街では、ああして宿から知人に手紙を送る風習があるとかで、やってみたくなったのだ。――ってか、なんだお前、わざわざそんな文句を言うために、交信を繋いできたのか?」
『ちがいますよ。あなたみたいな酔狂じゃあるまいし』
グレアスの言葉に、側近は呆れた声音で、即座にそんな反論を寄越した。
『グレアスさまの不在に気付いた半端者どもが、そわそわし出しました。念のため、そのご報告です。いまさら気づく半端者たちですから、まあ、放っておいていいかとは思うのですが。とりあえず静観でかまいませんよね?』
「ああ、かまわん」
『身の程知らずにもこの機に蜂起しようなんて愚か者がいたりしたら、私のほうで、徹底的に殲滅しておいていいですか?』
「……任せるが。――相変わらず穏やかじゃないな、ザフィエ。俺はお前だけは敵にまわしたくないよ」
『褒め言葉と取っておきます。私に刃向かう愚か者は嫌いなんです』
しれっとのたまう側近の物騒な言に、グレアスは、はは、と、ちいさく笑った。
『こちらは軍もありますし、何とでもなりますが、むしろ、御身、お気をつけて。私なら、軍勢ひしめく魔王城を落とすより、いま単身で人界にいるあなたのほうを狙いますよ』
「なんだ、そんなもの、心配無用だろう。俺を誰だと思ってる?」
グレアスはちらりと不敵に笑んでそう返した。
『さようですね』
ザフィエが軽く笑った気配が伝わってきた。
そして、その言葉を最後に、ザフィエとの交信は途絶えた。
グレアスは古めかしい手記を片手に、街道をゆく。
次なる目的地は、花と芸術の街フィレンネルだ。その街の有名な花祭りは、いったい、どんなものだろうか。
手記に綴られた文言を思い出しながら、グレアスは東へ向けて歩を進めた。




