有閑魔王に温泉を。(9)
「ふぅ……たしかにこれは、極楽だな」
勇者が絶賛するのもわかる、と、グレアスは嘆息した。
リオに紹介されてしばし逗留しているスプリングスの宿である。そこの自慢の露天風呂を独り占めしているグレアスの表情は、これ以上ないほどに満足をにじませたものだった。
スプリングスの温泉の秘密を見つけた、あの山登り。その後、リオはすぐに街の者たちを集めて温泉の熱源についての経緯を語り、彼らが持っていたストニアの種をグレアスのもとへと届けた。
リオから種を預かったグレアスは、それらすべてに魔力を注いで、山の麓、かつてストニアの森が広がっていたあたりにつくられていた新たな街の外縁に、新世代のストニアの森を作り上げたのだった。
大量の魔力を使う仕事だったが、魔王であるグレアスにとっては、朝飯前mの仕事である。
そしていま、再生したスプリングスの温泉を真っ先に味わう栄誉を、グレアスは手にしたわけである。
といっても、フレアクロウがストニアの実を食べるために噴く火であたためられた地下水が、ここスプリングスに届くまでには、まだしばしの時間がかかるだろう。だから今回は特別に――おそらく、好物のストニアを蘇らせた者への魔鳥なりの礼なのだ――地下から湧き出る清水に直接火を噴いて、沸かしてもらった湯ではある。
「きれいだね……!」
フレアクロウがくちばしから火を噴き、湧き水をあたためてくれる様子を、リオ少年はグレアスと並んで見ていたが、その目はきらきらと輝いていた。
漆黒の大鴉が噴く焔は、蒼白く透き通った、実に幻想的なもの。それがあふれ出る水にぶつかると、ぱちぱち、と、ちいさな火球のようなもの弾ける。その光が下に溜まった水の面にも映るものだから、いっそうに夢幻のような光景だった。
「これ……たまにお客さんの前でやってくれないかな? すっごい喜ばれそう」
ついでにリオは、そんなことを言い出したりした。見世物のようにして、温泉にやってきた客を楽しませようというのである。
「はは、お前、なかなかに商魂たくましいな」
グレアスはリオの言葉に、くつくつと鳴らして笑った。
「まあ、しかし、お前たちが今後、ストニアの森を大事にしていれば……フレアクロウもその礼として、やってくれるかもしれんな」
冗談めかして言って、くすん、と、肩をすくめると、傍でフレアクロウは、かちかち、と、くちばしを鳴らしていた。オレンジ色の炎が、くちばしの先で明るく弾んでいた。
さて、そうして用意された温泉は、急場しのぎといえばそうかもしれない。だが、仕組み自体は、もとのスプリングスの温泉のものと同じでもあるわけだ。
いい湯加減の温泉につかりつつ、温泉水も使って作ったという果実酒のグラスを片手に揺らして、グレアスは、ほう、と、心からの息を吐いた。
「そういえばさ、グレアスにいさんって、実は偉い魔道士さんか何かだったりするの?」
グレアスがグラスの中味をひとくち呑んだところに、声をかけてきたのはリオだった。少年は、ぜひともグレアスの背中を流すのだ、と、張り切って、準備万端を整えているところである。
「ふむ、偉い魔道士か……そんなふうに見えるか?」
「まあ、見えるといえば、見える、かなぁ……なんか妙な威厳? そういうのは、感じるっていうか……」
リオが言うのに、はは、と、グレアスは笑った。だが、リオの問いには、はっきりと答えなかった。
しかし、リオはリオで、グレアスがきちんとした答えを寄越すことをはじめから期待してはいなかったらしい。
「もうっ」
ちいさくくちびるを尖らせはしたものの、その後は笑顔になって、グレアスを手招いた。
「準備できた。ここ、座って」
促されるまま、グレアスは湯船から出て、リオの用意したちいさな椅子に腰掛ける。リオは片手に湯桶、片手に清潔な布とを持って、グレアスの背後に立った。
布を湯桶の湯にひたすと、丁寧な手つきでグレアスの背を拭っていく。手際は慣れたもので、力加減も悪くなかった。
「いいものだ」
グレアスは、ほう、と、感嘆の息をついた。
「そりゃ、よかった」
リオは嬉しそうに笑った。
グレアスはしばし、湯の温もりと、背中の心地よい刺激に、うっとりと目を閉じていた。
「――『昼間からのんびりと湯につかり、ついでに酒を呑む。これ以上の贅沢があるだろうか』」
鼻歌でもうたうときのように口にする。
「なに、急に?」
「いや。ある者が、そう、手記に書いていたのだ。スプリングスの湯は最高だ、と。神か魔の賜物だろう、とまでな」
「へえ。でも実際、そうだったわけだ? だって、ここのお湯を沸かしてたのは、フレアクロウっていう魔鳥だったわけだもんね。その手記を書いた人は、スプリングスの温泉の秘密に、もしかしたら気づいていたのかな?」
「そうだな……そうかもしれん」
グレアスは紅玉の目を細めた。
だが、いまとなってはもう確かめようにも術のないことだ。それなら真相はわからぬまま、神秘的のヴェールの向こう側に仕舞っておくほうがおもしろいのかもしれない。
グレアスはそう思って、また、ほう、と、ひっそりと息を吐いた。




