第8話 父の帳簿
朝の工房には、捨てない布が三枚並んでいた。
一枚目。
昨日、馬車宿の裏口で下働きの少年が肩に掛けた試作品。
二枚目。
布端に丸い印を大きく縫い付けた改良品。
三枚目。
掴む場所だけを濃い糸で囲ったもの。
どれも高級品ではない。
色も揃っていない。
継ぎ目も見える。
だが、昨日よりは「何に使う布か」が分かる。
クラリスは、三枚の布を見比べた。
「印は大きい方がいいわね」
ノアが帳簿に書く。
「はい。体用認識が強くなります」
「ただ、少し子供っぽく見える」
「はい」
「高級一枚布とは分けるなら、それでもいい?」
「用途上は問題ありません」
ガルドが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「用途上は、な」
ノアは頷いた。
「見た目の格は下がります」
「そこを簡単に言うな」
「すみません」
ガルドは作業台の布を一枚掴んだ。
「こいつは、エルネスタの看板で表に出す布じゃねえ」
「はい」
「裏口用だ」
「はい」
「荷拭き用でもねえ」
「はい」
「体に掛ける布だ。短い間だけな」
「はい」
「……説明は、それで通せ」
クラリスがガルドを見る。
「認めるの?」
「認めてねえ」
ガルドは即答した。
「試すだけだ」
「昨日もそう言っていたわ」
「今日もそうだ」
ミリアが小さく笑いかけて、すぐ口を押さえた。
ガルドが睨む。
「笑うな」
「すみません」
ノアは帳簿をめくった。
「問題は価格です」
空気が少し変わった。
この領では、銅貨百枚で銀貨一枚になる。
銅貨数枚では、雑に扱われる。
銀貨一枚では、裏口には重い。
その間に、置かなければならない。
そして何より、ノア自身の時間を費用に入れる必要がある。
クラリスは昨夜、自分で帳簿に書いた。
自分対応は、費用に入れる。
ノアはその一行を消していなかった。
それだけで、クラリスは少し安心した。
「計算結果は?」
クラリスが聞く。
ノアは紙を出した。
【捨てない布・試算】
【材料費:低】
【選別工数:中】
【端処理:中】
【丸印追加:低〜中】
【説明札:低】
【試用・修正対応:中】
【推奨価格:銅貨八十枚】
「銅貨八十枚」
クラリスは繰り返した。
「銀貨一枚には届かないけれど、安くはないわね」
「はい」
ミリアが少し驚いた顔をする。
「思ったより高いです」
「はい」
ノアは頷く。
「銅貨数枚ではありません」
ガルドが低く言った。
「当たり前だ。端切れでも手は入ってる」
「はい」
「だが、銅貨八十枚で裏口が買うか?」
「難しいです」
「じゃあ駄目じゃねえか」
「単品では難しいです」
ガルドの眉が動く。
「また何か付ける気か」
「はい」
ノアは別の紙を出した。
【販売単位案】
【捨てない布:一枚】
【体用丸札:一枚】
【置き場指定札:一枚】
【初回修繕一回】
【価格:銅貨八十枚】
クラリスは紙を見る。
「布だけではなく、置き場と修繕込み」
「はい」
「夜戻り布と同じ考えね」
「はい。使い方が崩れると、すぐに荷拭きになります」
ミリアが頷く。
「ベラさんも言っていました。札を見ない人がいるって」
「はい。なので、布の端にも丸印を入れます」
ガルドが腕を組んだ。
「修繕一回込みってのは?」
「最初の誤用で端が汚れる可能性が高いからです」
「それをこっちが見るのか」
「はい」
「面倒だな」
「はい」
「だが、戻ってきたら使われ方が分かる」
「はい」
ガルドは黙った。
少しして、口元を歪めた。
「嫌な売り方だ」
「はい」
「褒めてる」
「ありがとうございます」
クラリスは、銅貨八十枚の文字を見た。
安くはない。
でも、高級一枚布よりはずっと低い。
捨てられるはずだった布の、使えるところを戻す値段。
安物ではない。
けれど、高級品でもない。
値段にも、置き場所がある。
「これで行きましょう」
クラリスは言った。
「ただし、最初から広げない。ベラさんの裏口で、三枚まで」
「はい」
ノアが帳簿に書く。
初回三枚。
馬車宿裏口限定。
修繕一回込み。
銅貨八十枚。
その文字を見て、クラリスは小さく息を吐いた。
半値で投げ売った時とは違う。
今は、値段を下げているのではない。
使われる場所を絞っている。
それを、自分の口で説明できる気がした。
◇
昼前、クラリスは執務室へ戻った。
机の上には、父への報告書が置かれている。
エルネスタ領主、アルベルト・エルネスタ。
クラリスの父。
かつては自ら馬車に乗り、王都南区の馬車宿まで謝りに行ったこともある人だった。
今は、病で寝台から起き上がれない日が多い。
判断力も、昔ほど鋭くはない。
それでも、古い顧客の名を聞くと、まだ目を開ける。
クラリスは報告書を手に取った。
羊毛布の再販売。
夜戻り布。
体用札。
捨てない布。
売上としては、まだ小さい。
あまりにも小さい。
父に見せるには、心もとない数字だった。
それでも、見せなければならない。
クラリスはノアを見る。
「父に報告します」
「はい」
「あなたも来て」
「私もですか」
「ええ。数字を聞かれるかもしれない」
「分かりました」
ノアは帳簿を閉じた。
その動作を見て、クラリスは思った。
不思議だった。
少し前なら、帳簿を見ることが怖かった。
数字は、自分の失敗を責めるものだった。
半値。
赤字。
信用低下。
買い叩かれ度。
そういうものばかりが並んでいた。
今も、数字は優しくない。
けれど、少しだけ違う。
数字は、自分を責めるだけではない。
戻ったものも、示してくれる。
◇
領主の寝室は、静かだった。
厚いカーテン。
薬草の匂い。
水差し。
読みかけの書類。
枕元には、古い革表紙の帳簿が置かれている。
アルベルト・エルネスタは、寝台の上で目を開けた。
髪には白いものが混じり、頬は痩せている。
それでも、目だけはまだ領主の目だった。
「クラリスか」
「はい、お父様」
クラリスは寝台の横に立つ。
ノアは少し離れて控えた。
「報告に参りました」
「羊毛布か」
「はい」
父はゆっくり頷いた。
「聞こう」
クラリスは報告書を開いた。
声が少し硬くなる。
「王都で半値にした羊毛布は、回収後、用途を分けて再販売を進めています」
「半値にした」
父が繰り返す。
クラリスの胸が小さく痛んだ。
「はい。私の判断です」
「責めているのではない」
「……はい」
「急いだのだろう」
クラリスは唇を結んだ。
父は天井を見た。
「私の薬代。借金。王都で落ちた信用。領民の冬支度。全部、一度に見えたのだろう」
「はい」
「そして、一番早く動く数字を選んだ」
クラリスは答えられなかった。
その通りだった。
半値にすれば、売れると思った。
売れれば、銀貨が入る。
銀貨が入れば、薬も買える。借金も少し返せる。職人にも払える。
そう思った。
でも、失ったのは銀貨だけではなかった。
「申し訳ありません」
クラリスは頭を下げた。
父は少しだけ息を吐いた。
「謝罪は聞いた。次を聞こう」
クラリスは顔を上げる。
父の声は弱い。
だが、逃げ道を塞ぐような強さがあった。
「はい」
クラリスは報告を続けた。
夜番詰所で、夜戻り布として試したこと。
外で使う布ではなく、戻った体を温める布として売ること。
馬車宿の裏口で、布を荷用、拭き用、体用に分けたこと。
体用札が銅貨五枚で売れたこと。
捨てない布を試作し、銅貨八十枚で三枚だけ試す予定であること。
父は黙って聞いていた。
途中で目を閉じた。
眠ったのかと思った。
だが、クラリスが「馬車宿」と言った時、父の指が動いた。
「南区の馬車宿か」
「はい」
「あそこは、昔から寒い」
クラリスは驚いた。
「ご存じなのですか」
「何度も行った」
父はかすかに笑った。
「若い頃、納めた布が硬すぎると怒られてな。宿の台所番に、湯も飲ませてもらえなかった」
ノアが少しだけ反応した。
「台所番ですか」
「名は忘れた。だが、よく怒る女だった」
クラリスはベラを思い出した。
血縁も時代も違うかもしれない。
だが、王都南区の裏口には、昔からそういう人がいたのだろう。
「今も、よく怒る台所番がいます」
クラリスが言うと、父は目を細めた。
「なら、そこはまだ生きている」
「生きている?」
「本当に駄目になった場所は、怒る者もいなくなる」
父はゆっくりと息を吸った。
「怒られるうちは、まだ商売になる」
ノアが帳簿を開いた。
クラリスが小さく言う。
「書くの?」
「重要なので」
父がかすかに笑った。
「値付け士殿か」
「ノア・レインズです」
「娘から聞いている」
父はノアを見た。
「半値を止めた男」
「止めきれてはいません。止めたのは、買い叩きの方です」
「同じことだ」
「違います」
ノアは静かに言った。
「半値売りは、クラリス様の失敗です。ですが、銀貨二枚での買い叩きは、別の損失です」
父は黙った。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「細かい」
「はい」
「だが、必要な細かさだ」
クラリスはノアを見る。
ノアは表情を変えなかった。
だが、少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
◇
父は、枕元の古い帳簿を指した。
「それを」
クラリスは帳簿を取った。
革表紙は擦り切れている。
留め具も古い。
中を開くと、取引先の名が並んでいた。
王都南区。
夜番詰所。
馬車宿。
産婆。
荷馬車組合。
古い宿屋。
小さな救護所。
どれも大口ではない。
だが、同じ名が何度も出ている。
「昔の顧客名簿ですか」
クラリスが聞く。
「顧客ではない」
父は言った。
「顔だ」
クラリスは息を止めた。
「顔……」
「銀貨の額だけなら、大商会には勝てない。だが、誰が、いつ、どこで、何に困っていたか。それは、簡単には真似できない」
ノアは帳簿を見る。
「使用場面の記録」
「値付け士殿は、そう言うか」
「はい」
父はかすかに頷いた。
「私は、顔と呼んでいた」
クラリスは古い帳簿を見た。
父の字。
若い頃の父の字。
今より太く、勢いがある。
そこには、値段だけではなく、短い覚え書きがあった。
夜明け前に寒がる。
馬丁の手袋が濡れる。
産婆、冬の夜に戻れず。
救護所、毛布足りず。
屋台、火元近く危険。
どれも、今ノアが見ているものと似ていた。
クラリスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
父は昔、同じように見ていたのだ。
領地の布を、ただ王都へ売っていたのではない。
誰が使うのかを見ていた。
「私は……」
クラリスは声を落とした。
「この帳簿を、見ていませんでした」
「見せなかった私も悪い」
「いいえ」
「病になってから、私は急ぎすぎた。お前に任せすぎた」
父の声は静かだった。
「クラリス。お前は失敗した」
「はい」
「だが、失敗しただけだ」
クラリスの手が、帳簿の上で止まる。
どこかで聞いた言葉だった。
失敗したことと、価値がないことは同じではありません。
ノアの声が、胸の中で重なる。
父は続けた。
「領主代行の価値は、失敗しないことだけではない。戻せるかどうかだ」
クラリスは顔を上げた。
父の目は、少し潤んでいるように見えた。
だが、声は崩れていない。
「戻せ。半値で失ったものを」
「はい」
「謝罪だけでは戻らない。働け」
クラリスは、深く頷いた。
「はい」
その返事は、硬かった。
けれど、昨日までとは少し違った。
裁かれるための返事ではない。
働くための返事だった。
◇
寝室を出た後、クラリスは廊下で立ち止まった。
古い帳簿を胸に抱えている。
ノアは隣で待っていた。
「ノア」
「はい」
「父は、昔からあなたのようなことをしていたのね」
「似ていますが、違います」
「どう違うの」
「私は損失から見ます。アルベルト様は、顔から見ています」
クラリスは帳簿を見る。
「顔」
「はい」
「私は、どちらも見ていなかった」
ノアはすぐには答えなかった。
クラリスは続ける。
「銀貨だけを見ていた。早く戻さなければ、早く売らなければ、そればかりだった」
「今は違います」
「そうかしら」
「はい」
ノアは短く言った。
「今日、報告しました」
「それだけ?」
「失敗を報告できるなら、次の数字を作れます」
クラリスは小さく笑った。
「また数字」
「はい」
「でも、今日は少し分かるわ」
ノアは首を傾げた。
「そうですか」
「ええ」
クラリスは古い帳簿を開いた。
南区の馬車宿。
夜明け前に寒がる。
馬丁の手袋が濡れる。
産婆、冬の夜に戻れず。
救護所、毛布足りず。
文字は古い。
でも、今の王都南区とつながっている。
「次は、この名簿を使いましょう」
「はい」
「でも、売り込みではなく、確認から」
「はい」
「まだ困っているのか。昔の布はどう使われたのか。今は何が足りないのか」
「はい」
「そして、勝手に安くしない」
ノアは頷いた。
「重要です」
「書く?」
「書きます」
クラリスは少しだけ笑った。
「では、私も書くわ」
古い帳簿の余白に、クラリスは細い字で一行を書いた。
今の顔を、見に行く。
ノアはその字を見た。
「良いと思います」
「帳簿上?」
「いえ」
ノアは少し考えた。
「普通に、良いと思います」
クラリスは一瞬、目を丸くした。
それから、視線を逸らした。
「……練習したの?」
「少し」
「そう」
廊下の窓から、午後の光が入っていた。
古い帳簿の革表紙が、少しだけ明るく見えた。
クラリスはそれを胸に抱き直す。
父の帳簿は、過去の記録ではなかった。
まだ戻れる場所の地図だった。
◇
同じ頃。
王都南区の馬車宿では、ベラが捨てない布を肩に掛けていた。
試作品ではなく、改良品。
端に丸い印がある。
掴む場所も、糸で囲ってある。
下働きの少年が、それをちらちら見ている。
「使っていいですか」
「今は私が試してる」
「さっきからずっと掛けてます」
「試してるんだよ」
「温かいんですか」
「少しはね」
ベラは鍋をかき混ぜながら答えた。
「でも、首には硬い。そこは直させる」
「直るんですか」
「直させるんだよ。銅貨八十枚も取るならね」
少年の目が丸くなる。
「高い」
「安くはない」
ベラは言った。
「だから、拭くな。荷に使うな。体に掛けて、戻す。そういう布だ」
少年は丸い印を見た。
「戻す場所は?」
「丸い札の箱」
「分かります」
「なら、分かるやつから使いな」
少年は少しだけ笑った。
ベラはその顔を見て、ふんと鼻を鳴らす。
「笑うな。まだ買うとは言ってない」
だが、捨てない布は、すでに裏口の木箱の横に掛けられていた。
値札は、まだない。
それでも、置き場所はできていた。
◇
夕方。
ラウル・グランベルは、王都支店で報告を受けていた。
「エルネスタ側が、古い顧客名簿を動かし始めたようです」
「古い顧客名簿」
ラウルは書類から目を上げた。
「馬車宿だけではありません。夜番詰所、産婆、古い救護所、荷馬車組合の名もあるようです」
「なるほど」
ラウルは静かに笑った。
「点を増やす気ですね」
「どうしますか」
「表を広げます」
「値下げですか」
「いいえ」
ラウルは首を振った。
「値下げだけでは、彼らの点は潰せない」
部下は少し驚いた。
ラウルは続ける。
「南区の荷馬車向けに、軽量布と防水袋の組み合わせを出します。価格は抑える。ただし、数を用意する」
「エルネスタの捨てない布に対抗しますか」
「対抗では足りません」
ラウルは窓の外を見る。
王都南区の方角。
表通り。
裏口。
寒さ。
濡れた手。
雑に扱われる布。
「ノア・レインズは、使われる場所を取りに来ている」
ラウルは言った。
「なら、私は届く数を取りに行く」
部下が頭を下げる。
「すぐに手配します」
ラウルは机の上の布見本に指を置いた。
「寒い人間は、待てませんから」
薄い。
軽い。
安い。
多くの人に届く。
その代わり、どこかで誰かが畳み直す。
破れた布を縫う。
濡れた袋を片づける。
使い捨てられたものを、誰かが拾う。
ラウルは、それを知らないわけではなかった。
それでも、今夜寒い者の手に届く布を、彼は選んだ。
王都南区の夕暮れは、早い。
そして、冬の客は、安くて早い布にも手を伸ばす。
ラウルはそれを知っていた。




