幕間 値付け士のいない勇者パーティ
王都東門の近くには、遠征前の冒険者や兵士を相手にする店が並んでいる。
保存食。
薬草。
水袋。
予備の靴紐。
火打ち石。
矢。
包帯。
聖水。
魔術紙。
触媒布。
どれも、戦いの主役にはならない。
だが、欠ければ遠征は止まる。
以前、ノア・レインズはよくそう言っていた。
聖女リーナは、薬箱の前で立ち止まっていた。
木箱は新しい。
蓋には、薬商の焼き印がある。
見た目は悪くない。
だが、箱の端に薄く湿り気があった。
「リーナ、どうした」
勇者アレス・ヴァンガードが振り返る。
銀の鎧。
白い外套。
腰には、よく磨かれた量産の剣。
通りを行く者たちが、少し距離を開けて見ている。
勇者パーティ。
魔王領へ向かう者たち。
その中心にいる男。
アレスは、店先に並ぶ品を一瞥した。
「必要なものは揃っただろう」
「はい。ですが、この薬箱……少し湿っています」
リーナは箱の端に指を置いた。
薬商の男が、すぐに笑顔を作る。
「聖女様、ご安心ください。外箱が少し湿っただけで、中身は問題ございません」
「中を見ても?」
「もちろんでございます。ただ、封を切りますと、返品はできませんが」
リーナは手を止めた。
その言い方に、少しだけ違和感があった。
以前なら、ここでノアが前に出ていた。
封を切った場合の扱い。
中身の数量。
保存期間。
湿地へ持ち込む時の包み直し。
そのすべてを、淡々と聞いていた。
少し冷たく聞こえる声で。
「今回の遠征先は湿地に近いはずです」
リーナは言った。
「外箱が湿るなら、中の包みを確認した方が」
「リーナ」
アレスの声が少し低くなった。
「今は時間が惜しい」
「でも、薬が使えなくなったら」
「そのために多めに買っている」
補給係マイルが、慌てて帳面を見た。
ノアの後を任された、若い補給係だった。
「はい。薬草は予定数より二割多く買っています。包帯も、聖水も追加しています」
アレスは頷く。
「なら問題ない」
リーナは薬箱を見る。
数が多ければ安心。
それは間違っていない。
けれど、ノアはよく言っていた。
数は、使える状態で残って初めて数です。
その時は、細かすぎると思った。
目の前に怪我人がいるのに、薬草の残量を見て治療順を決めるノアを、少し冷たいと思った。
だが、不思議なことに。
ノアがいた頃、治療物資が完全に切れたことはなかった。
「ノアさんなら、中の包みも確認していたと思います」
リーナの口から、自然にその名前が出た。
空気が止まった。
薬商の笑顔がわずかに固まる。
マイルは、帳面から顔を上げた。
アレスの目が細くなる。
「……その名前を、今ここで出すな」
「すみません」
「彼の言っていたことが、すべて間違いだったとは言わない」
アレスは、腰の量産剣に一瞬だけ視線を落とした。
よく磨かれている。
だが、特別な剣ではない。
折れれば、折れる。
刃が欠ければ、斬れ味は落ちる。
以前、それをノアに言われた時、アレスは金の話だと思った。
だが、剣が折れた時。
あれは金の話だけではなかったのだと、ほんの少しだけ分かった。
認めたくはなかった。
認めれば、あの日の判断まで揺らぐ。
アレスは、薬箱から目を逸らすように前を向いた。
「だが、俺たちは進む。止まっている時間はない」
リーナは胸の奥が少し重くなるのを感じた。
アレスは、ノアを完全に否定しているわけではない。
けれど、認めてもいない。
その隙間に、何かが残っている。
リーナは薬箱から手を離した。
「分かりました。ただ、中の包みだけは確認してください」
アレスは少しだけ眉を寄せた。
だが、止めなかった。
「マイル」
「は、はい」
「中身を確認しろ。使えないものが混じっていたら、その場で替えろ」
「分かりました」
薬商の男が、すぐに頭を下げる。
「もちろんでございます」
リーナは、その笑顔を見ながら思った。
ノアなら、ここで数量も、包みの状態も、湿地で何日持つかも聞いていただろう。
◇
勇者パーティの買い付けは続いた。
保存食の袋。
携帯用の乾燥肉。
硬い黒パン。
乾燥豆。
塩。
水袋。
予備の靴。
予備の弦。
矢。
魔術紙。
触媒布。
マイルは真面目だった。
怠けているわけではない。
帳面もつけている。
商人の言葉も聞いている。
ただ、聞く順番が少し違った。
「これは五日分です」
保存食の商人が言う。
「五日分なら足りるな」
アレスが言った。
マイルが帳面に書く。
リーナは袋を見た。
「一人五日分ですか?」
マイルが顔を上げる。
「え?」
「人数分で五日分なのか、一人分が五日分なのか」
商人が笑った。
「聖女様、ご安心を。勇者様のご一行に不足が出るような品はお出ししません」
リーナは眉を寄せた。
答えになっていない。
以前、ノアはこういう時、商人の笑顔を見なかった。
商品を見ていた。
数量を見ていた。
袋の口を見ていた。
重さを見ていた。
そして、同じ質問をもう一度した。
何人で、何日分ですか。
「人数と日数を、分けて書いてください」
リーナが言うと、商人は一瞬だけ目を細めた。
「もちろんでございます」
マイルが慌てて書き直す。
「す、すみません。リーナ様」
「責めているわけではありません」
「はい」
マイルの額には汗が浮かんでいた。
戦場より、商人相手の方が苦手そうだった。
リーナは少し申し訳なくなった。
彼は悪くない。
ただ、慣れていない。
ノアが何をしていたのか、誰もきちんと見ていなかっただけだ。
◇
昼過ぎ、買い付けは終わった。
荷車には、遠征用の物資が積まれている。
見た目には十分だった。
薬草もある。
包帯もある。
聖水もある。
保存食もある。
水袋もある。
矢もある。
魔術紙もある。
弓使いの女が、荷車の上の矢筒を見下ろした。
「矢羽根、少し湿ってない?」
マイルが慌てて帳面をめくる。
「えっと、矢は予定数より多めに……」
「数じゃなくて、羽根」
弓使いの女は一本を抜き、矢羽根を指で撫でた。
「使えないわけじゃないけど、雨の中だと嫌ね」
魔術師の青年も、触媒袋を開いて顔を曇らせた。
「魔術紙もだ。湿地へ持っていくには、包みが甘い」
マイルの顔色が変わった。
「数は……確認しました」
「数じゃない」
弓使いの女は低く言った。
「使える状態かどうかよ」
その言葉で、リーナはあの日を思い出した。
アレスの後ろで、魔術師の青年が目を逸らした。
弓使いの女も、自分も、ノアと目を合わせなかった。
あの時も、誰かが何かに気づいていたのかもしれない。
でも、誰も言わなかった。
弓使いの女は矢を戻し、肩をすくめた。
「ノアがいた頃より早いのは確かね」
魔術師の青年が苦笑する。
「あの人は何でも細かく聞いていたから」
「薬草一本にまで値段をつける男だった」
「聖水の使い道にも口を出していたわね」
リーナは何も言わなかった。
その言葉に、少し前の自分なら頷いていたかもしれない。
ノアは細かい。
ノアは冷たい。
ノアは善意に数字をつける。
そう思っていた。
けれど、今は少し違う。
荷車の上で、保存食の袋が傾いている。
袋の口が、あまり強くない。
薬箱の外側には、まだ薄い湿り気がある。
包帯の束は多い。
だが、包みがしっかりしているものと、そうでないものが混ざっている。
矢羽根にも、魔術紙にも、湿気が入りかけている。
多い。
しかし、守られていない。
リーナは、その差に気づいてしまった。
「包帯だけ、包み直してもいいですか」
リーナが言うと、弓使いの女が少し眉を上げた。
「包帯だけ?」
「まずは包帯です。濡れた包帯は使いにくくなります」
「治癒術があるでしょう」
「あります。でも、全部を治癒術で治せるわけではありません」
リーナは静かに言った。
「軽い傷に包帯を使えれば、力を残せます」
魔術師の青年が、少しだけ表情を変えた。
「それはそうだ。触媒を節約できれば、結界も長く張れる」
弓使いの女は矢筒を見た。
「矢羽根も見直す。湿ったやつだけ外すわ」
魔術師の青年が触媒袋を閉じる。
「魔術紙はこっちで見ます」
アレスは腕を組んだ。
「どれくらいかかる」
「少しだけ」
リーナが答える。
アレスは不満そうだった。
だが、止めなかった。
「夕刻までには出る」
「はい」
リーナは荷車の上の包帯を降ろす。
マイルが慌てて手伝った。
「リーナ様、すみません。僕が気づくべきでした」
「いいえ。私も、前は気づいていませんでした」
「前は?」
リーナは包帯を一本、乾いた布の上に置いた。
「ノアさんが、気づいていました」
マイルは黙った。
その名を出すと、まだ空気が硬くなる。
リーナも分かっていた。
だが、言わないと、何が抜けたのか分からないままだ。
「ノアさんは、薬を出し惜しみしていたのではありません」
リーナは包帯を包み直しながら言った。
「次に使えるように、残していたのだと思います」
マイルは小さく頷いた。
「僕には、まだそこまで見えません」
「私にも、見えていませんでした」
リーナは正直に言った。
「今も、少しだけです」
そう言ってから、リーナはふと別の声を思い出した。
王都の会議室。
白い卓布。
整いすぎた空気。
その中で、背筋を伸ばしていた令嬢。
クラリス・エルネスタ。
彼女は冷たい声で、こう言った。
善意だけで配れば、次に救える者が減ります。
その時、リーナは傷ついた。
病人を前にして、なぜそんな言い方をするのかと思った。
それは、聖女の救護を責める言葉に聞こえた。
冷たい悪女の言葉に聞こえた。
けれど今、リーナは包帯を包み直している。
次に使えるように。
次に救えるように。
リーナの指が、少しだけ止まった。
クラリス様の言葉は、全部が間違いだったのだろうか。
答えは、まだ出なかった。
◇
夕方前。
王都東門の外に、勇者パーティの荷車が並んだ。
空は曇っている。
遠くに、雨の匂いがあった。
アレスは前を見ていた。
「出るぞ」
その声に、兵士たちが動く。
弓使いの女が、矢筒を背負う。
魔術師の青年が、杖と触媒袋を確かめる。
マイルが、帳面を胸に抱えた。
リーナは最後に薬箱を見た。
湿っていた外箱は、中身を確認した上で、乾いた布で拭いてある。
完全ではない。
だが、何もしないよりはいい。
その時、荷車の隅から保存食の袋が一つ落ちた。
鈍い音がした。
マイルが慌てて拾う。
「あっ、すみません」
袋の口が少し裂けていた。
中の黒パンが一つ、土に落ちる。
弓使いの女が眉をひそめる。
「袋も弱いの?」
マイルが顔を青くする。
「すみません。数は確認したんですが」
アレスが振り返る。
「一つくらいなら、すぐ拾え」
マイルは苦笑しようとした。
だが、リーナは笑えなかった。
一つくらい。
そう言える時は、まだ余裕がある時だ。
ノアなら、たぶん拾って、袋の口を見て、言った。
一つで済むうちに直しましょう。
リーナは黒パンを拾い、土を払った。
「袋を替えましょう」
アレスの表情が少し険しくなる。
「リーナ」
「すぐ終わります」
「時間が」
「一袋だけではないかもしれません」
アレスは黙った。
弓使いの女が、保存食の袋を一つ持ち上げる。
「……これも口が弱い」
魔術師の青年も別の袋を見る。
「こっちもだ」
マイルの顔色がさらに悪くなった。
「全部、確認したつもりで」
「確認する場所が違っただけです」
リーナは言った。
「数量だけではなく、持ち運べるかも見なければいけなかった」
「はい」
マイルは悔しそうに頷いた。
アレスはしばらく荷車を見ていた。
「……全員、ノアの言い方に似てきたな」
リーナは一瞬、言葉を失った。
それは、褒め言葉ではない。
けれど、今のリーナには、侮辱にも聞こえなかった。
「必要だからです」
リーナは静かに言った。
「治療も、補給がなければ続きません」
弓使いの女が、矢筒に手を置いた。
「矢も、濡れたら飛ばない」
魔術師の青年も低く言った。
「触媒も、湿ったら術式が乱れる」
アレスは三人を見た。
それから、腰の量産剣に手を置いた。
指先が、柄を一度だけ叩く。
「……袋を替えろ」
マイルが顔を上げる。
「はい」
「ただし、急げ」
「はい」
アレスはそれ以上言わなかった。
リーナは、少しだけ息を吐いた。
アレスはまだ認めていない。
けれど、止めなかった。
それだけでも、前よりは違っていた。
◇
袋の入れ替えは、思ったより時間がかかった。
保存食の袋は、何枚か口が弱かった。
すぐに破れるほどではない。
だが、雨の中を走れば怪しい。
包帯は乾いた布で包み直した。
矢羽根は、湿った数本を外した。
魔術紙は、触媒袋の内側へ移した。
保存食は、口の弱い袋だけ替えた。
小さな手間が増えた。
小さな遅れも増えた。
けれど、誰もはっきり文句を言わなかった。
マイルは最後に帳面を閉じた。
「すみません。ノアさんなら、最初から見ていたんですよね」
「たぶん」
リーナは答えた。
「でも、ノアさんも最初から全部できたわけではないと思います」
「そうなんですか」
「分かりません。ただ……何度も失敗しないように線を引いていました」
損失。
不足。
再発防止。
ノアは、その言葉ばかり見ている人だと思っていた。
だが、もしかすると。
ノアはずっと、誰かが困る前に、困る場所を見ようとしていたのかもしれない。
アレスは東門の外を見ていた。
「終わったか」
「はい」
マイルが答える。
「では行く」
今度こそ、荷車が動き出した。
リーナは最後に振り返る。
王都の門。
薬商の並ぶ通り。
ノアが去った場所。
あの日、自分はあの部屋にいた。
アレスが、ノアの役目は終わったと言った。
魔術師の青年が目を逸らした。
弓使いの女も黙っていた。
そして、自分も。
リーナも、ノアと目を合わせられなかった。
薬草の残量を理由に治療を止められたことがある。
包帯の数を理由に、救護院への追加支援を遅らされたこともある。
聖水を使う前に、次の村までの距離を聞かれたこともある。
だから、その時。
心のどこかで思ってしまった。
これで、もう止められずに済むのかもしれない、と。
ノアは何も言わなかった。
ただ、最後まで帳面を持っていた。
リーナは、その手を覚えている。
指先に、黒いインクがついていた。
それを見ていたのに。
目だけは、合わせなかった。
そのことが、今になって重かった。
「ノアさん」
声には出さなかった。
ただ、心の中で名前を呼んだ。
彼は今、どこにいるのだろう。
値札を見ているのだろうか。
帳面に線を引いているのだろうか。
それとも、もう自分たちとは関係のない場所で、別の誰かの損失を見ているのだろうか。
東の空に、薄い雨雲が広がっていた。
リーナは、拭き直した薬箱を見た。
箱の端には、まだ少しだけ湿り気が残っている。
完璧ではない。
けれど、気づく前よりはましだった。
ノアがいない遠征は、静かに始まった。
その最初の損失は、黒パン一つで済んだ。
今のところは。




