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第55話 報告書にない価値

 領主への定例報告の日だった。


 クラリスは執務机に向かっていた。


 机の上には報告書。


 戻り布処理量。


 廃棄数。


 利益。


 売上。


 数字は並んでいる。


 どれも改善していた。


 報告書としては十分だった。


 それなのに。


 ペンが止まっている。


「どうしました?」


 ミリアが尋ねた。


 クラリスは報告書から目を離さない。


「書く場所がないのです」


「何のですか?」


 少し迷う。


 そして答えた。


「家族と夕食を取れる職人が増えたことです」


 ミリアも黙った。


 利益は書ける。


 売上も書ける。


 だが。


 それを書く欄はない。


「そのまま書けば良いと思います」


 ノアが言った。


 クラリスは顔を上げる。


「そのまま?」


「はい」


 ノアは平然としていた。


「家族と夕食を取れる職人が増えました」


「それで十分です」


 クラリスは苦笑した。


「そんな報告書がありますか?」


「あるべきだと思います」


 静かな返答だった。


 だが。


 その言葉は妙に心へ残った。


     ◇


 午後。


 領主館。


 領主は報告書を読んでいた。


「利益は増えているな」


「はい」


「廃棄も減っている」


「はい」


 順調だった。


 数字だけなら。


 何も問題はない。


 領主は最後の頁を閉じた。


「他には?」


 いつも通りの言葉だった。


 なければ終わり。


 それで良い。


 クラリスはそう思った。


 だが。


 思い出す。


 工房で働く職人達。


 明るいうちに帰っていった背中。


 娘と夕食を食べた男の笑顔。


 以前の自分なら見ようともしなかったもの。


「……」


 言葉が出ない。


「無いなら終わりだ」


 領主が報告書を机へ置く。


 その瞬間だった。


「お待ちください」


 気付けば声が出ていた。


 部屋が静まる。


 領主が顔を上げる。


 クラリスは小さく息を吸った。


「工房の職人達が」


 少しだけ手が震える。


「家族と夕食を取れる日が増えています」


 沈黙。


 側近も領主も何も言わない。


 だが。


 クラリスは続けた。


「見本帳の整備によって質問が減りました」


「作業基準の共有によって確認作業も減っています」


「その結果です」


 言い切る。


 もう目は逸らさなかった。


 しばらくして。


 領主が小さく頷く。


「なるほど」


 短い言葉だった。


 そして。


「良い報告だ」


 それだけだった。


 派手な賞賛はない。


 だが。


 クラリスには十分だった。


「ありがとうございます」


 自然に頭が下がる。


 領主は窓の外へ目を向けた。


「利益も大事だ」


 静かな声だった。


「だが」


 一度言葉を切る。


「人が残らねば続かん」


 クラリスは静かに頷いた。


     ◇


 領主館を出る。


 夕日が石畳を赤く染めていた。


「怒られると思いました」


 クラリスが言う。


 ノアは首を傾げた。


「なぜですか」


「利益の話ではありませんでしたから」


 ノアは少し考える。


「そうでしょうか」


 それだけだった。


 クラリスは小さく笑う。


 以前の自分なら。


 利益と人を別々に考えていた。


 だが今は違う。


 数字の向こうに人がいる。


 そのことを。


 少しだけ理解できた気がした。


     ◇


 執務室へ戻る。


 机の上に封筒が置かれていた。


「王都からです」


 ミリアが言う。


 差出人はベラだった。


 クラリスは封を切る。


 中には短い手紙が入っていた。


 宿は相変わらず忙しい。


 ミゼルは相変わらず働き過ぎだ。


 南区の連中も元気にやってる。


 そういえば最近また戻り布の話をよく聞く。


 前より儲かってる連中も多い。


 あと。


 ラウルが来た。


 部屋が静かになる。


「ラウル?」


 ミリアが眉をひそめた。


「王都のあの人ですよね」


「はい」


 ノアが頷く。


「来たって、どこにですか?」


「分かりません」


 ノアは答えた。


 そして少し考える。


「ですが」


 言葉が止まる。


 全員が続きを待った。


「ラウルですから」


 それだけだった。


 クラリスはノアを見る。


 王都で会った時から。


 ノアはラウルの能力を認めていた。


 今も変わらないらしい。


 だからこそ。


 その短い言葉が重かった。


 ラウル。


 その名前だけが。


 妙に心へ残った。

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