第48話 煙の少ない工房
工房へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
馬車が止まる前に、クラリスは地面へ降り立っていた。
夕方。
本来なら仕事を片付け始める時間だ。
だが工房からは、まだ織機の音が響いている。
忙しい。
それは分かる。
だが。
その音には余裕がなかった。
扉を開く。
熱気が流れ出た。
羊毛。
染料。
油。
慣れた匂いだった。
それなのに。
どこか息苦しい。
「帰ったか」
奥から声が飛ぶ。
ガルドだった。
以前より疲れて見えた。
髭も伸びている。
目の下には薄く隈がある。
「ガルド」
「見りゃ分かる」
ぶっきらぼうに言った。
「今は忙しい」
その言葉通りだった。
織機は止まらない。
針も止まらない。
誰も休んでいない。
だが。
工房の空気は重かった。
クラリスは歩く。
そして空いた机を見つけた。
一つ。
また一つ。
以前は埋まっていた席。
使い込まれた椅子だけが残っている。
「二人辞めた」
ガルドが言う。
「手紙の通りだ」
その時だった。
「ガルドさん!」
若い縫い子が走ってくる。
「この見本布、どこへ置けば」
「三番棚だ」
「はい!」
走って戻る。
だが。
次の声。
「ガルドさん!」
「何だ」
「これ確認を……」
「後だ」
さらに別の声。
「ガルドさん!」
「今度は何だ」
工房中から呼ばれている。
ガルドは答える。
歩く。
判断する。
また呼ばれる。
その繰り返しだった。
ノアが静かに聞く。
「以前からこうでしたか」
「違う」
ガルドは即答した。
「前は他にも答える奴がいた」
クラリスの視線が空いた机へ向く。
あの席の人。
もう一人の席の人。
そこへ行くはずだった質問が、全部ガルドへ集まっている。
また若い縫い子が近づく。
「ガルドさん、この後少し……」
「無理だ」
「でも教わりたいことが」
「後だ」
縫い子は黙って引き下がった。
ガルドは小さく息を吐く。
「教える時間がねぇ」
その声だけが妙に重かった。
◇
ガルドは近くの机を指差した。
「見ろ」
クラリスは近づく。
紙が積まれていた。
確認表。
見本管理。
作業記録。
その中の一枚をガルドが抜き出す。
走り書きだった。
⸻
新人確認
戻り布説明
見本整理
来週続き
⸻
そこで終わっている。
続きはない。
「辞めた奴のだ」
ガルドが言う。
「新人に教える予定だった」
クラリスは紙を見つめる。
来週続き。
その文字だけが目に残った。
「なぜ辞めたのですか」
静かに聞く。
ガルドは少し黙った。
「疲れたんだろうな」
「仕事量ですか」
「違う」
意外な答えだった。
ガルドは紙を机へ戻す。
「仕事は増えた」
「責任も増えた」
「新人を見る仕事も増えた」
そこで一度言葉を切る。
「だが」
「給金は縫い子のままだ」
工房の音が遠く聞こえた。
「上手い奴ほど聞かれる」
「上手い奴ほど教える」
「上手い奴ほど残る」
ガルドは机の紙を軽く叩く。
「辞めた奴を責める気はねぇ」
低い声だった。
「むしろよくやった方だ」
その言葉に重みがあった。
「だが続かなかった」
クラリスは何も言えない。
ノアが机の書類を見る。
王都向け注文。
追加発注。
継続契約。
数字は確かに増えている。
その中に混じる確認記録。
新人確認。
見本確認。
説明予定。
以前より明らかに増えていた。
ノアは紙を戻した。
何も言わない。
だが。
クラリスには見えてしまった。
王都市八日目。
宿屋組合への説明会。
王都市十日目。
戻り布評価の試験導入。
王都市十二日目。
追加発注の交渉。
その頃だ。
自分が王都を走り回っていた頃。
この人は工房で新人を教えていた。
増えた注文を回しながら。
増えた責任を抱えながら。
値段のつかない仕事をしながら。
そして辞めた。
胸の奥が重く沈む。
王都で取った契約。
誇らしかった成果。
それが今、別の形で目の前に積まれていた。
◇
工房を出た時には、空が赤く染まっていた。
織機の音はまだ続いている。
帰る者。
残る者。
明かりが灯り始める。
その時だった。
「私は行かないよ」
工房の裏手から声が聞こえた。
若い娘だった。
母親らしい女性と話している。
「縫い場には入らない」
クラリスの足が止まる。
母親は怒らなかった。
「そうか」
ただそれだけ。
娘は続ける。
「嫌いじゃないよ」
「でも」
少し迷って。
言った。
「上手くなるほど帰るの遅いじゃない」
夕風が吹く。
「難しい仕事できる人ほど、ずっと工房にいるし」
母親は何も言わなかった。
否定もしない。
慰めもしない。
ただ黙っていた。
それが答えだった。
クラリスはその場を動けなかった。
工房では人が足りない。
なのに。
次の人が入ろうとしていない。
空いた席は埋まらない。
帰ろうとして。
クラリスはもう一度だけ振り返る。
空いた机。
その上に残る一枚の紙。
⸻
新人確認
戻り布説明
見本整理
来週続き
⸻
来週は来なかった。
席は残った。
仕事も残った。
だが。
続きを教える人だけがいなかった。
沈みゆく夕日の中。
その文字だけが妙に鮮明に見えた。




