第40話 王都市最終日、残る値段
王都市十四日目。
最終日の朝は、初日ほど華やかではなかった。
旗はまだ揺れている。
露店の声もある。
だが、通りの裏では木箱が積まれ、売り切る品と持ち帰る品が分けられていた。
空になった樽。
畳まれる布屋根。
値を下げる札。
最後にまとめて買おうとする商人。
今日で終わる市。
今日から残る契約。
その二つが、同じ道に並んでいた。
エルネスタの棚でも、ミリアが朝から戻り布を分けていた。
赤。
青。
白。
黒。
王都市の間に、何度も使った紐だ。
最初は、ただの目印だった。
今は違う。
赤は修繕へ。
青は装着の確認へ。
白は洗い方へ。
黒は、次の型へ。
布が戻ってきた時、誰がどこへ回すか。
それが、棚の前で迷わず動くようになっていた。
ミリアは黒い紐の布を一枚、別の箱に入れた。
昨日より、手が早い。
隣でノアが帳簿を開いている。
クラリスは、王都市最終日の商談予定を確認していた。
「宿屋組合から、追加の条件が来ています」
クラリスが言った。
ノアは顔を上げる。
「グランベルからもですか」
「はい。再提案だそうです」
クラリスは羊皮紙を広げた。
そこには、昨日の条件とは少し違う項目が並んでいた。
【荷当て布 三百枚】
【初回導入価格 低】
【洗い場向け乾燥紐つき】
【破損交換券つき】
【追加納入 即日】
【洗浄説明札 同梱】
【下働き向け手当 宿側負担】
ミリアが、最後の項目を見て眉を寄せた。
「下働き向け手当……」
クラリスもそこを見ていた。
「昨日の話を、もう反映してきています」
ノアは頷いた。
「早いですね」
ラウルは、聞いたことをただ真似ていない。
洗い場。
下働き。
乾燥。
破損交換。
昨日までエルネスタが見ていた場所へ、もう手を伸ばしている。
ノアの視界に文字が浮かんだ。
【グランベル再提案:洗い場対応追加】
【洗い場負担:一部可視化】
【支払責任:宿側へ転嫁】
【下働き手当:一時金】
【継続原資:未設定】
【導入速度:高】
【価格転嫁リスク:高】
【三十日後不満再発:中】
「見ています」
ノアは言った。
クラリスが視線を向ける。
「グランベルは、洗い場も下働きも見ています。昨日より深いです」
「では」
「ですが、払う場所がまだ違います」
ノアは羊皮紙の一点を指した。
「下働き向け手当は、宿側負担です。つまり、布の安さは維持したまま、後工程の費用を宿に戻しています」
クラリスは小さく息を吸った。
「手間を見た。でも、その値段を自分たちの商品には入れていない」
「はい」
ミリアがぽつりと言った。
「それだと、宿の人が削るかもしれません」
「はい」
ノアは頷いた。
「最初は払っても、忙しくなれば省かれる可能性があります」
ミリアは黒い紐の箱を見た。
「そうなると、また誰かが無料で見ることになります」
クラリスは羊皮紙を閉じた。
「今日が最終日です」
「はい」
「売り切るための日ではなく、残る条件を決める日ですね」
「はい」
ノアは静かに答えた。
◇
最終日の商談室は、昨日よりも人が多かった。
宿屋組合のまとめ役。
馬車宿の男。
帳場を預かる痩せた男。
そして、グランベル商会の使い。
ラウル本人はいなかった。
だが、提示された条件には、ラウルの目が入っている。
クラリスはそれを感じた。
宿屋組合のまとめ役が口を開く。
「昨日の続きだ」
「はい」
「グランベルは条件を足してきた。洗い場向けの乾燥紐、破損交換券、洗浄説明札。下働きへの手当も入っている」
まとめ役はクラリスを見た。
「正直に言う。かなり強い」
「はい」
クラリスは認めた。
否定しても意味がない。
グランベルは強い。
早い。
広い。
昨日見えた穴を、翌朝には塞ぎに来る。
まとめ役は続ける。
「エルネスタはどう見る」
クラリスは、一度ノアを見た。
ノアは頷くだけだった。
言うのは、クラリスの仕事だ。
「グランベル商会は、洗い場を見ています」
クラリスは言った。
「昨日、私たちが話した負担を、すでに条件に入れている。そこは、正しいと思います」
グランベルの使いが、わずかに口元を上げた。
だが、クラリスは続けた。
「ただし、支払う場所が違います」
商談室の空気が変わった。
まとめ役が目を細める。
「支払う場所?」
「はい。下働きへの手当を宿側負担にすれば、宿は忙しい時に削るかもしれません。説明札は残っても、実際に見る人の仕事が残らないかもしれません」
クラリスは机に、黒い紐の布を置いた。
昨夜、ミリアが残したものだ。
端が少し硬くなり、同じ場所だけ布目が寄っている。
「これは、昨日戻ってきた布です」
まとめ役が手に取る。
「破れてはいないな」
「はい。失敗の手前です」
ノアの言葉を、クラリスは借りた。
「ここで戻ってこなければ、破れてから苦情になります。破れてから交換すれば、費用は大きくなります。ですが、戻ってきた時に見る仕事があれば、次の型に反映できます」
クラリスは息を吸った。
「私たちは、布だけではなく、戻ってきた布を見る仕事を条件に入れます」
帳場の男が言った。
「見る仕事に、金を払うのか」
「はい」
「布代とは別に?」
「別です」
クラリスははっきり言った。
「布を買う代金と、戻ってきた布を見る代金は、同じではありません」
室内が静かになった。
グランベルの使いが、少しだけ眉を動かした。
まとめ役は黒紐の布を置く。
「昨日の試験導入は、そのまま進める」
「はい」
「だが、今日決めるのはそこではない」
クラリスは顔を上げた。
「戻ってきた布を見る仕事だ」
まとめ役は、黒紐の布を指で押さえた。
「安い布はグランベルからも買う。数が要る宿には必要だ」
「はい」
「だが、使った後に何が起きたかを見る仕事は、エルネスタに頼む」
室内が静かになった。
まとめ役は帳場の男へ目を向けた。
帳場の男が羊皮紙に筆を走らせる。
「戻り布評価。分類担当手当。七日後の再商談。そこまでを契約書に入れる」
クラリスは、すぐには返事ができなかった。
昨日取ったのは、試す機会だった。
今日入ったのは、仕事の名前だった。
戻ってきた布を見る。
分ける。
記録する。
それが、布代とは別の項目として契約書に入った。
ノアの視界に文字が浮かぶ。
【契約項目追加:戻り布評価】
【分類担当手当:契約内計上】
【未価格化技能:一部価格化】
【七日後再商談:確定】
【信用回復:進行】
ノアは、その表示を静かに見ていた。
商品だけではない。
見えなかった仕事が、契約の中に入った。
「ありがとうございます」
クラリスは深く頭を下げた。
まとめ役は軽く手を振る。
「礼は七日後でいい。戻ってきた布で見せてくれ」
「はい」
グランベルの使いは黙っていた。
ただ、その目は黒紐の布を見ていた。
◇
商談室を出ると、廊下の向こうでグランベルの使いが待っていた。
クラリスは足を止める。
使いは丁寧に頭を下げた。
「領主代行殿。ノア殿」
「何か」
ノアが返す。
「ラウルより伝言です」
使いは、感情の薄い声で言った。
「商品ではなく、戻ってきた後を売った。厄介ですね」
クラリスは黙った。
使いは続ける。
「そして、次は戻る仕組みごと広げます、と」
ノアの目がわずかに細くなった。
ラウルらしい。
負け惜しみではない。
認めた上で、次に来る。
クラリスは静かに答えた。
「お待ちしています、とお伝えください」
使いはもう一度頭を下げ、去っていった。
クラリスはしばらくその背を見ていた。
「怖い方ですね」
「はい」
ノアは答えた。
「でも、分かりやすくなりました」
「何がですか」
「次に守るものです」
ノアは廊下の窓から、王都市の旗を見た。
「戻る仕組みです」
◇
棚に戻ると、ミリアは赤い紐の布を箱に入れているところだった。
ミゼルに回す分。
棚で確認する分。
夜まで残す分。
木箱の中は、朝より整っていた。
クラリスは足を止める。
「ミリアさん」
「はい」
ミリアは顔を上げた。
クラリスは、商談で決まったことを伝えた。
昨日の試験導入は、そのまま進む。
ただし、今日、変わったことがある。
戻ってきた布を見る仕事が、契約書に入った。
赤、青、白、黒に分ける分類手当も、布代とは別に記された。
七日後、その記録をもとに、宿屋組合の継続契約候補として再商談する。
ミリアは、最初は黙って聞いていた。
だが、途中で眉を寄せた。
「分類手当……ですか」
「はい」
「戻ってきた布を見る分も、数えるんですか」
「はい。契約に入ります」
「それは、布代ではなく?」
「布代ではありません」
クラリスは言った。
「見る仕事の代金です」
ミリアは、木箱の中の黒い紐を見た。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……見るだけで、お金をいただくんですか」
「見るだけではありません」
クラリスは首を振った。
「壊れる前に分ける仕事です」
ミリアは黒い紐を見た。
「間違えたら、損になりますね」
「はい」
「でも、誰も見なければ、もっと大きく損をしますね」
「はい」
ミリアは、ゆっくり頷いた。
「では、見ます」
その声は小さかった。
でも、逃げていなかった。
ノアの視界に表示が浮かぶ。
【分類担当:ミリア】
【業務名:戻り布評価】
【手当:契約内計上】
【技能信頼:定着】
【本人受容:進行】
ノアは何も言わなかった。
言えば、崩れそうなものもある。
だから、黙って帳簿に記録した。
◇
夕方。
王都市の旗が、ひとつずつ下ろされていった。
露店の呼び声は、まだ残っている。
だが、もう初日の熱ではない。
売り切った者は笑い、売れ残った者は箱を閉じる。
商談をまとめた者は書類を抱え、逃した者は次の市の話をしている。
エルネスタの棚でも、片付けが始まっていた。
売れた布。
戻ってきた布。
試験導入に回す布。
持ち帰る布。
それぞれが、別の箱に入っていく。
クラリスは最後に、黒い紐の箱を見た。
「これは、持ち帰ります」
ミリアが頷く。
「はい。七日後の基準にします」
ミゼルが宿裏から顔を出した。
「赤はこっちで見るよ。最終日だからって、雑に突っ込むんじゃないよ」
「はい」
ミリアが答える。
ミゼルは鼻を鳴らした。
「返事だけは良くなったね」
「手も、少しは早くなりました」
「自分で言うんじゃないよ」
そう言いながら、ミゼルは赤い紐の布を抱えて戻っていった。
ノアは棚の前に立った。
王都市は終わる。
だが、棚の前にはまだ布が残っている。
売れ残りではない。
戻ってきたものだ。
クラリスも同じものを見ていた。
「残りましたね」
ノアは言った。
クラリスは頷く。
「はい。売れ残りではなく、残る仕事として」
その言葉に、ノアは少しだけ目を伏せた。
いい整理だった。
でも、それだけではない。
クラリス自身も、少し変わっていた。
売り切ることだけを急いでいた領主代行ではない。
戻ってくるものを受け止める領主代行になりつつある。
王都市の旗が、最後の一本まで下ろされた。
通りに、夕方の風が通る。
クラリスは棚の木板に手を置いた。
「ノア」
「はい」
「市は、終わりました」
「はい」
「でも、仕事は戻ってきます」
「はい」
ノアは頷いた。
「戻ってきたものに、次の値段をつけましょう」
クラリスは静かに頷いた。
王都市は終わる。
けれど、戻ってくる布がある。
その布に、次の値段がつく。
そして、その値段はもう、布だけのものではなかった。




