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第41話 戻ってきた苦情

 王都市が終わった翌朝。


 王都南区の通りは、昨日までとは別の場所のようだった。


 旗は下ろされている。


 露店の布屋根もない。


 荷車の跡だけが、乾いた土の上に残っていた。


 昨日まで人の声で埋まっていた道に、今朝は木箱を運ぶ音と、宿の裏口から出る水の音が目立つ。


 市は終わった。


 だが、仕事は終わっていない。


 本来なら、エルネスタの一行も荷をまとめ、辺境へ戻る支度を始めているはずだった。


 けれど、クラリスたちは王都南区に残っていた。


 宿屋組合との七日試験導入が始まっている。


 戻ってくる布を見る仕事が契約に入った以上、初回の戻り方を見ずに王都を離れるわけにはいかなかった。


 辺境の屋敷には、王都市の結果と、しばらく王都南区に残る理由を書いた報告を出してある。


 原毛農家と職人たちには、戻り布の一部を見本として送る手配もした。


 王都で売り、王都で戻り、辺境で直す。


 その往復が、エルネスタの新しい商売になり始めていた。


 エルネスタが借りている宿の小部屋では、クラリスが帳簿を開いていた。


 王都市で売れた布。


 持ち帰る布。


 馬車宿二軒への試験導入分。


 戻り布評価の契約書。


 分類担当手当。


 修繕判断。


 原毛選別手当。


 それぞれを分けて書いていく。


 ノアは向かいで、戻り布の箱を確認していた。


 赤。


 青。


 白。


 黒。


 昨日まで棚の横に置かれていた箱が、今は小部屋の壁際に並んでいる。


 ミリアは黒紐の箱を覗き込んでいた。


 まだ、どこか落ち着かない顔をしている。


「……本当に、契約書に入ったんですね」


 ミリアが小さく言った。


 クラリスはペンを止める。


「戻り布評価のことですか」


「はい」


 ミリアは箱の中の布を見た。


「見るだけではない、と分かっているんです。でも、まだ、少し変な感じがします」


「変な感じ」


「はい。布を売った後のことまで、仕事になるなんて」


 ノアは黒紐の布を一枚持ち上げた。


「売った後にしか分からない損失があります」


 ミリアは頷く。


「はい」


「だから、戻ってきたものを見る仕事に値段がつきました」


 ミリアは、少しだけ背筋を伸ばした。


 その時だった。


 廊下の向こうから、早足の音がした。


 宿の娘サラではない。


 もっと重く、急いだ足音だった。


 扉が叩かれる。


「エルネスタ様はおられるか」


 クラリスが顔を上げた。


「はい。どうぞ」


 扉が開く。


 入ってきたのは、馬車宿の帳場係だった。


 昨日、宿屋組合の商談席にいた痩せた男とは別人だ。


 もっと若い。


 まだ二十代半ばほど。


 だが、目の下には疲れがあり、外套の袖口には泥がついていた。


 その後ろに、布包みを抱えた下働きらしい少年が立っている。


 帳場係は、礼をする前に口を開いた。


「試験導入の布ですが、早速問題が出ました」


 クラリスの手が止まる。


 ノアは黙って布包みを見た。


 少年が抱えている包みの端から、白い紐が見えている。


 いや。


 白い紐だけではない。


 赤い紐も、青い紐も、黒い紐も、一緒に絡まっていた。


 ミリアの顔が強張る。


 帳場係は包みを机の上に置いた。


 どさり、と湿った音がした。


「昨日入れたばかりです。なのに、もうこの有様です」


 クラリスは布包みに視線を落とした。


「確認しても?」


「そのために持ってきました」


 帳場係は苦々しげに言う。


「高いだけの布になっては困ります。戻り布評価も契約に入っているのでしょう。なら、見ていただきたい」


 ノアはその言い方を聞いた。


 見てほしい。


 だが、その奥に別の言葉がある。


 値引きしてほしい。


 責任を取ってほしい。


 そういう匂いがした。


 クラリスは布包みを開いた。


 湿った羊毛布が数枚、机の上に広がる。


 首守り肩当て。


 荷当て布。


 洗い替え用の布。


 それらが、同じ包みに入っていた。


 泥の跡。


 水の染み。


 同じ場所だけ強く擦れた跡。


 乾かないまま畳まれたような匂い。


 ミリアが息を止める。


「……白紐と赤紐が、同じ包みに」


 帳場係は肩をすくめた。


「現場は忙しいんです。いちいち分けていられません」


 クラリスの目が、わずかに動いた。


 だが、まだ何も言わない。


 ノアは布の端を持ち上げる。


 視界に文字が浮かんだ。


【対象:戻り布】

【表面損傷:中】

【素材不良:低】

【用途混在:高】

【洗浄遅延:高】

【分類省略:発生】

【湿気滞留:高】

【値引き要求リスク:高】

【責任所在:未確定】


 ノアは布を置いた。


「素材不良ではありません」


 帳場係が眉を上げる。


「見ただけで分かるのですか」


「見たから分かります」


 ノアは淡々と言った。


「乾き荷用の布が、濡れ袋に使われています。白紐の洗い場行きの布が、赤紐の修繕品と一緒に包まれている。青紐の装着確認品も混ざっています」


「だから、現場は忙しいと」


「はい」


 ノアは頷いた。


「忙しかった。その損失が、布に出ています」


 帳場係の顔が硬くなる。


「こちらの使い方が悪いと?」


 クラリスが口を開きかけた。


 だが、その前に、ミリアが布へ手を伸ばした。


「少し、見てもいいですか」


 帳場係は不満そうにミリアを見た。


「君が?」


「はい」


 ミリアは少しだけ声を震わせながら、それでも布を広げた。


 まず、泥のついた端。


 次に、硬くなった角。


 それから、首守りの内側。


 指先で布目を追う。


「これは、濡れた荷に当てています」


「だから?」


「でも、濡れ荷用ではありません。水を吸いやすい毛が混ざっています。濡れた後、乾かさずに畳まれています」


 ミリアは別の布を取る。


「これは首守りです。でも、荷置き場の角に擦れた跡があります。首に当たる擦れ方ではありません」


 帳場係が言葉に詰まる。


 ミリアは、最後に白紐の布を見た。


 白い紐は泥で薄く汚れていた。


「洗い場へ回す布が、洗われる前に他の布と一緒にされています」


 声は小さい。


 だが、言っていることは明確だった。


「だから、匂いが移っています」


 クラリスは、ミリアの横顔を見た。


 昨日、見る仕事に値段がついた。


 そして今朝、その仕事はもう責任として返ってきた。


 帳場係は舌打ちしそうな顔で言う。


「だから、こちらが悪いと言いたいのですか。こちらは試験導入を受けた側です。客に迷惑が出ては困る」


「迷惑は出ています」


 ノアは言った。


「ただし、原因を間違えると、次も同じ迷惑が出ます」


 帳場係がノアを見る。


「原因は布ではないと?」


「少なくとも、布だけではありません」


 ノアは机の上を指した。


「分類が省かれています。洗浄が遅れています。用途が混ざっています」


 クラリスが静かに続けた。


「その結果、布の傷みが早く見えています」


 帳場係は口を閉じた。


 その後ろで、布包みを持ってきた少年が、気まずそうに視線を下げる。


 ノアはそれを見逃さなかった。


「君」


 少年がびくりとする。


「はい」


「この布を包んだのは、君ですか」


「……はい」


 帳場係が少年を見る。


「余計なことは言わなくていい」


 少年は肩を縮めた。


 クラリスの目が、帳場係へ向く。


 その視線は、怒鳴るものではなかった。


 だが、硬かった。


「答えてください」


 少年は、小さく息を吸った。


「夜に、まとめて持ってこいと言われました」


「分けなかったのですか」


「分ける箱が、奥に片付けられていて……。洗い場も詰まっていて、場所がなくて」


 帳場係が口を挟む。


「宿は市の片付けで忙しかったんです。昨日の夜は、三台分の荷が一度に戻りました。洗い場も裏庭も埋まっていた」


 その声には、苛立ちだけではなく、疲れも混じっていた。


「そこまで細かくは、回りません」


「細かくありません」


 クラリスの声が、静かに落ちた。


 部屋が止まる。


「それは、契約に入れた仕事です」


 帳場係の顔色が変わった。


「……ですが」


「分類を省いた理由は確認します。洗い場が足りなかったのなら、乾燥場所を見直します。人が足りないのなら、見る時間も条件に入れます」


 クラリスは机の布を見た。


「ですが、分類を省いた損失を、布の値段に戻すことはできません」


 ノアは黙っていた。


 それは、以前のクラリスなら言えなかった言葉だった。


 帳場係は顔を赤くする。


「では、値引きには応じないと?」


 クラリスはすぐには答えなかった。


 ミリアが息を飲む。


 少年が俯く。


 ノアの視界に表示が浮かんだ。


【値引き要求:発生】

【原因:分類省略/洗浄遅延/用途混在】

【素材責任:低】

【運用責任:高】

【推奨:値引き拒否/運用改善提案】


 クラリスは、表示など見えていない。


 だが、同じ場所を見ていた。


「現時点では、値引きには応じられません」


 帳場係の眉が跳ねた。


 クラリスは続ける。


「ただし、問題を放置するつもりもありません。洗い場と乾燥場所を確認します。分類箱の置き場も見直します。下働きの方が一人で抱え込む運用なら、それも直します」


 少年がわずかに顔を上げた。


 帳場係は、机の上の布ではなく、少年の泥だらけの袖を見た。


 それから、小さく息を吐いた。


「……洗い場も、人も、足りていません」


 クラリスは頷いた。


「では、そこも見ます」


「ですが、主人は布の値段の話をするでしょう」


「それでも、布が悪いことにして終わらせることはしません」


 帳場係は黙った。


 しばらくして、机の上の布を見下ろした。


「……洗い場を見れば、分かるかもしれません」


「何がですか」


「分けなかった理由です」


 帳場係は、少年の方を見た。


「言い訳ではなく。詰まっていた場所を、見てもらった方が早い」


 クラリスは静かに頷いた。


「分かりました」


 朝の小部屋に、湿った布の匂いが残っている。


 ミリアは布を見ていた。


 黒紐に回すべきか。


 白紐なのか。


 赤紐なのか。


 手が迷っている。


 ノアはそれに気づいた。


「ミリアさん」


「はい」


「今、分けるなら?」


 ミリアは少しだけ唇を噛んだ。


 それから、一枚の布を手に取った。


「これは、赤です。端を直せば、まだ使えます」


 次に、別の布を取る。


「これは白です。洗い方と乾かし方を直さないと、また匂いが移ります」


 最後に、首守りを見た。


 長く迷う。


「これは……」


 指先が赤紐の箱へ向かう。


 だが、途中で止まった。


「黒、だと思います」


 ミリアは小さく言った。


「縫うのではなく、使う場所を変える布です」


 ノアは頷いた。


「良い判断です」


 ミリアは安堵しなかった。


 むしろ、怖さを覚えた顔をしていた。


 値段がついた仕事。


 それは、褒められるためのものではない。


 損失を小さくするためのものだ。


 帳場係は、机の布を見たまま低く言った。


「……持ち帰って、主人に伝えます」


「お願いします」


 クラリスは答えた。


「次は、洗い場も見せてください」


 帳場係は少しだけ迷った後、頷いた。


「分かりました」


 その横で、少年も小さく頷いた。


     ◇


 帳場係たちが去った後、小部屋にはしばらく沈黙が残った。


 湿った布の匂い。


 泥の跡。


 絡まった紐。


 それらが、机の上に残っている。


 ミリアは黒紐を持ったまま、動かなかった。


「……怖いです」


 クラリスが顔を向ける。


「ミリアさん」


「昨日は、値段がついて嬉しいと思いました。でも、今は怖いです」


 ミリアは布を見た。


「間違えたら、誰かの損になります」


「はい」


 クラリスは否定しなかった。


「でも、誰も見なければ、もっと大きな損になります」


 ミリアは、小さく息を吸った。


 自分で昨日言ったことを、今、自分に返されている。


 ノアは机の布を見た。


「見る仕事は、責める仕事ではありません」


 クラリスとミリアがノアを見る。


「損失がどこから来たかを、間違えない仕事です」


 ノアは湿った布を指先で少し持ち上げた。


「この布は、嘘をついていません」


 ミリアは黒紐を握り直した。


 クラリスは帳簿を開いた。


 新しい頁に、ゆっくりと書く。


【予定外戻り布】

【苦情内容:傷みが早い】

【確認結果:用途混在/分類省略/洗浄遅延】

【値引き:現時点では応じず】

【確認事項:洗い場/乾燥場所/分類箱の位置/下働き負担】


 ノアはその文字を見た。


「これで、次に見る場所が分かります」


 クラリスは小さく首を振る。


「まだ、良いとは思えません」


「はい」


「ですが」


 クラリスは、机の上の布を見る。


「戻ってきたから、分かりました」


 ノアは頷いた。


「はい」


 王都市は終わった。


 だが、机の上の布は、売れた時より重かった。


 湿った布。


 絡まった紐。


 省かれた手間。


 押し戻されかけた損失。


 そのすべてが、戻ってきていた。


 ミリアは黒紐の布を、迷いながらも箱に入れた。


 赤ではない。


 白でもない。


 黒。


 次の型と、次の運用に戻すもの。


 その手は、震えていた。


 けれど、止まってはいなかった。

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