表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
35/62

幕間 同じ数、違う中身

 遠征前の準備は、以前より静かだった。


 静か、というより、怒鳴り声が少なかった。


 王都北門近くの仮宿舎。


 勇者パーティの荷物は、床に種類ごとに分けられていた。


 保存食。


 水袋。


 包帯。


 聖水。


 治療薬。


 魔術触媒。


 矢。


 弓弦。


 予備の剣帯。


 以前なら、それらの多くは一か所に積まれ、ノア・レインズが黙って仕分けていた。


 そして誰かが急かした。


 まだか。


 早くしろ。


 それは必要なのか。


 今は違う。


 少なくとも、少しは違っていた。


 新しい補給係のマイルは、床に広げた補給表を見ながら、深く息を吸った。


「今回は、僕だけで決めません」


 その声は少し硬かった。


 だが、震えてはいなかった。


 勇者アレス・ヴァンガードが、腕を組んで頷く。


「そう決めた」


 聖女リーナは包帯と聖水の箱の前に座っていた。


 魔術師セレスは触媒袋を開け、粉の色と匂いを確かめている。


 弓手エリカは矢筒を並べ、矢羽根と弓弦を一本ずつ見ていた。


 マイルは、保存食と水袋、全体の積み込み量を担当する。


 前回の反省だった。


 補給を、一人に押し付けない。


 マイルはまだ若い。


 真面目だが、ノアではない。


 それを、全員がようやく認め始めていた。


 アレスが言う。


「マイル。まず全体数を」


「はい」


 マイルは表を見た。


「保存食、五日分。予備一日分。水袋、人数分と予備二つ。包帯、前回と同数。聖水、小瓶十二。治療薬六。魔術触媒はセレスさんの確認待ち。矢はエリカさん確認中です」


「数は足りているな」


「数は」


 マイルは、そこで止まった。


 自分で止めた。


 補給係になったばかりの頃なら、数は足りています、と言っていた。


 だが、今は少し違う。


 数が揃っていても、足りないことがある。


 そう気づくまでに、何度か小さな失敗をした。


 数があることと、足りることは違う。


 その違いが、最近のマイルには少し怖かった。


     ◇


 リーナが包帯を一つ手に取る。


「包帯の数はあります」


「問題か?」


 アレスが聞いた。


「問題、というほどではありません。ただ……少し織りが粗いです」


 リーナは包帯を指で引いた。


 白い布が、わずかに毛羽立つ。


「乾いた傷なら使えます。でも、血や水を吸うと、前の包帯より硬くなるかもしれません」


 マイルは表に書き込んだ。


包帯:数は同じ

織り粗め

濡れ時に硬化懸念


 セレスが触媒袋を持ち上げる。


「こちらも、量は足りています」


 彼女は袋の口を開けた。


 中の粉を指先でつまむ。


「触媒そのものは悪くありません。ただ、保存袋が薄い。湿気を通しやすいです」


「防湿はかけられないのか」


 アレスが問う。


「かけられます。マイルも初歩の防湿なら使えるでしょう」


 マイルは頷いた。


「はい。僕がかけます」


 マイルは小さく呪文を唱え、保存袋に薄い膜のような魔力をかけた。


 光は弱い。


 だが、魔法は成立している。


 ノアが使っていたものと似ている、とリーナは思った。


 ただし、ノアのそれより持続は短そうだった。


 セレスは袋の表面に触れ、淡々と言った。


「一日半ほどですね。湿地に入るなら、毎晩かけ直した方がいい」


 マイルは表に書く。


触媒:量は足りる

保存袋薄い

防湿魔法:一日半程度

毎晩かけ直し


 エリカが矢を一本持ち上げた。


「矢も数は足りてる」


 彼女は矢羽根を軽く撫でた。


「でも、羽根の乾きが悪い。森ならまだいい。湿地なら、重くなる」


 アレスは眉を寄せた。


「使えないのか」


「使える。でも、長く持ち歩いた後だと、飛びが少し乱れる」


「少しなら」


 アレスが言いかけたところで、エリカが首を振った。


「少しでも、魔物の目を狙う時は違う」


 部屋が少し静かになった。


 エリカは淡々と続ける。


「ノアは、前に言ってた。『矢の本数だけではなく、使う地形で分けてください』って」


 その名が出た瞬間、空気がわずかに硬くなった。


 マイルの筆が止まる。


 リーナは目を伏せた。


 セレスは触媒袋の口を閉じる。


 アレスだけが、すぐには反応しなかった。


 だが、聞こえていないわけではなかった。


「続けろ」


 アレスは言った。


 エリカは短く頷く。


「湿地用に、乾きやすい矢羽根を少し混ぜた方がいい。全部は無理でも、十本」


 マイルは書いた。


矢:数は足りる

湿地で矢羽根重化

乾きやすい矢を十本追加


 セレスが小さく息を吐いた。


「こうして見ると、数は足りていますね」


「はい」


 マイルが答える。


「でも、中身が違います」


 その言葉は、部屋の中で妙に重く残った。


     ◇


 保存食の確認に移ると、マイルは袋を開けた。


 干し肉。


 硬焼きパン。


 塩漬け豆。


 干し果実。


 量は、前回と同じ。


 むしろ、少し多い。


「保存食は、前回より安く仕入れられました」


 マイルはそう言ってから、すぐに付け加えた。


「ただ、味の確認はまだです」


 リーナが干し肉を小さく割った。


 口に入れ、少しだけ眉を寄せる。


「塩が強いですね」


 マイルも食べた。


 すぐに水が欲しくなった。


「保存性は高いです」


 セレスが言う。


「ただ、水を使いますね」


「なら、水を増やせばいい」


 アレスが言った。


 マイルは水袋を見る。


 予備二つ。


 数はある。


 だが、水を増やすだけで済むのか。


「水袋を一つ増やします」


 マイルは言った。


 アレスが水袋の大きさを見た。


「重くなるな」


「はい」


「誰が持つ」


「僕が持ちます」


「マイルだけに寄せるな。荷を分けろ」


 アレスはそう言った。


 以前なら、そこで話は終わっていた。


 荷を分ければ進める。


 水を増やせば足りる。


 それは間違いではない。


 だが、マイルは表を見たまま止まった。


 水が増えれば、荷が重くなる。


 荷を分けても、全体の重さは消えない。


 全体の重さが増えれば、移動が遅れる。


 移動が遅れれば、保存食を一食余分に使うかもしれない。


 湿地に長くいれば、触媒の防湿をもう一度かける。


 包帯も湿る。


 矢羽根も重くなる。


 ひとつずつなら、小さな問題だ。


 だが、全部が同じ遠征に乗る。


 数字は足りている。


 けれど、表の外で何かが重くなっていく。


 セレスがそれに気づく。


「マイル?」


「すみません。水袋を一つ増やすだけでは、済まないかもしれません」


 リーナが小さく頷いた。


「ノアさんなら、そう言ったと思います」


 また、その名が出た。


 今度はリーナの口からだった。


 アレスの眉がわずかに動く。


 リーナは包帯を見つめたまま続ける。


「数は前回と同じです。でも、同じ中身ではありません。包帯も、聖水も、保存食も、触媒も。ノアさんなら、これを“同じ数”とは言わなかったと思います」


 部屋の空気が止まった。


 マイルは、何も言えなかった。


 悔しい、とは少し違う。


 自分は怠けていない。


 数も見た。


 魔法も使った。


 みんなにも確認してもらった。


 補給係になったばかりの頃よりは、ずっとマシになっているはずだった。


 数を揃えれば、少しは追いつけると思っていた。


 表を作れば、役に立てると思っていた。


 けれど、ノアが見ていたのは、表の中だけではなかった。


 それでも、届かない。


 ノア・レインズが見ていた場所には、まだ届かない。


     ◇


 アレスは、床に広げられた荷を見た。


 包帯。


 触媒。


 矢。


 保存食。


 水袋。


 それぞれが、仲間の前に置かれている。


 以前よりはいい。


 マイル一人に押し付けていない。


 リーナも見ている。


 セレスも見ている。


 エリカも見ている。


 自分も、聞いている。


 それでも、ノアがいた頃のように、すべてが一つにはつながらない。


 アレスは、かつてのノアの声を思い出した。


 危険です。


 その価格には、保存条件が入っていません。


 安い理由を確認してください。


 水の消費が増えるなら、行程も変わります。


 その時、自分は何度か苛立った。


 細かい。


 進めない。


 信用されていない。


 そう思った。


 だが今、床の上に並ぶ荷を見て、アレスは別のことを考えていた。


 ノアは、進めない理由を探していたのではない。


 進んだ後に、誰が払うかを見ていた。


「彼の言っていたことが、すべて間違いだったとは言わない」


 アレスは静かに言った。


 誰も口を挟まなかった。


「だが、今は俺たちで補う」


 その言葉に、リーナは少しだけ目を伏せた。


 セレスは触媒袋を持ち直す。


 エリカは矢を十本、別の束に分けた。


 マイルは補給表の上に、新しい欄を作った。


数量

品質

保存

使用地形

水消費

追加負担


 書きながら、マイルは苦笑した。


「欄が増えました」


 セレスが淡々と言う。


「ノアなら、もっと増やしていたでしょうね」


 マイルは筆を止めた。


「……でしょうね」


 彼は正直に答えた。


「まだ、そこまでは見えません」


 リーナが包帯を別袋へ移しながら言う。


「でも、空欄よりはいいと思います」


「はい」


 マイルは頷いた。


「湿気を避ける布袋を、救護用に一つ回してください」


 リーナが言う。


「はい」


 マイルは書く。


「水袋は一つ追加。ただし、保存食を一部替えます。塩の強い干し肉を減らして、干し果実を増やす。重さは少し増えますが、水の消費は抑えられます」


 アレスが頷いた。


「行程は」


「湿地で一日余分にかかる可能性を入れます」


「入れろ」


 マイルの筆が止まった。


 アレスが、自分から予備日を入れろと言った。


 以前なら、早く進むことを優先していた。


 もちろん、今も急ぐ必要はある。


 勇者パーティは、前へ進まなければならない。


 だが、無理に進んで、後ろで誰かが払うことを、少しだけ見始めていた。


     ◇


 準備が終わる頃には、陽が傾きかけていた。


 予定より時間はかかった。


 だが、荷は前より整理されていた。


 リーナの救護袋には、湿気を避ける布袋が入った。


 セレスの触媒袋には、防湿魔法をかけ直す時刻が札でつけられた。


 エリカの矢筒には、湿地用の十本が分けられた。


 保存食は少し入れ替えられ、水袋は一つ増えた。


 そして、補給表には空欄が残っていた。


 マイルはそれを見て、少し悔しそうに笑った。


「埋まりませんね」


 リーナが聞く。


「どこが?」


「契約条件と、次回補充の欄です」


 セレスが言う。


「今回、急いで買ったからね」


「はい。安くは買えました。でも、次回も同じ価格で買えるか分かりません。保存袋も、袋だけ買い替える必要があります」


 エリカが肩をすくめる。


「そこまで見るのが補給係?」


 マイルは少し考えた。


「ノアさんは、見ていたと思います」


 エリカは黙った。


 アレスも黙った。


 リーナが、聖水の小瓶に布を巻きながら言った。


「たぶん、私たちは前より良くなっています」


「はい」


 マイルは頷く。


「でも、それでノアさんが要らなかったことにはならない」


 誰も反論しなかった。


 その沈黙は、以前とは違った。


 ノアの名前を避ける沈黙ではない。


 認めるにはまだ痛いものを、全員が少しずつ見ている沈黙だった。


     ◇


 夜、出発前の最後の確認を終えた後、アレスは一人で外へ出た。


 北門の向こうに、遠征路が続いている。


 彼は勇者だ。


 魔物を倒す力がある。


 前へ進む力がある。


 仲間を率いる名も、剣もある。


 だが、戦えない者の価値を、見誤った。


 まだ、その言葉を口にはできない。


 すべてを認めるには、遅すぎることが多すぎた。


 それでも、今日の補給表が頭から離れない。


 数量。


 品質。


 保存。


 使用地形。


 水消費。


 追加負担。


 契約条件。


 次回補充。


 ノア・レインズは、あれを見ていたのだろう。


 一人で。


 嫌われながら。


 アレスは、腰の剣に手を置いた。


 よく磨かれた量産剣。


 かつて、ノアが維持費と予備部品の話をしていた剣。


 その時の自分は、剣の価値を、斬れるかどうかだけで見ていた。


「前へ進む」


 アレスは小さく呟いた。


 それは、自分に言い聞かせる言葉だった。


「だが、今度は……後ろも見る」


 夜風が、北門を抜けた。


 明日の遠征は、以前より少しだけましになる。


 それでも、空いた欄は残っている。


 その空欄の形を、勇者パーティはようやく知り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ