第31話 値段に入れるもの
王都大市、五日目の朝。
宿の小部屋には、三つの型の紙が並んでいた。
小型。
標準型。
大判型。
その横に、ミゼルの仮縫い代、型紙代、布代、縫製時間、戻り札管理、確認手間。
数字を書き込む前から、紙が重く見えた。
クラリスは椅子に座り、しばらく黙っていた。
ノアは向かいに座っている。
今日の棚を開く前に、値段を置かなければならない。
昨日、ミゼルは言った。
仮縫い代は安くしない。
急ぎだから割増。
型紙代は半分でいい。
ただし、縫い代を消すな。
年配の荷運びは言った。
すぐ壊れるなら買わない。
濡れ縄は重い。
肩で受ける。
そこを安くされると、こっちが痛い。
グランベルの棚には、昨日から簡易の肩掛け補助布が並んでいる。
短時間用。
長時間の濡れ縄作業には不向き。
表示は正しい。
そして安い。
クラリスは、紙の上へ視線を落とした。
「まず、標準型からですね」
「はい」
ノアは頷いた。
「初回販売するなら、標準型です。小型と大判は予約と確認付き」
「ミゼルさんの判断通り」
「妥当です」
「価格は」
ノアは、布代を書いた。
縫製代を書いた。
返し縫いの手間を書いた。
仮縫い・型紙代の按分を書いた。
戻り札管理の費用を書いた。
数字が並ぶ。
クラリスは、それを見て息を止めた。
「高いですね」
「はい」
「グランベルの肩掛け補助布の、何倍になりますか」
「単品同士なら、かなり差が出ます」
「買えない人が出ますね」
「出ます」
ノアは否定しなかった。
その否定しなさが、痛い。
クラリスは、思わず価格欄に手を伸ばした。
下げたくなる。
布代を少し削る。
戻り札管理を別枠にする。
仮縫い代の按分を後回しにする。
ミゼルの型紙代は半分でいいと言っていた。
なら、そこをさらに少し。
そこまで考えて、自分の指が止まった。
ノアが見ていた。
「今、何を削ろうとしましたか」
クラリスは、目を伏せた。
「型紙代と、戻り札の管理費を」
「はい」
「それから、縫製代の一部を、初回分だけ後で回収できないかと」
「誰が払いますか」
短い問いだった。
だが、紙の上の数字より重かった。
クラリスは答えられなかった。
ノアは続ける。
「型紙代を削れば、ミゼルさんが払います。戻り札管理を抜けば、後でこちらが疲弊します。縫製代を後回しにすれば、売れなかった時に仕立て屋の仕事が宙に浮きます」
「はい」
「安くする方法はあります」
「ありますね」
「ただし、誰かが払います」
クラリスは、紙の上に置いた指を戻した。
「分かっています」
「はい」
「分かっているのに、削りたくなりました」
「普通です」
ノアは静かに言った。
「値段を置く時は、いつもそうです」
◇
ミゼルは、朝から宿へ来た。
呼んでいない。
だが、来た。
サラが帳場から案内してきた時、ミゼルは不機嫌そうな顔をしていた。
「値段を決めるんだろ」
「はい」
「私の縫い代を勝手に削られたら困るからね」
「削りません」
「口では何とでも言える。貴族はきれいな顔で、人の手間を帳簿の端に押し込むから嫌いなんだ」
かなり口が悪い。
サラが一瞬固まった。
クラリスは、正面から受けた。
「押し込みません」
「なら見せな」
ミゼルは椅子に座り、紙を覗き込んだ。
ノアが、計算途中の表を差し出す。
ミゼルは目を細めた。
「返し縫いの手間が少ない」
「どの程度が妥当ですか」
「この倍」
クラリスは息を止めた。
「倍」
「あんた、胸側の端を甘く見てるね。濡れた布が肌に当たるんだ。雑に返したら、そこが擦れる。擦れたら、あんたたちの棚に戻ってくる。戻ってきたら、また直す。最初に手を抜いた分、後で倍払うよ」
ノアが頷いた。
「妥当です」
「涼しい顔で高くするんじゃないよ」
「すみません」
「謝るなら払え」
「払います」
ミゼルは鼻を鳴らした。
クラリスは返し縫いの手間を修正した。
価格はさらに上がった。
紙の上の数字を見て、胸が重くなる。
そこへ、サラが小さな盆を置いた。
茶と、硬い菓子。
ミゼルがそれを見て言った。
「気が利くね。貴族の商談より、宿の娘の方がよほど分かってる」
サラは困ったように笑った。
「ありがとうございます……でいいんでしょうか」
「褒めてるよ」
「たぶん、分かりにくいです」
「分かりやすい褒め言葉は高いんだ」
サラは目を丸くし、クラリスは少しだけ笑いそうになった。
◇
価格表がまとまり始めた頃、年配の荷運びが宿へ来た。
なぜ宿が分かったのかとクラリスが思う前に、サラが言った。
「帳場で聞かれました。肩の布の人はどこだ、って」
年配の荷運びは小部屋に入るなり、紙を見た。
「高そうな顔してるな」
「高くなりそうです」
クラリスは正直に答えた。
「見せろ」
ミゼルが眉を上げる。
「客に原価表を見せるのかい」
ノアが答えた。
「全額ではなく、項目です」
「項目でも十分変だよ」
「変です」
「認めるな」
クラリスは、年配の荷運びへ簡略表を見せた。
布代
返し縫い
肩前の逃げ止め
型紙代の一部
戻り札管理
初回確認
年配の男はそれをじっと見た。
「多いな」
「はい」
「だから高いのか」
「はい」
「安くならんのか」
クラリスは、答える前に一度、息を吸った。
「安くすることはできます」
年配の男の目が細くなる。
「どこを削る」
「返し縫いを簡略にする。戻り札をなくす。型を標準だけにする。確認を減らす。布を薄くする」
ミゼルが不機嫌そうに腕を組んだ。
年配の男は、その項目を聞いて、少し黙った。
「布を薄くするな」
「はい」
「返し縫いを抜くな。胸が擦れる」
「はい」
「戻り札は……面倒だが、いる。俺がまた文句を言う場所がなくなる」
「はい」
「型は」
男は少し顔をしかめた。
「標準だけなら、俺は入るかもしれん。でも、あの若いのは合わんだろうな」
「はい」
「じゃあ、削るな」
クラリスは目を上げた。
「よろしいのですか」
「よくはねえ。高いもんは嫌だ」
年配の男は当然のように言った。
「だが、削った分を俺の肩で払うなら、もっと嫌だ」
部屋が静かになった。
ミゼルが、少しだけ目を細める。
ノアは何も言わない。
クラリスは、その言葉を受け取った。
値段を置く。
それは、ただ買いやすくすることではない。
削った時に、誰の体で払われるのかを見ることだ。
「では、この価格で置きます」
「待て」
年配の男が手を上げた。
「高いなら、買える払い方も考えろ」
「払い方」
「ああ。全部一度に払えねえ奴もいる」
ノアが反応した。
「分割ですか」
「難しい言い方は知らん。半分先に払って、残りは受け取りの時とか、そういうのだ」
ミゼルがすぐに言う。
「それで受け取りに来なかったら誰が払う」
「だから全部の客にやるな」
年配の男は返した。
「名前を残してる奴だけだ。戻ってきた奴だけ」
クラリスは、ノアを見た。
ノアは考えている。
「予約金方式」
「はい」
「予約金を先に受け取り、残額は受け取り時。未受け取りの場合、材料費に充当」
ミゼルが睨む。
「仕立て屋の手間分は先に取れ」
「はい」
ノアはすぐに書き直す。
予約金:布代・仕立て初期手間分
残額:受け取り時
未受け取り:予約金返金なし
対象:戻り札提出者・確認済み使用者のみ
クラリスはそれを見た。
「これなら、買える人が増えますか」
「少しは」
年配の男が言う。
「でも、踏み倒しは防げますか」
「完全には防げません」
ノアが答える。
「だから対象を限定します」
クラリスは頷いた。
「誰にでも安くするのではなく、戻ってきた人に買える入口を作る」
「はい」
ミゼルは鼻を鳴らした。
「また面倒なことを増やすね」
「すみません」
「謝るな。予約管理の手間も値段に入れろ」
「入れます」
「ならいい」
◇
大市の棚を開いたのは、昼前だった。
いつもより遅い。
だが、今日は理由があった。
棚には、新しい価格札が並んだ。
濡れ縄肩当て
標準型
予約受付開始
初回確認付き
受け取り時、戻り札付き
その下。
小型・大判型
確認済みの方のみ予約受付
価格は型により異なります
合わない型を安く売りません
最後の一文は、クラリスが入れた。
ノアは少し迷った。
ミゼルは「きつい」と言った。
年配の男は「分かりやすい」と言った。
だから、残した。
向かいのグランベル棚では、肩掛け補助布つきの一式が今日も売れていた。
札には、新しい一文が加わっている。
すぐ使える肩補助
強い。
短い。
分かりやすい。
対して、エルネスタの札は面倒だ。
標準型。
小型。
大判型。
確認済み。
予約金。
戻り札。
合わない型を安く売らない。
売りにくい。
だが、誰に向いているかは明確になった。
若い荷運びが最初に来た。
「俺、小型だろ」
「はい」
ノアが答える。
「予約できます」
「高い?」
「標準よりは低いです」
「なら予約する」
若者は硬貨を出した。
「全部は払えねえけど、予約金ならいける」
クラリスは手を止めた。
最初の予約。
売上としては、全額ではない。
だが、値段を削らずに、買える入口を作った最初の一件だった。
「ありがとうございます」
「まだ礼は早いだろ」
若者は少し照れたように言った。
「ちゃんとできてから言え」
年配の男の言葉が、若者にも移っている。
クラリスは小さく笑った。
「はい」
◇
昼過ぎまでに、予約は少しずつ入った。
標準型が五件。
小型が三件。
大判型が二件。
多くはない。
グランベルの一式売上には、まったく届かない。
だが、予約名簿には、全員の肩幅、縄の種類、痛む場所、希望型が書かれている。
ミゼルは棚の横でそれを見ていた。
「面倒くさい客ばかりだね」
「はい」
クラリスは否定しなかった。
「でも、悪くない」
ミゼルはぼそりと言った。
「作る前から、直す場所が見えてる」
「はい」
「仕立て屋としては、嫌なようで助かる」
「どちらですか」
「両方だよ」
ミゼルは即答した。
そこへ、ラウルが来た。
彼は価格札を読み、予約金の条件を読み、最後に「合わない型を安く売りません」の札で目を止めた。
「強い文ですね」
「きついでしょうか」
「きついです」
クラリスは少しだけ肩を落としかけた。
だが、ラウルは続ける。
「ですが、あなた方の棚には合っています」
クラリスは顔を上げる。
「グランベルなら、こうは書きません」
「でしょうね」
「私なら、『まずは標準型から』と書きます」
「その方が売れます」
「はい」
ラウルは微笑む。
「ですが、合わない型を売らない、という約束にはなりません」
クラリスは何も言わなかった。
「売上では、今日もこちらが上です」
「はい」
「ただ、予約名簿は厄介ですね」
「厄介?」
「客の名前と痛みが結びついている。これは、後で逃げにくい」
「私たちが、ですか」
「あなた方も、客も、仕立て屋も」
ラウルは、名簿を見た。
「約束の値段です」
クラリスの胸に、その言葉が落ちた。
約束の値段。
まさに、そうだった。
値引きではない。
全額前払いでもない。
使う人の肩と、作る人の手間を、どちらも逃がさないための値段。
ラウルは静かに言った。
「これは、広げにくい」
「はい」
「ですが、真似しにくい」
ノアが少しだけ目を上げた。
ラウルは笑った。
「今日は、その点であなた方の勝ちですね」
クラリスは息を止めた。
「売上では負けています」
「売上では、こちらです」
ラウルはあっさり認めた。
「ですが、今日のあなた方は、値段を下げずに入口を作った。そこは見事です」
ミゼルが横から言った。
「褒めるなら金を出しな」
ラウルは一瞬、目を丸くした。
そして笑った。
「仕立て屋さんは手厳しい」
「褒め言葉じゃ腹は膨れないんだよ」
「覚えておきます」
「覚えるだけなら無料だ。使うなら払え」
ラウルは楽しそうに頭を下げた。
「肝に銘じます」
◇
夕方。
予約名簿には、十二の名前が並んだ。
数としては小さい。
だが、その十二人は、ただ買う人ではなかった。
戻ってきた人。
肩を見せた人。
縄を持ち込んだ人。
痛みを札に残した人。
ミゼルは、名簿を見ながら言った。
「十二か。少ないね」
「はい」
「でも、初回でこれ以上来られても困る」
「そうなのですか」
「当たり前だろ。仮縫いから型を起こして、本縫いして、戻り札まで見るんだ。五十件来たら逃げるよ」
「逃げるのですか」
「逃げるね」
ミゼルは即答した。
「仕事には、受けていい数ってもんがある」
ノアが頷いた。
「生産上限です」
「難しい言葉にするな。手は二本しかないって話だ」
クラリスは、その言葉を書き留めた。
初回受付上限:十二件
理由:仕立て手数・確認精度維持
ミゼルが覗き込み、鼻を鳴らした。
「本当に何でも札にするね」
「忘れないためです」
「忘れたら肩が払うからね」
年配の荷運びが横から言った。
いつの間にか来ていた。
彼は予約名簿を見た。
「俺は標準でいいのか」
「はい」
ノアが答える。
「ただし、胸側帯を少し長めにします」
「面倒だな」
「はい」
「だが、それでいい」
男は予約金を置いた。
「完成してからじゃ遅い。だが、金を払わねえまま作らせるのも違う」
クラリスは、その硬貨を見た。
古く、少し汚れた硬貨だった。
だが、今のどの数字より重く見えた。
「確かに受け取りました」
「おう」
「次の仮縫いで呼びます」
「忘れるなよ」
「忘れません」
◇
夜、宿の小部屋で、クラリスは予約金を数えた。
売上ではない。
全額ではない。
だが、戻ってきた価値だった。
ミゼルの縫い代は削っていない。
布代も、型紙代も、戻り札管理も、消していない。
その代わり、一度に払えない人のために、予約金という入口を作った。
クラリスは帳簿に書く。
濡れ縄肩当て
初回予約:十二件
標準型七
小型三
大判型二
予約金受領
未受け取り時返金なし
仕立て屋縫い代確保済み
ノアがそれを見る。
「良いです」
「短いですね」
「はい」
「今日の勝ちは、何でしょう」
ノアは少し考えた。
「値段を下げずに、買える入口を作ったことです」
クラリスは頷いた。
「はい」
窓の外で、王都大市の灯りが揺れている。
グランベルの売上には、まだ届かない。
ラウルは強い。
広く、早く、分かりやすく届ける商人だ。
だが、今日のエルネスタは、逃げなかった。
高い理由からも。
買えない人からも。
作る人の手間からも。
クラリスは、予約名簿を閉じた。
値段は、買わせるためだけに置くものではない。
誰の痛みを、誰の手間を、誰の約束を、そこに入れるかを決めるものだった。




