第29話 肩で払う値段
王都大市、三日目の朝。
エルネスタの棚には、昨日より早く人が来た。
商品を買いに来た者だけではない。
戻り札を出しに来た者。
濡れた縄を見せに来た者。
昨日の水実演をもう一度見ようとする者。
そして、雨天肩当ての確認に来た者。
クラリスは棚の前で、安縄の見本を手に取った。
昨日、ローレン商会の男が貸してくれたものだ。
細い。
軽い。
安い。
だが、雑ではない。
毎日使う者が買えるように、余計な飾りを削った縄だった。
その隣に、グランベルの一式に入っていた太縄の見本が置かれている。
グランベル側から借りたものではない。
昨日、荷運びの一人が持ち込んだものだ。
同じ縄でも、肩への食い込み方が違う。
クラリスは、昨夜ノアが書いた札を棚に置いた。
雨天肩当て
仕様確認中
まだ売り物ではありません
縄の太さ・濡れ方・肩の位置を確認しています
その文字を見て、通りがかった商人が鼻で笑った。
昨日と同じ男ではない。
だが、言うことは似ていた。
「また未完成品ですか」
クラリスは、一瞬だけ息を整えた。
「はい。まだ売り物ではありません」
「それを大市の棚に?」
「はい」
「よく許されますね」
横から、ローレン商会の男が言った。
「許してるのは、こっちだ」
商人が振り向く。
「あなたは?」
「隣の荷縄屋だ。あれを雑に作られると、うちの縄まで悪く見える。だから見てる」
商人は面白くなさそうに眉を寄せた。
「売り物になってから見ればよいのでは?」
「売り物になってから外れてたら、荷運びの肩が払うんだよ」
ローレン商会の男は、ぶっきらぼうに言った。
「俺の縄のせいにされるのも困る」
商人は何か言いかけたが、周囲の荷運びたちの視線に気づいたのか、口を閉じて離れていった。
クラリスはローレン商会の男へ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は売れてから言え」
「はい」
「それと、安縄を濡らしすぎるな。乾かすのに時間がかかる」
「気をつけます」
ローレン商会の男は、少しだけ満足そうに腕を組んだ。
◇
最初に確認するのは、昨日の年配の荷運びだった。
彼は濡れ縄を肩にかけ、棚の前に立った。
「今日は形を持ってきたんだろうな」
「形ではありません」
ノアが答えた。
「仕様取りです」
「仕様?」
「ここでは作れません。できるのは、当てる場所を見ること、布の幅を見ること、どこに力が逃げるかを確認することまでです。縫いを入れるなら、工房か王都の仕立て屋に渡す必要があります」
年配の男は鼻を鳴らした。
「分かってる」
「はい」
「だから今、肩を貸してるんだろ」
ノアは少しだけ黙った。
クラリスは、その言葉を札に書きたくなった。
だが、今は我慢した。
男は肩を叩いた。
「さっさと当てろ」
クラリスは、捨てない布の厚めの端材を手に取った。
肩に当てる部分として、布を二枚重ねる。
胸の前に逃げる力を見るため、細い布紐を仮に添える。
縫ってはいない。
結んでもいない。
指で押さえ、位置を見ているだけだ。
ノアが男の肩へ端材を当てた。
濡れ縄を上からかける。
男が少し体を動かした。
肩を上下させる。
前へ荷を引くように腕を動かす。
数歩歩く。
すぐに顔をしかめた。
「前は止まる」
「はい」
「だが、首側がまだ当たる」
ノアが位置を見る。
「肩の上の幅が足りません」
「あと、ここの端が硬い」
男は胸側に当てた布紐の端を指で弾いた。
「濡れたら擦れる」
クラリスはすぐに札へ書く。
仮当て一号
肩前の逃げ:改善
首側当たり:残る
胸側仮紐の端:硬い
幅不足
濡れ時の擦れ確認
工房/仕立て屋での縫製必要
「駄目ですか」
クラリスが聞くと、男は眉をひそめた。
「昨日よりはましだ」
「売れますか」
「売るな」
「はい」
「でも、方向はこっちだ」
その言葉で、クラリスの手が止まった。
成功ではない。
商品でもない。
だが、昨日より進んだ。
「ありがとうございます」
「だから礼はできてから言え」
男は端材を外しながら、今度は別の荷運びを指差した。
「おい、肩の薄いやつ。お前も当てろ」
「俺かよ」
「お前は縄がすぐ首に寄るだろ」
「まあ、寄るけど」
「なら当てろ」
クラリスは驚いた。
年配の男が、他の荷運びを呼んだ。
こちらから頼んだわけではない。
現場が、次の確認者を連れてきた。
ノアが短く言った。
「確認数が増えます」
「はい」
「良い傾向です」
「短いですね」
「はい」
だが、その短さが、今は頼もしかった。
◇
二人目の荷運びは、肩幅が狭かった。
同じ端材を当てると、胸側の仮紐が余った。
縄は止まったが、布がたるむ。
「これ、俺だと邪魔だな」
彼は正直に言った。
クラリスは書く。
肩幅狭い使用者
胸側仮紐:余る
縄止め効果あり
たるみ発生
サイズ差必要
三人目は、逆に大柄だった。
肩幅が広く、端材では足りない。
縄の食い込みは少し減ったが、肩の端で布が丸まった。
肩幅広い使用者
幅不足
肩端で丸まり
大判仕様候補
クラリスは、書く手が追いつかなくなった。
ノアが横から紙を差し出す。
「項目を分けます」
「はい」
「肩幅、縄の太さ、濡れ具合、痛む場所」
「はい」
ノアは棚の端に即席の表を書いた。
濡れ縄肩当て 仕様確認表
使用者:
肩幅:狭/標準/広
縄:細/標準/太
濡れ:乾/湿/濡
痛む場所:肩上/肩前/首側/胸側
判定:不可/要調整/仕様候補
それを見た若い荷運びが言った。
「俺ら、商品にされてねえか」
年配の男が即座に返す。
「違う。俺らの肩を商品に入れてんだ」
周囲が少し笑った。
クラリスも、今度は笑えた。
その言葉は乱暴だったが、正しかった。
ただ布を作るのではない。
肩を入れる。
縄を入れる。
濡れた日の重さを入れる。
その分だけ、値段は上がる。
だが、入れなければ、誰かの肩が後で払う。
◇
昼前、グランベルの棚に新しい札がかかった。
クラリスはそれに気づき、手を止めた。
雨の日荷回り一式
肩掛け補助布つき
数量限定
胸の奥が冷えた。
早い。
あまりにも早い。
昨日の肩の話を、もう拾っている。
グランベルの商会員が、箱の横に薄い布を並べていた。
形は単純だ。
幅広の布を肩へかけるだけ。
前側の逃げ止めはない。
だが、見た目には分かりやすい。
肩にかける布。
すぐ使える。
数量限定。
荷運びの一人がそちらへ足を向けた。
「もう肩のやつ出てるぞ」
「早いな」
「一式につくなら得だろ」
クラリスは、何も言えなかった。
まだこちらは仕様取りの途中。
グランベルは、もう簡易版を棚に出した。
売る力。
広げる力。
ラウルの商会は、それを持っている。
ノアが静かに言った。
「見ましょう」
「止めないのですか」
「止められません」
「ですが」
「粗悪とは限りません。短時間の肩保護なら、機能する可能性があります」
クラリスは唇を噛みそうになり、こらえた。
安く、早く、広く。
ラウルの思想だ。
それ自体は間違いではない。
だが、こちらがまだ確認しているものを、向こうはもう売り始める。
その速度が怖かった。
そこへ、ラウルがやって来た。
今日は最初から、こちらへ来た。
「見ましたか」
「はい」
クラリスは答えた。
「肩掛け補助布」
「ええ。簡易版です。長時間用ではありません」
「その表示は?」
「出します」
ラウルはグランベルの棚を振り返る。
商会員が小さな札を追加していた。
短時間用
長時間の濡れ縄作業には不向き
ノアがその札を見た。
ラウルは少しだけ笑う。
「昨日、ノアさんに言われましたから。抜いたものは見える場所に書くべきだ、と」
ノアは表情を変えなかった。
「良い表示です」
「ありがとうございます」
クラリスは、胸の中に複雑なものを感じた。
ラウルは学ぶ。
敵なのに、正しいところを取り入れる。
だから強い。
ラウルはエルネスタの確認表を見た。
「こちらは、まだ売らない」
「はい」
「時間がかかりますね」
「はい」
「その間に、うちは数を取ります」
「分かっています」
「ですが」
ラウルは、年配の荷運びが肩を動かしている様子を見た。
「あなた方が作るものは、うちの簡易版とは別の商品になるでしょう」
「そうしなければ、負けます」
「ええ」
ラウルは楽しそうに言った。
「同じものを後から出せば、負けます」
その言葉は、優しい助言ではない。
事実だった。
クラリスは端材を見る。
肩前の逃げ止め。
縄の太さ。
濡れ具合。
肩幅。
面倒な項目が増えている。
だが、それが違いになる。
「ノア」
「はい」
「売るなら、何として売りますか」
ノアはすぐには答えなかった。
確認表を見て、年配の荷運びを見て、ローレン商会の安縄を見た。
「雨天肩当て、では広すぎます」
「では」
「濡れ縄肩当て」
クラリスは繰り返す。
「濡れ縄肩当て」
「はい。防雨用品ではなく、濡れた縄の食い込みを軽くする道具です」
ラウルが小さく頷いた。
「良い名前です。狭いですが、強い」
「狭くします」
クラリスは言った。
「広く見せて、合わない人に売るより、まず濡れ縄に絞ります」
ラウルは笑った。
「売りにくい」
「はい」
「ですが、戻りやすい」
「はい」
今度はクラリスが頷いた。
◇
午後、エルネスタの棚には二つの札が並んだ。
濡れ縄肩当て
仕様確認中
濡れた縄の食い込み確認用
まだ売り物ではありません
その隣。
確認したい方
肩幅・縄の太さ・痛む場所を見ます
完成後の予約希望のみ受付
グランベルの肩掛け補助布は、よく売れていた。
短時間用と表示していても、一式に含まれるなら手が伸びる。
すぐ欲しい人には、それで十分なのだ。
だが、エルネスタの棚にも人が来た。
買いに来たというより、肩を見せに来た。
「俺の縄は太い」
「肩じゃなくて首の付け根に来る」
「馬車の荷台から降ろす時だけ痛む」
「濡れてなくても痛いんだが、見てもらえるか」
クラリスは、すべてを売り物にしようとはしなかった。
ノアは、すべてを同じ商品に入れようとはしなかった。
確認表は、すぐに増えた。
肩幅。
縄の太さ。
濡れ具合。
痛む場所。
作る前から、商品が重くなっていく。
その重さを、価格に入れるか。
どこまで入れれば、買える値段に収まるか。
クラリスには、まだ分からない。
だが、分からないまま安く売ることだけは、もうできなかった。
◇
夕方、年配の荷運びが最後にもう一度仮当てをした。
ノアは、別の端材を取り出した。
縫うことはできない。
ここは工房ではない。
できるのは、布を重ね、折り、紐で仮に留め、どこに力が逃げるかを見ることだけだ。
「これは試作品ではありません」
ノアが言った。
「仮当てです。ここで売れる形にはできません」
「分かってる」
年配の荷運びは濡れ縄を肩にかけ直した。
「だから今、肩を貸してるんだろ」
ノアは、肩上の端材を少し広く取り、胸側へ逃げる紐の位置を指で押さえた。
男は濡れ縄をかけ、数歩歩いた。
肩を回す。
前へ荷を引く動作をする。
少し黙る。
「朝よりましだ」
クラリスは息を止める。
「まだ首に来る」
「はい」
「だが、肩の前は止まる」
「はい」
「胸の端も、さっきよりは痛くねえ」
ノアがすぐに書く。
仮当て二号
肩前逃げ止め:有効
首側当たり:残る
胸側端:改善
肩上幅:追加必要
仕様継続
縫製は工房または仕立て屋へ
男はその札を見た。
「まだ売るな」
「はい」
「でも、呼べ」
クラリスは頷いた。
「完成したら」
「違う」
男は言った。
「次の仮当てで呼べ」
クラリスは、目を見開いた。
男は照れたように顔を背ける。
「完成してからじゃ遅いんだろ」
その一言で、クラリスの胸に熱が来た。
完成してからでは遅い。
それを、現場の男が言った。
この棚の意味が、少しだけ現場側の言葉になった。
「はい」
クラリスは深く頷いた。
「次の仮当てで、呼びます」
男は満足したように頷き、去っていった。
◇
三日目の売上も、グランベルには届かなかった。
肩掛け補助布つきの一式はよく売れた。
簡易で、早く、分かりやすい。
ラウルの棚は、やはり強かった。
だが、エルネスタの棚には予約希望が増えた。
濡れ縄肩当て。
まだ価格未定。
まだ仕様未定。
まだ売り物ではない。
それでも、名前を書く者がいた。
クラリスは宿の小部屋で、予約希望の名簿と確認表を並べた。
その横に、ローレン商会の安縄。
さらに、荷運びが持ち込んだ太縄。
ノアは計算していた。
「三種類に分ける必要があります」
「肩幅ですか」
「肩幅と縄の太さです。全員に合わせると、高くなりすぎます」
「では」
「標準型を一つ。大判型を一つ。細縄用は帯を短くする」
クラリスは書き取る。
「三種類」
「はい。ただし、今ここでは作れません」
「王都の仕立て屋に頼みますか」
「仮縫いなら可能です。ただ、本格的には領地の工房で確認した方がいい」
「大市中に出すなら?」
「王都の仕立て屋で仮縫いを一つ。販売ではなく、確認用です」
クラリスは頷いた。
「売るのは、仕様が固まってから」
「はい」
「予約希望者には、試験販売になると伝えます」
「はい」
クラリスは、ペンを握った。
「狭く、深く」
「はい」
「売上では負けますね」
「おそらく」
「でも、肩は拾えますね」
「はい」
クラリスは静かに頷いた。
その時、ノアがふと顔を上げた。
「クラリス様」
「はい」
「食事です」
「……今ですか」
「はい」
「まだ価格が」
「食事です」
クラリスは少しだけ笑った。
「言い方が私に似てきましたね」
「管理される側として、学びました」
「それは良い学習なのでしょうか」
「必要な学習です」
クラリスは紙を置いた。
「分かりました。食べます」
窓の外では、王都大市の夜の声が遠く響いている。
まだ勝ってはいない。
数字でも、速度でも、広さでも、グランベルは強い。
だが、エルネスタの棚には、今日も戻ってきたものがある。
売れる前の声。
完成前の痛み。
次の仮当てで呼べ、という約束。
クラリスは、濡れ縄肩当ての名簿を見た。
売る前から、値段に入れるべきものが増えていた。




