第28話 戻ってくる棚
王都大市、二日目。
朝の通りは、昨日より少しだけ落ち着いていた。
人の数が減ったわけではない。
むしろ多い。
だが、初日のように、何もかもが一度に動き出す慌ただしさは少し薄れていた。
商人たちは昨日見た棚を思い出し、職人たちは気になった品をもう一度確認しに来る。
荷運びたちは、昨日買った道具を腰や肩に下げている。
グランベルの棚には、まだ人がいた。
雨の日荷回り一式
二日目追加分あり
荷縄・簡易手袋・防水袋・乾燥札・小油瓶
初日限定特価の札は外されていた。
代わりに、追加分あり、の札。
上手い。
昨日買えなかった者に、まだ間に合うと思わせる。
初日の熱を、二日目の安心に変えている。
クラリスはそれを見て、素直に思った。
やはり、強い。
だが、今日は昨日と違う。
エルネスタの棚にも、新しい札があった。
昨日、戻ってきた困りごと
・雨の日、肩が痛む
・濡れた縄が重い
・荷台の角に布が沈む
・手袋の親指側が擦れる
・食材包みの匂い移り
売り物ではない。
だが、足を止める札だった。
その隣に、まだ試作品ですらない紙が一枚。
試作予定
雨天肩当て
濡れ縄用
価格未定
使用者確認中
ノアが昨夜、何度も書き直した札だ。
クラリスはそれを見ながら、息を整えた。
「売り物ではないものを、棚に置くのですね」
ノアが頷く。
「はい」
「普通は、置かないですよね」
「置きません」
「変な棚ですね」
「はい」
「否定してください」
「ですが、今日の強みです」
クラリスは少しだけ笑った。
昨日より喉はましだ。
足はまだ少し重い。
だが、気持ちは沈んでいない。
今日は、売るためだけではない。
戻ってきた困りごとを、見える場所に置く日だった。
◇
最初に戻ってきたのは、昨日の若い荷運びだった。
グランベルの一式袋を腰に下げ、エルネスタの荷手当て布を手首に巻いている。
巻き方は、少し雑だった。
「来たぞ」
彼はそう言って、懐から昨日の戻り札を出した。
紙は少し湿っている。
端が折れていた。
「痛かったのですね」
クラリスが聞くと、若者は眉をひそめた。
「痛かったっていうか、ずれた」
「どこが」
「ここ」
彼は親指の付け根を見せた。
赤い筋が増えている。
昨日より濃い。
ノアがすぐに札へ書き足す。
荷手当て布
雨天使用
親指付け根へずれ
巻き方:外側から内側へ流れ
短期使用可
長時間は要調整
若者はそれを覗き込んだ。
「何書いてんだ」
「次に直すためです」
「直すって、俺のは安い方だろ」
「はい。荷手当て布は直しなしです」
「じゃあ意味ねえじゃん」
「次に買う人へ反映します」
若者は口を開けたまま、少し黙った。
「俺の痛かった場所が?」
「はい」
「別のやつの布に?」
「はい」
若者は妙な顔をした。
照れているようにも、不満そうにも見えた。
「……変な棚だな」
「昨日も言われました」
クラリスが答える。
「でも」
若者は手首を見た。
「何も巻かねえよりは良かった」
その一言で、クラリスは少しだけ息を止めた。
大きな褒め言葉ではない。
絶賛でもない。
だが、十分だった。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどじゃねえよ」
「戻ってきてくれたことに、です」
若者は視線を逸らした。
「……今日は長い荷だから、高い方も見せろ」
クラリスは頷いた。
「手戻し布ですね」
「買うかは分からん」
「見てからで構いません」
ノアが手戻し布を出した。
昨日とは少し違う巻き方で、若者の手首に当てる。
親指の付け根へ流れないよう、留め位置を少し外側にずらす。
若者が手を動かした。
「昨日のより重い」
「はい」
「でも、ずれにくい」
「はい」
「高いんだろ」
「はい」
「正直だな」
「はい」
若者はしばらく考えた。
向かいのグランベル棚を見る。
次に、自分の手首を見る。
「今日は、こっちにする」
ノアは頷いた。
「戻り札付きです」
「また書くのか」
「はい」
「面倒くせえ」
「はい」
「でも、痛かったら書く」
若者はそう言って、手戻し布を一枚買った。
二日目、最初の手戻し布だった。
◇
そこから、少しずつ人が止まり始めた。
昨日、戻り札だけ持って帰った者。
水実演を見て、買わずに去った者。
グランベルの一式を買ったが、別の困りごとを抱えた者。
全員ではない。
数は多くない。
だが、昨日とは違った。
彼らは、棚を見るためではなく、自分の困りごとを確認するために来た。
「昨日の水のやつ、もう一回見せてくれ」
「荷台の角に沈むやつだ」
「食材包み用って、匂いはどれくらい抑える」
「肩のやつ、もうできたのか」
まだできていない。
そのたびに、クラリスは言った。
「まだ試作前です」
「いつできる」
「今日、寸法を取ります」
「値段は」
「未定です。高くしすぎないようにしますが、安くするために布を薄くはしません」
「面倒だな」
「はい」
何度も同じ言葉を言った。
だが、昨日よりも意味があった。
面倒。
その面倒を、棚が引き受け始めている。
年配の荷運びが戻ってきたのは、昼前だった。
昨日、肩の痛みを言った男だ。
彼は昨日と同じように、乱暴に棚の前で止まった。
「作ったか」
「まだです」
クラリスは正直に答えた。
「遅い」
「すみません」
「謝るな。雑に作られても困る」
男はそう言って、肩にかけていた濡れ縄を下ろした。
昨日より濡れている。
雨が降ったわけではない。
水場近くの荷を運んできたのだろう。
「今日は見せるだけだ」
「ありがとうございます」
「礼はできてから言え」
どこかで聞いたような言い方だった。
クラリスは少しだけ笑いそうになり、こらえた。
ノアが布の端材を持ってくる。
まだ肩当てではない。
捨てない布の厚めの端材を重ねただけだ。
「試し当てです」
「売るなよ」
「売りません」
「ならいい」
男は縄を肩にかけた。
その下に、ノアが端材を挟む。
すぐに分かった。
ずれる。
肩の前で布が折れ、縄が首側へ寄る。
「駄目だな」
男が即座に言った。
「はい」
ノアも即答した。
「即答するな」
「駄目です」
クラリスはその様子を見て、札に書いた。
雨天肩当て 試し当て
平布重ね:不可
肩前で折れる
縄が首側へ寄る
形状要検討
その時、近くを通りかかった商人が足を止めた。
中年の男だ。
上等な外套を着て、帳簿を抱えている。
エルネスタの棚と、肩に布を当てている荷運びの姿を見比べ、鼻で笑った。
「未完成品まで棚に置くのですか」
クラリスの手が止まった。
男は続ける。
「王都大市は試作場ではありませんよ。売れる品を並べる場所です。失敗を書いた札など、客の前に出すものではない」
その声は大きすぎなかった。
だが、周囲に聞こえるには十分だった。
数人が振り返る。
クラリスは、一瞬だけ喉が詰まった。
痛いところを突かれた。
売り物ではない。
未完成。
失敗札。
普通の商売なら、隠すべきものかもしれない。
だが、年配の荷運びが先に口を開いた。
「完成してねえから、今見てんだろ」
商人が眉を寄せる。
「何?」
「できてから合わねえもん売られるより、今ずれてる方がましだ」
男は肩の布を指で叩いた。
「これ見ろ。もう駄目だ。肩の前で折れる。こんなもんを完成品ですって売られたら、俺の肩が払うことになる」
クラリスは息を止めた。
年配の荷運びは、商人を見ずに続ける。
「失敗を書いてるなら、まだましだ。書かねえで売る棚より信用できる」
周囲の空気が少し変わった。
荷運びの若者がぼそりと言う。
「昨日、俺のもずれたって書かれた」
別の男も笑う。
「変な棚だけどな」
「変だな」
「でも、後で文句言う場所があるのは楽だ」
中年商人は面白くなさそうに顔をしかめた。
「ずいぶん手間のかかる商売ですね」
ノアが静かに言った。
「はい」
「儲かりますか」
「すぐには」
「なら、なおさら変だ」
「後で失う信用よりは安いです」
男は返す言葉を探したが、結局鼻を鳴らして去っていった。
クラリスは、手の中の札を見た。
まだ少し指が震えている。
だが、今の震えは、怯えだけではなかった。
年配の荷運びが、こちらを見た。
「何止まってる」
「はい」
「書け。肩の前だ」
「はい」
クラリスは札に書き足した。
肩上のみ不可
肩前に逃げ止め必要
胸側固定候補
未完成表示は必要
最後の一行を書いた時、ノアが少しだけ目を細めた。
「そこも書くのですか」
「はい」
クラリスは答えた。
「今日、必要だと分かりました」
年配の荷運びは、ふんと鼻を鳴らした。
「できたら呼べ」
「はい」
「安くしろとは言わん」
クラリスは顔を上げた。
男はそっぽを向いたまま続ける。
「ただし、すぐ壊れるなら買わん。濡れ縄は重い。肩で受ける。そこを安くされると、こっちが痛い」
クラリスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
安くしろとは言わない。
ただし、痛い場所を安くするな。
それは、エルネスタが聞きたかった言葉だった。
「分かりました」
「本当に分かったのか」
「はい」
「なら、試せ。机で考えるな」
「はい」
男はグランベルの一式袋を肩にかけ直し、去っていった。
その背中を見ながら、ノアが短く言った。
「注文です」
「はい」
クラリスは札を見た。
「まだ売れていないのに」
「はい」
「でも、注文ですね」
「はい」
◇
昼過ぎ、ラウルが来た。
今日は昨日より早い。
グランベルの棚は、二日目もよく売れていた。
だが、昨日ほど一方的ではない。
エルネスタの棚にも、立ち止まる人が増えている。
ラウルは戻り札の束を見て、次に雨天肩当ての試し当て札を見た。
「二日目に戻りましたね」
「少しだけです」
クラリスが答える。
「少しで十分です。戻る理由ができたなら」
ラウルは、試し当ての札を手に取った。
平布重ね:不可
肩前で折れる
縄が首側へ寄る
肩前に逃げ止め必要
未完成表示は必要
「失敗も出すのですか」
「はい」
「未完成表示まで」
「はい」
「勇気がありますね」
「怖いです」
クラリスは正直に言った。
「でも、隠すと間違って買われます」
ラウルは少しだけ笑った。
「売りにくい」
「はい」
「ですが、戻りやすい」
クラリスはその言葉を受け止めた。
売りにくい。
戻りやすい。
昨日から今日にかけて、自分たちの棚が何をしているのか、少しだけ言葉になった気がした。
「グランベルは、売りやすい棚ですね」
「はい」
ラウルは否定しなかった。
「すぐに困りごとを減らします」
「そして、こちらは戻りやすい棚」
「そうなりつつあります」
「それは、競合ですか」
「一部は」
ラウルは戻り札を置いた。
「一部は、違います」
「違う?」
「グランベルの一式を買った人間が、こちらに戻っている。つまり、私たちの棚では拾いきれなかった困りごとを、あなた方が拾っている」
クラリスは黙った。
「悔しいですか」
ラウルが聞く。
「少し」
「正直ですね」
「はい」
「私は、面白いです」
「でしょうね」
ラウルは笑った。
だが、その目は穏やかではなかった。
「ただし、こちらも放ってはおきません」
クラリスは背筋を伸ばす。
「何をされるのですか」
「まだ言いません」
「ずるいですね」
「商売敵ですから」
ラウルはグランベル棚へ戻っていった。
クラリスはその背中を見送る。
怖い。
だが、以前のように、ただ押し潰される怖さではなかった。
こちらにも、戻ってくるものがある。
◇
二日目の夕方。
売上は、初日より伸びた。
それでも、総額ではグランベルに遠く及ばない。
だが、手戻し布は昨日より多く売れた。
荷手当て布も出た。
捨てない布は、食材包み用が動き始めた。
そして、雨天肩当ての予約希望が五件入った。
まだ存在しない商品に、五人が名を残した。
クラリスはその名簿を見て、しばらく黙っていた。
「売っていないものに、名前がつきました」
「はい」
ノアは頷いた。
「危険でもあります」
「分かっています。作れなければ、失望になります」
「はい」
「でも」
クラリスは、名簿の上に手を置いた。
「これは、安く売る前の約束ですね」
「はい」
「値段も、仕様も、試してから置きます」
「はい」
その時、ローレン商会の男が棚の前に来た。
荷縄の商人だ。
昨日「あの一文は残せ」と言った男だった。
「肩当てを作るのか」
「試作予定です」
「濡れ縄用なら、縄の太さで変わるぞ」
クラリスは目を上げた。
「縄の太さ」
「ああ。うちの安縄と、グランベルの太縄じゃ食い込み方が違う。肩当てだけ作っても、縄を見ねえと外す」
ノアがすぐに紙を取る。
「縄別確認」
「そうだ」
ローレン商会の男は、腰から縄の見本を一本外した。
「持ってけ。安縄用だ。戻せよ」
「よろしいのですか」
「変な肩当て作られて、縄のせいにされたら困る」
言い方はぶっきらぼうだった。
だが、協力だった。
クラリスは両手で縄を受け取った。
「ありがとうございます」
「礼は売れてから言え」
また同じ種類の言葉だった。
クラリスは、今度は少し笑った。
「はい」
ローレン商会の男は照れたように顔を背け、去っていった。
ノアが短く言った。
「隣の棚が、試作に入りました」
「はい」
クラリスは縄を見た。
安い縄。
だが、雑な縄ではない。
毎日使う人に届くための縄。
その縄と一緒に試す肩当てなら、安さを敵にしないまま、痛みを減らせるかもしれない。
◇
宿へ戻ると、クラリスはすぐに机へ向かった。
ノアが止める前に、彼女は言った。
「食事は食べます」
「まだ何も言っていません」
「言いそうだったので」
ノアは少しだけ目を伏せた。
「サラさんに似てきましたね」
「それは褒め言葉でしょうか」
「半分は」
「残り半分は?」
「管理される側としては、厄介です」
クラリスは少し笑った。
その後、食事を取り、戻り札を並べた。
二日目の札は、初日より具体的だった。
荷手当て布:親指側へずれ
手戻し布:留め位置良
雨天肩当て:肩前で止め必要
食材包み用:魚の匂い移り相談
荷台用:角沈みあり
ノアは売上帳簿の横に、戻り札の束を置いた。
「数字だけなら、まだ負けています」
「はい」
「でも、昨日より負け方が変わりました」
「はい」
クラリスは言った。
「今日は、戻ってくる棚になりました」
ノアは頷いた。
「良い言い方です」
「短いですね」
「はい」
クラリスは、雨天肩当ての名簿を見た。
まだ売れていない。
まだ形もない。
だが、明日試す理由がある。
隣の棚から縄も借りた。
グランベルは、きっとまた何かを仕掛けてくる。
それでも、今日の棚には昨日にはなかったものがあった。
戻ってきた人。
戻ってきた痛み。
戻ってきた約束。
クラリスは、安縄の見本を机に置いた。
「明日は、肩を見ます」
ノアは頷いた。
「はい」
王都大市二日目。
売上では、まだ届かない。
だが、エルネスタの棚は、ただ待つ棚ではなくなっていた。
人が戻ってくる棚になり始めていた。
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