第27話 初日に取られる棚
王都大市、初日。
朝から、通りは人で埋まっていた。
荷馬車。
行商人。
小商人。
職人。
貴族家の使い。
宿屋の下働き。
買い付けの帳簿を抱えた男たち。
王都中の商売が、一度に息をし始めたようだった。
クラリスは、搬入口へ抜ける通路横の棚の前に立っていた。
入口の華やかな棚ではない。
だが、人は通る。
荷を抱えた者。
箱を運ぶ者。
縄を肩にかけた者。
雨具を腕に抱えた者。
足は止まらない。
通る。
見る。
少しだけ目を向ける。
そして、向かいの棚で止まる。
グランベル商会の協賛棚。
そこには、朝一番で大きな札が掲げられていた。
雨の日荷回り一式
初日限定特価
荷縄・簡易手袋・防水袋・乾燥札・小油瓶
まとめてこの価格
強かった。
分かりやすかった。
荷を扱う者なら、何も聞かなくても分かる。
雨の日に困るものが、ひとまとめにされている。
「一式か。楽でいいな」
「初日だけなら、今買っとくか」
「袋も入ってこの値なら安い」
人が止まる。
手が伸びる。
商会員が手際よく説明し、次々に箱を渡していく。
ラウルの姿は見えない。
だが、棚の作りだけで十分だった。
クラリスは、自分の棚へ目を戻す。
安く済ませる道具も必要です。
けれど、痛みが残る仕事には、残る道具が必要です。
何に困っていたかが分かる棚。
防水ではありません。
濡れた時に、どこが困るかを見る実演です。
言葉は悪くない。
昨日、そう思った。
だが、初日の朝の人の流れは速い。
誰も、自分の困りごとを見つめ直す余裕がない。
目の前の荷を運び、今日必要なものを買い、次の商談へ向かう。
足を止める理由が、まだ足りなかった。
「焦らないでください」
ノアが横で言った。
小声だった。
「焦っていますか」
「はい」
「見えていましたか」
「はい」
クラリスは息を吐いた。
「嫌ですね」
「はい」
「そこは否定してください」
「焦りを否定しても、流れは変わりません」
「本当に嫌な言い方です」
ノアは棚の上を見た。
手戻し布。
荷手当て布。
捨てない布。
水差し。
木片。
水受け皿。
乾いた布と、濡らした後に入れる箱。
準備はある。
だが、始める相手がいない。
クラリスは水差しに手を伸ばしかけて、止めた。
誰も見ていない状態で実演しても、ただの水遊びになる。
その時、向かいのグランベル棚で、若い荷運びが一式を受け取った。
年は二十前後。
肩に縄の跡があり、片手で荷札の束を持っている。
彼は袋を覗き込み、簡易手袋を取り出して、少し首を傾げた。
「これ、雨で濡れたら滑らねえのか?」
グランベルの商会員が笑顔で答える。
「雨の日荷回り用です。すぐ使えますよ」
「いや、濡れた縄を持つとき」
「簡易手袋ですから、短時間なら問題ありません」
若者は納得したような、していないような顔をした。
だが、一式は買った。
そのまま歩き出そうとする。
クラリスは、その手を見た。
親指の付け根。
赤い擦れ。
昨日の実演で、ノアが濡れた荷手当て布を巻いた時に出た場所と同じだった。
クラリスは、一歩前に出た。
「すみません」
若者が振り向く。
「何だ?」
「濡れた時に、そこが痛くなりませんか」
若者は眉を寄せた。
「そこ?」
クラリスは、自分の親指の付け根を示した。
「縄が濡れて重くなると、ここに寄ることがあります」
若者は、自分の手を見た。
赤い跡を隠すように、指を曲げる。
「まあ、なるけど」
「少しだけ、見ていただけますか。売る前に、困る場所を見せる実演です」
若者は怪訝そうな顔をした。
「売る前に困る場所?」
「はい」
「変な棚だな」
「よく言われます」
ノアが小さく息を吐いた。
クラリスは水差しを持った。
周囲の足が、ほんの少し遅くなる。
一人が止まると、二人目が見る。
搬入口の通路は、そういう場所だった。
◇
クラリスは木片の上に捨てない布を置いた。
「これは、防水布ではありません」
最初に言った。
若者は、ますます怪訝そうな顔をする。
「防水じゃねえのか」
「はい。水を弾く商品ではありません。濡れた時に、どこが困るかを見る実演です」
「困るところを見る?」
「はい」
クラリスは、水を一滴落とした。
布は水を吸い、色が濃くなる。
少し重くなり、木片の角に沿って沈んだ。
「濡れると、布は重くなります。角に沿って沈むと、下の荷に当たる場所が変わります」
若者は、少し目を細めた。
「箱の角に食い込むやつか」
「はい」
「あるな」
その一言で、隣にいた荷運びの男が足を止めた。
「何だ、箱の角の話か」
「濡れ布が沈むやつです」
クラリスは答えた。
「防水じゃないんだろ」
「はい」
「正直だな」
「防水だと思って買われると、後で困ります」
男は少し笑った。
「売る気あんのか」
「あります」
クラリスは即答した。
「ただ、違う困りごとに売る気はありません」
ノアが横で、荷手当て布を取った。
乾いた状態で自分の手首に巻く。
「これは、荷手当て布です。一日から数日の荷運び用。手首の擦れを軽くします」
次に、布の端を少し濡らして巻き直す。
布が手首に貼りつき、親指側へ引かれた。
「濡れると、軽い布でもまとわりつきます。短時間なら使えます。ただ、長く使うとずれやすい」
若者が身を乗り出す。
「さっきの手袋も、それか」
グランベルの商会員が、向かいの棚から視線を向けた。
ノアはグランベル棚を否定しなかった。
「簡易手袋も、短時間用なら有効です。ただ、濡れた縄を長く扱うなら、ずれと擦れを見る必要があります」
「見るって、どうやって」
クラリスは、手戻し布を取った。
「使った後に、戻り札へ書きます」
「戻り札?」
若者の顔に、また分からないという色が浮かんだ。
クラリスは小さな札を見せる。
どこが痛いか
どこがずれたか
雨の日か、乾いた日か
次の直しに使う
「買って終わりではありません。使った後に、痛みが出た場所を戻してもらいます。初回の直しは価格に入っています」
若者は少し黙った。
隣の男が言う。
「面倒くせえな」
「はい」
クラリスは頷いた。
「面倒です」
「認めるのか」
「認めます。だから、短期なら荷手当て布で十分です」
クラリスは荷手当て布を指す。
「一日から数日なら、こちら。長く使って、痛みを直したいなら手戻し布です」
若者はグランベルの一式を見た。
次に、エルネスタの荷手当て布を見る。
「じゃあ、俺みたいな日雇いは安い方か」
「はい。まずは荷手当て布でいいと思います」
ノアが言った。
「手首の赤いところを見せてもらえますか」
若者は少し迷い、手を出した。
親指の付け根に、縄の跡。
手首の外側に、古い擦れ。
ノアはそれを見て、短く言った。
「一日なら荷手当て布。雨の日が続くなら、手戻し布を検討してください」
「高い方を売らねえのか」
「合わないものを売ると、戻ってきません」
「戻ってくる?」
「客が、です」
若者は、少しだけ笑った。
「変な兄さんだな」
「よく言われます」
クラリスは今度こそ少し笑いそうになった。
◇
最初に売れたのは、荷手当て布だった。
若者は、グランベルの一式を抱えたまま、エルネスタの荷手当て布を一枚買った。
「高い方は、まだいい」
「はい」
「こっちは今日使う」
「ありがとうございます」
「で、痛くなったら?」
クラリスは戻り札を一枚渡した。
「手戻し布でなくても、痛くなった場所を書いて持ってきてください。次に選ぶ時の参考にします」
「買ってねえのに?」
「はい」
「それ、得するのか?」
クラリスは一瞬答えに詰まった。
ノアが静かに言う。
「次に合うものを買ってもらえれば、損ではありません」
若者は札を見た。
「ふうん」
彼は雑に札を懐へ入れた。
「なら、痛かったら来る」
それだけ言って、去っていった。
大きな売上ではない。
手戻し布でもない。
高価な羊毛布でもない。
初日に売れたのは、安価な荷手当て布一枚だった。
だが、クラリスはその背中を見送った。
グランベルの一式を買った客が、エルネスタの棚にも足を止めた。
同じ客が、別の理由で買った。
それは、敗北ではなかった。
隣で見ていた荷運びの男が、顎をしゃくった。
「俺にも見せてくれ。その濡れるやつ」
「はい」
クラリスは水差しを持った。
今度は、手が震えなかった。
◇
昼に近づくほど、通路はさらに混み始めた。
グランベルの棚は、明らかに強かった。
初日限定特価。
雨の日荷回り一式。
人は流れるように足を止め、まとめて買っていく。
ラウルは途中で姿を見せたが、何も言わなかった。
向かいの棚の少し後ろに立ち、グランベルの売れ行きと、エルネスタの水実演を交互に見ていた。
その目は楽しそうでもあり、冷静でもあった。
クラリスたちの棚には、列はできない。
足を止める人はいる。
だが、すぐに買う人は少ない。
説明を聞く。
手首を見る。
濡れた布を見る。
戻り札を受け取る。
そして、考える。
商売としては遅い。
だが、足跡は残り始めた。
「これ、防水じゃないんだろ」
「はい」
「じゃあ、何で水を落としてる」
「濡れた時に困る場所を見るためです」
「荷台用は?」
「こちらです。角に沈む場所を見てください」
「詰め物用は濡らすなよ」
「濡らしません。これは荷台用の実演です」
「手戻し布は高いな」
「初回直しと戻り札管理が入っています。短期なら荷手当て布をおすすめします」
何度も同じ説明をした。
クラリスの喉は乾いた。
ノアが水差しを差し出す。
「飲んでください」
「実演用です」
「飲む分は別です」
サラがいつの間にか、もう一本の水差しを持って立っていた。
クラリスは少し驚く。
「サラさん」
「帳場から頼まれました。あと、父が、喉が枯れたら売れないって」
ノアが小さく頷いた。
「正しいです」
クラリスは水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
その間にも、向かいのグランベル棚から声が上がる。
「初日限定です!」
「雨の日の荷回り、一式でこの価格!」
「まとめて揃います!」
強い。
やはり強い。
クラリスは水差しを置き、また棚の前に立った。
◇
昼過ぎ、ひとりの年配の荷運びが足を止めた。
その手には、グランベルの一式があった。
だが、歩き方が少し遅い。
彼はエルネスタの実演を見るでもなく、説明板をじっと読んでいた。
何に困っていたかが分かる棚。
年配の男は、鼻で笑った。
「困ってることなんぞ、山ほどある」
クラリスは軽く頭を下げた。
「一つだけでも、お聞きしてよろしいですか」
「聞いてどうする」
「今すぐ売れるものがないかもしれません」
「商売下手だな」
「はい」
「認めるな」
男は少しだけ笑った。
それから、右手を上げた。
「雨の日は、手じゃねえ。肩だ」
「肩?」
「ああ。濡れた荷縄が肩に食う。手は手袋でどうにかなる。だが、肩にかける縄が濡れて重くなると、ここに残る」
男は肩の前側を叩いた。
クラリスは、すぐにノアを見た。
ノアは紙を取っている。
「肩当て」
短く言った。
「今は商品がありません」
クラリスが言う。
「はい。ありません」
ノアは年配の男へ向き直る。
「今はありません。ですが、痛む位置を見せてもらえますか」
男は少し驚いた顔をした。
「買うものがねえのに?」
「はい」
「何でだ」
「次に作るものを間違えないためです」
年配の男はしばらく黙った。
それから、荷を下ろし、肩の位置を見せた。
濡れた縄が食い込む場所。
肩から胸へ斜めに残る跡。
荷手当て布では足りない。
手戻し布でもない。
別の困りごとだ。
クラリスは、その跡を見た。
売るものがない。
だが、価値の入口がある。
「ありがとうございます」
「礼を言われることか」
「はい。まだ見えていなかった困りごとです」
男は少し顔をしかめた。
「見えても、すぐには楽にならん」
「はい」
「なら、早く作れ」
その言葉は乱暴だった。
だが、注文に近かった。
クラリスは背筋を伸ばした。
「作ります」
「高すぎたら買わんぞ」
「用途と価格を分けます」
「また面倒なこと言いやがる」
「はい」
男は鼻を鳴らし、グランベルの一式を肩にかけ直した。
「今日は向こうで足りる。だが、肩のやつができたら見に来る」
そう言って、去っていった。
クラリスは、ノアの紙を見た。
雨天肩当て
濡れ縄用
荷運び肩部
次回試作候補
胸が熱くなる。
売れていない。
まだ商品もない。
だが、戻ってくる理由が一つできた。
向かいの棚から、ラウルがこちらを見ていた。
彼は小さく笑っていた。
勝ち誇る笑みではない。
面白いものを見た商人の笑みだった。
◇
初日の夕方。
売上だけを見れば、グランベルの圧勝だった。
雨の日荷回り一式は、用意した箱の大半が消えていた。
初日限定特価の札は、よく働いた。
一方、エルネスタの棚で売れたのは、荷手当て布が十数枚。
手戻し布は三枚。
捨てない布は少し。
数字だけなら、小さい。
だが、戻り札は売上より多かった。
痛みの場所を書いた札。
雨の日の困りごと。
肩当ての要望。
荷台の角。
濡れた縄。
食材包みの匂い移り。
売れた商品より、戻ってきた声の方が多い。
クラリスは、札の束を見ていた。
「売上では負けていますね」
「はい」
ノアは否定しない。
「大きく」
「はい」
「ですが」
クラリスは札を見る。
「明日、見るものがあります」
「はい」
ノアは頷いた。
「今日は、買われた日ではなく、困りごとが戻った日です」
クラリスは、静かに息を吐いた。
疲れていた。
喉も痛い。
足も重い。
だが、胸の奥は沈んでいなかった。
その時、ラウルがやって来た。
彼はエルネスタの棚の前に立ち、戻り札の束を見た。
「初日は、こちらが取りました」
「はい」
クラリスは認めた。
「グランベルの勝ちです」
「売上では」
ラウルは言った。
「はい。売上では」
クラリスは札の束を持ち上げた。
「ですが、こちらには明日の理由があります」
ラウルの目が少し細くなる。
ノアは黙っている。
クラリスは続けた。
「今日、買わなかった人が、困りごとを置いていきました。明日、それを見に戻る人がいます」
ラウルはしばらく黙った。
それから、楽しそうに笑った。
「良いですね」
「短いですね」
「ええ」
ラウルは戻り札を一枚見た。
雨天肩当て。
濡れ縄用。
まだ存在しない商品。
「売れなかったものまで、明日の棚に入れるのですか」
「はい」
「面倒ですね」
「はい」
「ですが、厄介です」
ラウルは札を戻した。
「では、二日目を見ます」
彼はそう言って、去っていった。
◇
宿へ戻る頃には、空が暗くなっていた。
クラリスはほとんど声が出なかった。
サラが食堂の入口で水を持って待っていた。
「喉、やられました?」
「少し」
「父が、そうなるって言ってました」
「お父様は何でもご存じですね」
「だいたい見てるだけです」
サラは水を差し出した。
クラリスは受け取る。
その横で、ノアが言った。
「食事です」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
クラリスは小さく笑った。
「今日は、あなたより先に食べます」
「それは助かります」
ノアは真顔で言った。
少しだけ、二人とも笑った。
小部屋に戻ると、机の上に戻り札を並べた。
売上帳簿。
戻り札。
肩当ての試作候補。
グランベルの初日売上予測。
数字だけなら負けている。
だが、数字にまだ入っていないものが、机の上に積まれていた。
クラリスは、戻り札の一枚を手に取った。
雨の日、肩が痛む。
手ではない。
濡れた縄が重い。
その字は乱暴だった。
だが、確かに戻ってきた声だった。
クラリスは札を置いた。
「明日は、これを棚に置きます」
ノアは頷いた。
「売り物ではありません」
「はい」
「ですが、戻る理由になります」
「はい」
クラリスは、かすれた声で言った。
「今日は負けました」
「はい」
「でも、安く負けたわけではありません」
ノアは少しだけ目を細めた。
「良い言い方です」
「短いですね」
「はい」
クラリスは笑った。
声はまだかすれている。
だが、その笑いは弱くなかった。
王都大市初日。
売上では、グランベルが取った。
けれど、エルネスタの棚には、明日戻ってくるための札が残った。




