第26話 こちらも本気でいきます
翌朝、ノアはいつも通りに机へ向かった。
いつも通り。
少なくとも、そう見えるようにしていた。
宿の小部屋には、王都大市用の説明板、配置図、価格表、手戻し布と荷手当て布の見本が並んでいる。
クラリスは、その反対側に座っていた。
昨日、自分が書いた紙が、机の端に置かれている。
ノア・レインズ
契約・価格・売場判断に関する正式助言者
報酬見直し
判断権限の明記
休息時間の確保
字は少し乱れていた。
急いで書いたからではない。
震えていたからだ。
クラリスは、その紙をもう一度見た。
「ノア」
「はい」
「昨日の件ですが」
「はい」
「正式に進めます」
ノアは帳簿から顔を上げた。
「大市前です」
「分かっています」
「今は、説明板と価格表を優先すべきです」
「それも分かっています」
クラリスは、紙を自分の前へ引き寄せた。
「ですが、これは後回しにしません」
ノアは黙った。
クラリスは言葉を選ぶ。
「ラウルさんの条件と同じにはできません」
「当然です」
「報酬三倍も、流通資料の閲覧権限も、グランベルほどの商流も、今のエルネスタにはありません」
「はい」
「だからこそ、できることを明記します」
クラリスは新しい紙を出した。
昨夜より、字は落ち着いていた。
ノア・レインズを、エルネスタ領の価格・契約・売場判断に関する正式助言者とする。
王都大市に関わる価格、契約条件、返品条件、売場配置、説明内容について、事前確認権を持つ。
報酬は王都大市期間分を別枠で加算する。
休息時間を確保する。
食事を抜かせない。
最後の一行を見て、ノアの眉が動いた。
「食事」
「入れます」
「正式文書に」
「入れます」
「不自然です」
「あなたには必要です」
ノアは少しだけ目を伏せた。
「……契約書というより、管理表ですね」
「あなたが自分を管理しないので」
「それは」
「反論できますか」
ノアは黙った。
クラリスは紙の端を押さえた。
「あなたは、人の損失にはすぐ気づきます。ガルドの仕事、ミリアの原毛、リサの手間、荷運びの手、私の半値札。全部見ました」
「はい」
「でも、自分の食事や睡眠は見落とします」
「見落としているわけでは」
「では、なぜ昨日の昼を抜きましたか」
ノアは沈黙した。
クラリスは静かに続ける。
「私は、あなたを引き止めるためにだけ、この紙を書いているのではありません」
「はい」
「あなたがここに残るなら、なおさらです。ここで削られてはいけません」
ノアは、少しだけ息を吐いた。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
「では、朝食を食べてください」
ノアは机の上の価格表を見た。
「この項目だけ」
「食べてください」
「あと少し」
「ノア」
クラリスが名前だけを呼んだ。
ノアは動きを止めた。
それから、諦めたように紙を置いた。
「分かりました」
クラリスは少しだけ頷いた。
勝った気はしない。
ただ、ひとつ戻した。
ノアの時間を。
◇
朝食は、宿の食堂で取った。
硬いパン。
豆の煮込み。
薄い塩味のスープ。
サラが配膳しながら、ちらりとノアを見た。
「今日はちゃんと食べるんですね」
ノアは手を止めた。
「昨日も食べました」
「昼、残ってました」
「確認していたのですか」
「皿を下げるの、私なので」
サラは少しだけ得意げだった。
クラリスはスープを口に運びながら、静かに言った。
「今後、ノアが食事を残していたら教えてください」
「はい」
「クラリス様」
ノアが抗議する。
「正式助言者の管理です」
「範囲が広すぎます」
「あなたの働き方が広すぎるのです」
サラが笑いを堪えている。
ノアは何か言い返そうとして、やめた。
その時、食堂の奥で商人たちの声が聞こえた。
「グランベルの棚、出るらしいぞ」
「大市の搬入口側だろ」
「ああ。簡易荷回り品の一式だとか」
クラリスの手が止まる。
ノアも顔を上げた。
サラが、盆を抱えたまま少しだけ近づいてきた。
声を落とす。
「さっき聞こえました。グランベル商会が、向かいの協賛棚に新しい品を出すそうです」
「新しい品」
「はい。荷運びの人向けの、安い道具の組み合わせだって」
クラリスはノアを見た。
昨日のラウルの言葉が蘇る。
こちらも本気でいきます。
早い。
あまりにも早い。
「ラウルさんですね」
クラリスが言うと、ノアは短く頷いた。
「はい」
◇
昼前、王都大市の共同売場予定地に行くと、向かいの棚に作業員が入っていた。
グランベルの協賛棚。
まだ布はかけられている。
だが、木箱がいくつも運び込まれていた。
荷縄。
簡易手袋。
防水袋。
乾燥札。
小さな油瓶。
荷運びがすぐ使える道具ばかりだ。
クラリスは足を止めた。
ノアは、箱の表に貼られた仮札を読む。
雨の日荷回り一式
荷縄
簡易手袋
防水袋
乾燥札
小油瓶
特別価格
クラリスの胸が少し沈んだ。
強い。
分かりやすい。
安いかどうかはまだ分からない。
だが、見ただけで用途が分かる。
雨の日に荷を扱う人間なら、足を止める。
昨日までクラリスたちが積み上げていた「説明しなければ見えない価値」の向かいに、説明しなくても分かる一式が置かれる。
ラウルは、本気だった。
「良い棚ですね」
ノアが言った。
「敵の棚ですよ」
「はい」
「良いと言うのですか」
「良いものは良いです」
クラリスは唇を結んだ。
悔しい。
だが、ノアの言う通りだった。
良い棚だ。
それを認められなければ、こちらの棚も見誤る。
向かい側で作業を見ていた若い商会員が、クラリスたちに気づいて頭を下げた。
「クラリス様、ノア様。ラウルより、後ほどご挨拶に伺うよう申しつかっております」
「ラウルさんは?」
「別の商談へ。夕方には戻る予定です」
つまり、まだ本人は来ない。
だが、棚だけで十分に圧をかけてきた。
クラリスはグランベルの仮札を見た。
「特別価格」
ノアも同じところを見ていた。
「危険な言葉です」
「やはり」
「はい。中身次第です。安く見せるために何を抜いたか、確認が必要です」
クラリスは、昨日の荷手当て布の札を思い出す。
直しなし。
戻り札なし。
使用後の痛みは拾わない。
抜いたものほど、見える場所に書く。
グランベルは、どう書くのか。
◇
自分たちの棚に戻ると、クラリスは説明板を見た。
荷を縛るのは縄。
手を守るのは布。
どちらも、仕事を止めないための道具です。
悪くない。
だが、向かいに「雨の日荷回り一式」が来ると、少し弱く見えた。
こちらは説明が必要だ。
向こうは一式で分かる。
こちらは価格の内訳を出す。
向こうは特別価格と出す。
こちらは手間を見せる。
向こうは楽を見せる。
クラリスは、自分が焦っていることを自覚した。
「ノア」
「はい」
「こちらも一式にすべきでしょうか」
「何をまとめますか」
「手戻し布、荷手当て布、捨てない布、戻り札、説明札」
「目的が混ざります」
ノアは即答した。
「グランベルの一式は、雨の日にすぐ使う道具の束です。こちらの商品を無理に束ねると、何を売っているのか曖昧になります」
「では、このままですか」
「いいえ」
ノアは説明板の横に紙を置いた。
「入口を作ります」
「入口」
「はい。向こうの一式に足を止めた人が、こちらにも目を向ける入口です」
クラリスは紙を見る。
ノアは短く書いた。
安く済ませる道具も必要です。
けれど、痛みが残る仕事には、残る道具が必要です。
クラリスは読んだ。
胸の中で、何かが静かに整った。
「向こうを否定しない」
「はい」
「でも、こちらの役割を消さない」
「はい」
クラリスは頷いた。
「これを、説明板の最初に置きましょう」
「はい」
「それから、荷手当て布の札にも」
クラリスは筆を取った。
まず一日を守る布。
長く使うなら、手戻し布へ。
ノアが頷く。
「良いです」
「短いですね」
「はい」
「今は、その方がいいです」
クラリスは、もう一枚の札を見る。
手戻し布。
そこにはこう書いた。
長く使う人へ。
戻り札と初回直し付き。
痛みを残して、次を直す布。
書いた瞬間、クラリスは少し息を止めた。
痛みを残す。
痛みを売り物にしているように見えないだろうか。
ノアが静かに言った。
「痛みを残す、は少し強いです」
「はい。私もそう思いました」
「拾う、の方がいいです」
クラリスは線を引く。
痛みを拾って、次を直す布。
「こちらですね」
「はい」
◇
昼過ぎ、サラが宿から弁当を届けに来た。
小さな包みだった。
硬いパンと、塩漬け肉、干し果実が少し。
「クラリス様から、ノアさんに必ず渡すように言われました」
クラリスは眉を上げた。
「私は言っていません」
サラはにっこりした。
「言いそうだったので」
ノアが無言でクラリスを見る。
クラリスは少しだけ咳払いをした。
「……では、言います。食べてください」
「今ですか」
「今です」
「大市の棚で」
「隅で」
サラが包みを差し出す。
「帳場の父も言ってました。働く人は、食べないと文句が雑になるって」
ノアは受け取った。
「文句」
「はい」
サラは向かいのグランベル棚をちらりと見た。
「向こう、分かりやすいですね」
「はい」
クラリスは素直に認めた。
「分かりやすいです」
「でも、こっちは、話を聞いたら覚えます」
サラはエルネスタの説明板を見る。
「向こうは、買うものが分かる棚。こっちは、何で困ってたか分かる棚、って感じがします」
クラリスは目を上げた。
ノアも手を止めた。
「何で困っていたか分かる棚」
サラは慌てる。
「すみません。変でした?」
「いいえ」
クラリスは静かに首を振った。
「とても良いです」
ノアは紙を取った。
「使えます」
「えっ」
サラが驚く。
ノアは説明板の端に書いた。
何に困っていたかが分かる棚。
クラリスはそれを見る。
確かに、そうだ。
グランベルの棚は、すぐ解決する棚。
エルネスタの棚は、困りごとを見つけ直す棚。
勝ち方が違う。
同じ土俵で勝とうとしてはいけない。
「サラさん」
「はい」
「ありがとうございます」
「いえ、私はただ」
「ただ見たことが、役に立ちました」
サラは少しだけ頬を赤くした。
「じゃあ、また見ておきます」
そう言って、彼女は小走りで戻ろうとした。
だが、数歩進んでから、ふと思い出したように振り返った。
「あの、水差しも置いていきます」
「水差し?」
「父が、棚で話すなら喉が渇くだろうって」
サラは小さな水差しを棚の端に置いた。
透明な水が、陽を受けて揺れていた。
クラリスはそれを見た。
雨の日。
濡れた荷。
手に巻く布。
水。
「ノア」
「はい」
「実演、できますか」
ノアは水差しを見て、すぐに頷いた。
「できます。ただし、防水実演ではありません」
「分かっています」
クラリスは、手元にあった小さな木片を取った。
荷箱の角に見立てるための、端材だ。
その上に、薄い捨てない布を一枚置く。
隣に、荷手当て布を置く。
さらに、手戻し布を短く巻いた見本を置いた。
サラが足を止める。
近くを通りかかった荷運びの若者も、ちらりと見た。
向かいのグランベルの商会員も、手を止めた。
クラリスは水差しを持った。
「これは、防水布ではありません」
最初にそう言った。
ノアが少しだけ頷く。
「水を弾く商品ではありません。濡れた時に、どこが困るかを見るための実演です」
クラリスは、捨てない布の端に水を一滴落とした。
水は布に染みた。
少しだけ色が濃くなる。
布は重くなり、木片の角に沿って沈んだ。
サラが小さく声を漏らした。
「あ、角のところ」
クラリスは頷いた。
「はい。濡れると、布は重くなります。角に沿って沈むと、下の荷に当たる場所が変わります」
ノアが隣の荷手当て布を取る。
乾いた状態で手首に軽く巻く。
「乾いている時は、擦れを軽くできます」
次に、同じ布の端を少し濡らす。
巻き直す。
布が手首に貼りついた。
ノアは手を少し動かした。
「濡れると、軽い布でもまとわりつきます。短時間なら守れますが、長く使うとずれやすくなります」
クラリスは手戻し布を取った。
厚みがあり、留め位置がある。
「こちらは、長く使う人向けです。濡れた時のずれを見て、戻り札で直します。最初から完全ではありません」
近くの荷運びの若者が、思わず言った。
「完全じゃないって言うのか」
クラリスは顔を上げた。
「はい」
若者は目を丸くする。
「売る時に?」
「はい。完全ではないから、使った後に直します」
若者は少しだけ笑った。
「変な売り方だな」
「はい」
クラリスは認めた。
「ですが、手の痛みは、使った後に出ます」
若者は自分の手首を見た。
そこには、縄の跡が薄く残っていた。
向かいのグランベルの商会員が、黙ってその様子を見ている。
サラは水差しを抱えたまま、少し興奮した顔をしていた。
「これ、分かりやすいです」
「本当ですか」
「はい。防水じゃないって最初に言うのも、いいと思います。変に期待しないので」
ノアが即座に紙へ書いた。
防水ではありません。
濡れた時に、どこが困るかを見る実演です。
クラリスはそれを読んだ。
「これを実演札にします」
「はい」
ノアは頷いた。
「初日の入口になります」
クラリスは水で濡れた小さな布を見た。
派手ではない。
だが、見れば分かる。
何に困るのか。
どこが痛むのか。
どこを直すべきなのか。
向かいの棚が「これを買えば済む」と見せるなら、こちらは「どこで困っていたか」を見せる。
少しだけ、勝ち方が見えた。
◇
夕方近く、ラウルが戻ってきた。
今度はひとりだった。
向かいの棚を確認した後、エルネスタの棚へ足を運ぶ。
クラリスは説明板の前に立った。
ノアは少し下がる。
ラウルは新しい説明板を読んだ。
安く済ませる道具も必要です。
けれど、痛みが残る仕事には、残る道具が必要です。
その下。
何に困っていたかが分かる棚。
さらに、小さな実演札。
防水ではありません。
濡れた時に、どこが困るかを見る実演です。
ラウルはしばらく黙った。
そして、少しだけ笑った。
「良いですね」
「短いですね」
「ええ」
クラリスは警戒する。
「その後に何かありますか」
「あります」
ラウルは向かいの棚を示した。
「うちは、すぐに困りごとを減らす棚です。あなた方は、困りごとを見つけ直す棚にした」
「はい」
「勝ち方が違う」
「はい」
「それは良い判断です」
ラウルは、そこで少し声を落とした。
「ですが、王都大市では、すぐに困りごとを減らす棚の方が強い日があります」
「分かっています」
「初日は特に」
クラリスは答えられなかった。
ラウルは、勝ち誇るわけではない。
ただ事実を言っている。
「初日、客は忙しい。荷運びは急いでいる。商人は仕入れ先を探している。困りごとを深く見つめる余裕は少ない」
ラウルはエルネスタの棚を見る。
「あなた方の棚は、二日目以降に強くなる可能性があります。声が戻り、困りごとが見え始めた後です」
ノアが口を開いた。
「では、初日はどうしますか」
ラウルは微笑んだ。
「それを、私に聞きますか」
「確認です」
「なるほど」
ラウルは少し考えた。
「初日は、ひとつだけ分かりやすい実演を置くべきです」
「実演なら、置きます」
クラリスは、水差しの横に置いた小さな木片と濡れた布を示した。
ラウルの目が細くなる。
「もう試したのですか」
「はい」
「誰の案です」
クラリスは少しだけ横を見る。
サラが離れた場所で、なぜか棚の影に隠れようとしていた。
「宿の娘のサラさんです」
ラウルはそちらを見て、柔らかく笑った。
「なるほど。南区は、よく見ていますね」
サラは完全に固まった。
クラリスは説明した。
「防水とは言いません。濡れた時に、どこが困るかを見る実演です」
ラウルは濡れた布を見た。
木片の角に沈んだ布。
手首に貼りつきやすくなった荷手当て布。
留め位置で差を見せる手戻し布。
「良いです」
「また短いですね」
「今回は少し長く言います」
ラウルはクラリスを見た。
「この実演は、売るためというより、客に自分の困りごとを思い出させるものです。初日にも足を止める理由になります」
クラリスは息を吐いた。
「なら、使います」
「ええ。使うべきです」
ノアが静かに言った。
「ただし、水を使うなら、周囲の棚への配慮が必要です」
「分かっています」
クラリスは頷いた。
「水受け皿を置きます。実演は一回ごとに布を替えます。濡れ布は箱へ戻さず、別の乾き箱へ」
ラウルは微笑んだ。
「かなり面倒ですね」
「はい」
「ですが、あなた方らしい」
◇
ラウルは帰る前に、もう一度向かいの棚を見た。
「初日は、こちらが取るかもしれません」
クラリスは黙って聞いた。
「ですが、二日目以降、そちらの棚に人が戻るなら、面白いことになります」
「戻らせます」
「強いですね」
「強く言っているだけです」
「それも商売には必要です」
ラウルは笑った。
「では、大市で」
「はい」
彼は去っていった。
向かいの棚には、グランベルの一式。
こちらの棚には、困りごとを見つける説明板。
そして、サラの水差し。
クラリスは、小さな水差しを手に取った。
高価なものではない。
宿で使う、ありふれた道具だ。
だが、今はこれが初日の実演になる。
ノアが言った。
「クラリス様」
「はい」
「今日はここまでです」
「まだ」
「食事です」
クラリスは目を瞬かせた。
ノアが続ける。
「私だけではありません」
クラリスは、自分の手元を見た。
朝から、ほとんど食べていない。
今度はノアが静かに言った。
「あなたの損失を、あなた自身が見落とさないでください」
クラリスは、しばらく黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「……言い返されると、かなり答えにくいですね」
「はい」
「では、戻りましょう」
クラリスは水差しを包み、説明板を畳んだ。
その時、向かいの棚で、グランベルの商会員が仮札を一枚貼り替えた。
クラリスの目が、そこへ吸い寄せられる。
新しい札には、こう書かれていた。
雨の日荷回り一式
初日限定特価
特別価格ではない。
初日限定。
王都大市の初日に、急ぐ荷運びたちを取りに来る札だった。
クラリスは、水差しを握る手に少し力を込めた。
王都大市は近い。
初日は、グランベルが強いかもしれない。
それでも、こちらにはこちらの棚がある。
すぐに困りごとを減らす棚ではない。
何に困っていたかを見つけ直す棚。
その小さな違いに、明日の値段がかかっていた。




