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第25話 広く届ける値段

 翌朝、グランベル商会から返答が来た。


 使いではなかった。


 書簡でもなかった。


 ラウル本人だった。


 王都南区の宿の帳場で、サラが少し緊張した顔をしていた。


「クラリス様、グランベル商会のラウル様がお見えです」


 クラリスは、持っていた説明板の下書きを机に置いた。


 ノアは顔を上げる。


 予想はしていた。


 だが、実際に来られると、部屋の空気が一段変わる。


「通してください」


 サラが頷いて下がる。


 少しして、ラウルが小部屋に入ってきた。


 いつもの柔らかな笑み。


 派手ではない外套。


 足元は、南区の泥を踏んでも困らない靴。


 その後ろには、若い商会員が一人だけ控えていた。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


 ラウルは丁寧に頭を下げた。


「共同売場の件ですね」


 クラリスが言うと、ラウルは微笑んだ。


「はい。向かいの棚になりますので、確認に参りました」


「異議ですか」


「異議ではありません」


 ラウルは即答した。


「良い棚です」


 クラリスは一瞬、ノアを見そうになった。


 昨夜のノアの予想通りだった。


 ラウルは配置図の写しを見た。


「搬入口へ抜ける通路横。入口ほど華やかではない。ですが、荷を持つ者、補充係、実務の商人が必ず通る。手戻し布と捨てない布には、よく合っています」


 褒めている。


 だが、クラリスは警戒を解かなかった。


 ラウルは、良いところを正確に褒める。


 その後で、もっと痛いところを突く。


「ありがとうございます」


「ただ」


 やはり来た。


 ラウルは机の上の説明板を見る。


「この棚なら、もっと広く届けられます」


 クラリスは息を浅くした。


 ノアは黙っている。


 ラウルは手戻し布の見本を見た。


「この布は、良い。戻り札、初回直し、使用後確認。現場の痛みを拾う仕組みまで入っている」


「はい」


「だからこそ、重い」


「重い?」


「価格も、運用も、説明もです」


 ラウルは椅子には座らなかった。


 立ったまま、棚の配置図を指す。


「搬入口を通る荷運び全員が、この布を買えるとは限りません。むしろ多くは、見て、欲しいと思い、それでも買わずに通り過ぎるでしょう」


 クラリスは返せなかった。


 その可能性は、考えていた。


 だが、ラウルの口から言われると、別の重さを持つ。


「あなた方は、価値を削らない」


 ラウルは静かに続ける。


「それは美しい。ですが、削らない価格は、届かない人間を作ります」


 部屋の空気が止まった。


 サラが茶を運ぼうとして扉の外で足を止めている気配がした。


 ノアが口を開いた。


「削れば、作る人が残りません」


「ええ」


 ラウルは頷く。


「その通りです。だから私は、ただ値下げしろとは言いません」


 クラリスはラウルを見る。


「では、何を言いに来たのですか」


「段を作るべきです」


「段」


「はい。すべてを戻り札付き、初回直し付きにする必要はありません」


 ノアの目がわずかに細くなった。


 ラウルはそれを見て、少しだけ笑った。


「もちろん、粗悪品を売れと言っているのではありません」


「では」


「用途を分けるのです」


 ラウルは手戻し布を指した。


「長く使う者には、今の手戻し布。戻り札と初回直し付き。価格も守る」


 次に、捨てない布の束を見る。


「短期の荷運び、臨時雇い、若い馬丁には、簡易版。直しなし。戻り札なし。説明札だけ。価格を下げる」


 クラリスの胸が少し冷えた。


 戻り札なし。


 直しなし。


 それは、ようやく拾い上げた手の痛みを、また見えないものに戻すように聞こえた。


「それでは、手の痛みが拾えません」


「拾えません」


 ラウルはあっさり認めた。


「ですが、何も持たない手よりは守れます」


 クラリスは言葉を失った。


 ラウルは、そこを突く。


 全員に完全な価値を届けることはできない。


 なら、少しでも届く形を作るべきではないか。


 それは、間違っていない。


 だから厄介だった。


     ◇


 ノアは説明板の横に紙を一枚置いた。


「ラウルさん」


「はい」


「簡易版を作る場合、どこを削るかが問題です」


「ええ」


「布の品質は削れません」


「同意します」


「縫製の安全も削れません」


「同意します」


「では、削れるのは、個別直し、戻り札管理、使用後確認、説明時間です」


「はい」


「それらを削ると、価格は下がります」


「はい」


「同時に、痛みを拾う機能が消えます」


「消えます」


 ラウルは淡々と頷く。


 ノアは続けた。


「それを、同じ商品として売ることはできません」


「でしょうね」


「なら、名前を分ける必要があります」


 ラウルの目が、少しだけ楽しげになった。


「さすがです」


 クラリスはノアを見る。


「名前を分ける」


「はい」


 ノアは紙に書いた。


手戻し布

戻り札・初回直し付き

長期使用者向け


 その下に、少し間を空けて書く。


荷手当て布

直しなし

短期・臨時使用向け

使用後の痛みは拾わない


 クラリスは最後の一文で眉を寄せた。


「使用後の痛みは拾わない、まで書くのですか」


「書かなければ、隠したことになります」


 ラウルが小さく笑った。


「厳しいですね」


「価格を下げるなら、何を抜いたかを表示する必要があります」


「その通りです」


 ラウルは否定しなかった。


 ノアはラウルを見た。


「グランベルなら、どう書きますか」


「軽く、早く、安く。荷運びの手を守る簡易布」


「抜いたものは?」


「小さく書くでしょうね。個別直し対象外、と」


「戻り札は?」


「おそらく入れません」


「そこが違います」


 ノアは短く言った。


「抜いたものほど、見える場所に書くべきです」


 ラウルは、少しだけ黙った。


 その沈黙は、負けた沈黙ではなかった。


 考えている沈黙だった。


「ノアさん」


「はい」


「あなたは本当に、売りにくい表示を作りますね」


「売れた後に揉める表示よりは良いです」


「良い商人ではあります」


「売れる商人ではないかもしれません」


「ええ」


 ラウルは笑った。


「だから、面白い」


     ◇


 クラリスは、二つの名前を見ていた。


 手戻し布。


 荷手当て布。


 似ている。


 だが、違う。


 片方は、痛みを拾う布。


 片方は、痛みを拾いきれないが、最初の一枚として届く布。


 簡易版。


 安価版。


 それを作ることは、価値を削ることなのか。


 それとも、価値へ届く入口を作ることなのか。


「私は」


 クラリスは口を開いた。


 ラウルとノアが、同時に彼女を見る。


「戻り札をなくすことに、抵抗があります」


「当然です」


 ラウルは答えた。


「それがエルネスタの強みですから」


「ですが、戻り札があることで買えない人がいるなら、それも見なければならない」


「はい」


 ラウルは頷いた。


「価値を守る価格は、時に入口を狭くします」


 クラリスは、その言葉を受け止めた。


 痛い。


 だが、必要な痛みだった。


 ノアが言う。


「段を作ること自体は、悪くありません」


「本当ですか」


「はい。ただし、上位版を売るために下位版を不便にするのは駄目です」


 ラウルが少し笑う。


「よくある商売です」


「はい。ですが、それは買い手の不便を利用しています」


「では、どうしますか」


 ノアは紙をもう一枚出した。


「下位版は、目的を限定します」


 そう言って書く。


荷手当て布

一日から数日の荷運び用

手首の擦れ軽減

直しなし

戻り札なし

長期使用には手戻し布を推奨


「長く使うなら手戻し布。短期なら荷手当て布。用途で分けます」


 クラリスは頷いた。


「安くするために価値を抜くのではなく、用途が違うから仕様を変える」


「はい」


 ラウルは静かに拍手しそうな顔をしたが、実際にはしなかった。


「良いです」


「短いですね」


 クラリスがつい言うと、ラウルは笑った。


「ノアさんの真似です」


「やめてください」


 ノアが即答した。


 サラが扉の外で小さく笑った気配がした。


     ◇


 捨てない布についても、ラウルは分類を絞るべきだと言った。


 荷台用。


 食材包み用。


 詰め物用。


 細かい分類は、王都大市ではなく後日の注文で拾う。


 ノアは、台所用という名は熱用途と誤解されると止めた。


 クラリスも頷いた。


「誤解で売れるより、正しく弱い方がいい」


 ラウルはクラリスを見る。


 その目が、ほんの少しだけ真剣になる。


「クラリス様」


「はい」


「あなたは、以前より売りにくい領主代行になりましたね」


「褒めていますか」


「半分は」


「残り半分は?」


「商売敵としては、厄介になったという意味です」


 クラリスは少しだけ笑った。


「ありがとうございます、と言うべきでしょうか」


「言わなくて結構です」


     ◇


 話は昼近くまで続いた。


 ラウルは敵ではない。


 だが、味方でもない。


 彼は、より広く届ける方法を知っている。


 だから、何度もクラリスたちの弱点を突いた。


 価格が高い。


 説明が重い。


 運用が細かい。


 大量には回らない。


 それは事実だった。


 だが、ノアも引かなかった。


 品質を削らない。


 抜いたものを隠さない。


 用途を分ける。


 長期使用と短期使用を混ぜない。


 こちらも、事実だった。


 クラリスは、二人の会話を聞きながら、何度も紙を書き直した。


手戻し布

長く使う人へ

戻り札・初回直し付き


荷手当て布

短期の荷運びへ

直しなし・戻り札なし

長く使う場合は手戻し布へ


捨てない布

荷台用

食材包み用

詰め物用


 そこに一文を足す。


安くするためではなく、使う時間と場所に合わせて分けています。


 書いた瞬間、ノアが頷いた。


 ラウルも頷いた。


 二人が同時に頷いたので、クラリスは少しだけ嫌な顔をした。


「なぜ二人とも頷くのですか」


「良い文だからです」


 ノアが言う。


「売れる文だからです」


 ラウルが言う。


「意味が違いますね」


「はい」


「ええ」


 二人が同時に返した。


 クラリスは少しだけ頭が痛くなった。


     ◇


 ラウルは帰り支度を始めた。


 若い商会員が書類をまとめる。


 クラリスは、ふと気になって聞いた。


「ラウルさん」


「はい」


「なぜ、ここまで助言を?」


 ラウルは手を止めた。


「助言に見えましたか」


「違うのですか」


「半分は助言です。半分は確認です」


「確認」


「はい。あなた方が、広く届けるためにどこまで変えられるのかを見に来ました」


 クラリスは答えられなかった。


 ラウルは続ける。


「もし、価値を守ると言いながら、ただ高いものだけを作るなら、グランベルは別の方法で市場を取ります」


 その声は穏やかだった。


 だが、柔らかくはなかった。


「ですが、あなた方が用途別に価格を分けるなら、こちらも少し考えなければならない」


「何をですか」


「安く届けることと、作り手を削らないことの両立です」


 クラリスは息を止めた。


 ラウルは微笑む。


「あなた方が変わるなら、こちらも変わらざるを得ない。商売敵としては、非常に面倒です」


 ノアが静かに言った。


「面倒なら、放っておけばいいのでは」


「嫌です」


 ラウルは即答した。


「面白いので」


 クラリスは、この人は本当に厄介だと思った。


 ラウルは戸口で振り返る。


「それと、ノアさん」


「はい」


「一つだけ、正式に申し上げておきます」


 空気が変わった。


 クラリスは、思わず背筋を伸ばした。


 ラウルは、これまでより少しだけ商人の顔になった。


「グランベル商会へ来ませんか」


 沈黙。


 短い言葉なのに、部屋の中の音が消えた。


 クラリスは、何も言えなかった。


 ノアも、すぐには答えなかった。


 ラウルは続ける。


「報酬は、今の三倍。契約交渉権限、商品査定権限、南区と中区の流通資料への閲覧権限も付けます。あなたが見るべき帳簿も、商品も、人も、ここよりずっと多い」


 クラリスの指が、紙の端を押さえた。


 力を入れすぎて、紙が少し曲がる。


 ノアは静かにラウルを見ていた。


「買い叩くつもりはありません」


 ラウルは言った。


「あなたを安く扱えば、私の目が曇っていることになりますから」


 クラリスは胸の奥が冷えるのを感じた。


 高待遇。


 権限。


 大きな商流。


 ノアの価値を、ラウルは正しく見ている。


 そのことが、なぜか痛かった。


 ノアはしばらく黙った。


 それから、静かに言った。


「好条件ですね」


「はい」


「ですが、今は受けません」


 ラウルは驚かなかった。


「理由を聞いても?」


 ノアは机の上の説明板を見る。


 手戻し布。


 荷手当て布。


 捨てない布。


 半値羊毛布。


 クラリスの震えた文字。


「ここでまだ、値段を戻しきっていないものがあります」


 クラリスは息を止めた。


 ラウルは、ゆっくりと頷いた。


「でしょうね」


「分かっていたのですか」


「ええ」


 ラウルは穏やかに笑った。


「だから、本気の条件を出しました。断られるなら、安い条件では失礼ですから」


 ノアは何も言わなかった。


 クラリスも言えなかった。


 ラウルは頭を下げた。


「では、商売敵として。次は、こちらも本気でいきます」


     ◇


 ラウルが去った後、小部屋にはしばらく沈黙が残った。


 サラが茶器を下げに来る気配もなかった。


 たぶん、帳場で空気を読んでいる。


 クラリスは、曲がった紙の端を見ていた。


 自分が握ったせいだ。


 ノアはその紙に気づいていたが、何も言わなかった。


「ノア」


「はい」


「私は、あなたを安く使っていませんか」


 言ってから、クラリスは少し後悔した。


 聞きたかった。


 でも、聞くのが怖かった。


 ノアはすぐには答えなかった。


「難しい質問です」


「はい」


「報酬だけで言えば、グランベルの条件の方が上です」


 クラリスの胸が沈む。


「はい」


「権限も、資料も、商流も、向こうの方が大きい」


「はい」


「ですが」


 ノアは机の上の半値羊毛布を見た。


「私が今見るべき損失は、ここにあります」


 クラリスは顔を上げた。


「ここに?」


「はい」


「それは、あなたの価値を低く見てよい理由にはなりません」


 ノアは少しだけ黙った。


 クラリスは続けた。


「ラウルさんの条件を聞いて、分かりました。私は、あなたに頼っています。あなたがいてくださることを、当然にし始めていました」


「当然ではありません」


「はい。だから、当然にしません」


 クラリスは紙を一枚取った。


「あなたの報酬と権限を、見直します」


 ノアが少し驚いた顔をした。


「今ですか」


「今です」


「大市前です」


「だからです。忙しさを理由に、あなたの価値を後回しにしたくありません」


 ノアは何か言おうとした。


 だが、言葉を止めた。


 クラリスは震える手で、紙の上に書いた。


ノア・レインズ

契約・価格・売場判断に関する正式助言者

報酬見直し

判断権限の明記

休息時間の確保


 最後の一行を書いた時、ノアが眉を寄せた。


「休息時間」


「入れます」


「今は」


「入れます」


「ですが」


「入れます」


 クラリスはノアを見た。


「あなたの損失を、あなた自身が見落とさないでください」


 ノアは黙った。


 長い沈黙だった。


 やがて、彼は静かに息を吐いた。


「……それは、かなり答えにくいです」


「答えなくて構いません」


 クラリスは紙を押さえた。


「書きますので」


 窓の外で、王都の夕方の音が聞こえた。


 荷車の音。


 食堂の声。


 商人の呼び声。


 王都大市は近い。


 棚も、説明板も、価格も、まだ決めることは多い。


 だが、その前に一つ。


 クラリスは、ノアの名前が書かれた紙を見た。


 半値札を剥がすと言いながら、隣にいる人の値段を見落としてはいけない。

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