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第3話 寒い夜は、売場で待ってくれない

 ガルドが引き出した反物は、店に並べるには地味だった。


 色は深い灰色。


 模様はない。


 端の飾りもない。


 王都の上等な宿に置けば、見栄えで負ける。


 貴族の馬車に積めば、他の布に埋もれる。


 だが、手で押すと、厚みがあった。


 ふくらみではない。


 中身のある厚みだ。


 ガルドは反物を作業台に置いた。


「これは売り物にするつもりじゃなかった」


 ノアが反物を見る。


「理由は?」


「地味すぎる」


 ガルドは短く言った。


「見た目が弱い。王都の商人は手に取らねえ。市場に並べても、華がない」


 クラリスは反物に触れた。


「でも、しっかりしているわ」


「当たり前だ」


 ガルドの声が少しだけ強くなる。


「見た目で負けるだけで、布として負けてるわけじゃねえ」


 ノアの視界に表示が浮かんだ。


【未裁断羊毛反物】

【保温性:高】

【装飾性:低】

【耐久性:高】

【用途候補:寝具/夜番用/馬車宿用】

【市場認識:地味】


 地味。


 それは欠点ではない。


 売る相手を間違えた時だけ、欠点になる。


「これを寝床守り布に使います」


 ノアが言うと、ガルドが目を細めた。


「本気か」


「はい」


「王都の客は買わねえぞ」


「王都の客全部には売りません」


 ノアは反物の端を持った。


「今夜、寒い場所に売ります」


 クラリスが顔を上げる。


「寒い場所?」


「はい。家の寝床。馬車宿。夜番詰所」


 ガルドが眉を動かした。


「夜番?」


「王都南区の夜番詰所が、グランベル商会に追加注文を出しました」


 クラリスが反応する。


「もう?」


「昨夜の知らせでは、そうなる可能性が高いです」


「確定ではないのね」


「確定ではありません」


 ノアは帳簿を開く。


「ですが、ラウルなら取ります」


 クラリスは少しだけ黙った。


「あなた、ラウルのことを高く見ているのね」


「商人としては」


「嫌いではない?」


「敵です」


 ノアは即答した。


「ただ、間違っているとは言い切れません」


 工房の空気が少し変わった。


 ガルドが低く言う。


「あいつの布は、うちの仕事を潰す」


「はい」


「なのに間違ってねえのか」


「今夜寒い人に布を届ける、という点では間違っていません」


 ガルドの眉間に皺が寄る。


「だから厄介です」


 ノアは続けた。


「悪い商品なら、品質で勝てます。悪い商人なら、信用で勝てます。ですが、ラウルは必要なものを必要な価格で置いてくる」


 クラリスが紙を握った。


「だから、こちらも必要な場所を見なければならない」


「はい」


 ノアは反物を見た。


「寝床守り布を作る前に、夜番詰所を見ます」


「王都へ行くの?」


「はい」


 ガルドが鼻を鳴らした。


「また王都か」


「領地の中だけを見ても、王都で負けます」


「王都で勝ちたいのか」


「いいえ」


 ノアは首を振った。


「必要な場所で負けたくありません」


 ガルドは黙った。


 その言葉だけは、少し分かったようだった。


     ◇


 試作の前に、ノアは数字を並べた。


 原毛代。


 糸にする工賃。


 織り時間。


 裁断ロス。


 端処理。


 職人印。


 修繕保証。


 運搬費。


 最低利益。


 工房の作業台の上に、数字の列ができていく。


 クラリスは横で見ていた。


 ミリアもいる。


 ガルドは腕を組んで黙っている。


「一枚布は銀貨七枚」


 ノアは紙に書いた。


「寝床守り布は、そのままだと銀貨四枚半以上になります」


 ミリアの表情がわずかに曇った。


「銀貨四枚半……」


「高い?」


 クラリスが聞く。


 ミリアは言いづらそうに頷いた。


「買える家はあります。でも、昨日の隣の家は迷うと思います」


「そう」


 クラリスは紙を見る。


 銀貨四枚半。


 銀貨七枚よりは低い。


 だが、銀貨一枚半よりはずっと高い。


 ラウルの冬布を前にすれば、まだ重い。


「どこを削れる?」


 クラリスが言った。


 ガルドの目が鋭くなる。


 ノアはすぐに首を振った。


「厚みは削りません」


 ガルドの眉が少しだけ緩む。


「職人印も削りません。修繕保証も残します」


「では、どこを?」


「まず幅です。昨日の家の寝床を見る限り、大人二人用ではなく、子供二人分を優先した幅にする」


 ノアは紙に寸法を書く。


「次に端の仕上げ。飾り縫いは省く。ただし、ほつれ止めは残す」


「飾りを省くのはいい」


 ガルドが言った。


「だが、ほつれ止めを甘くするなら出さねえ」


「甘くしません」


「ならいい」


 ノアは続けた。


「運搬も変えます。王都の商人に卸すのではなく、夜番詰所や馬車宿へ直接持ち込むなら、買い叩きと仲介手数料を避けられます」


 クラリスが目を細める。


「待って。王都の市場には出さないの?」


「出しません」


「では、どこで売るの?」


「売場ではなく、使う場所です」


 ノアは紙を叩いた。


「寒い夜は、売場で待ってくれません」


 クラリスは黙った。


 その言葉を、頭の中で繰り返しているようだった。


「昨日の女将も、古い顧客名簿から来ました。こちらから届ける相手を選んだ結果です。寝床守り布も、同じです」


「必要な場所に持っていく」


「はい」


 ミリアが小さく言った。


「昔のエルネスタみたいに」


 クラリスがミリアを見る。


 ミリアは慌てて口を閉じた。


 だが、クラリスは怒らなかった。


「そうね」


 静かに頷いた。


「昔のエルネスタみたいに」


 ノアは計算を続けた。


「直接販売なら、銀貨四枚」


 ミリアの顔が少し動く。


「まだ高いです」


「はい」


「でも、七枚よりは……」


「分割を入れます」


 ガルドが顔をしかめた。


「分割?」


「半額を先に、残りを冬明けに」


「踏み倒されたらどうする」


「それを避けるために、相手を選びます。夜番詰所、馬車宿、古い顧客、領内の納入記録がある家。信用のある相手に限定します」


 クラリスは考え込む。


「信用で売るのね」


「はい」


「でも、私たちの信用は落ちている」


「だから相手の信用も見る必要があります」


 ノアは帳簿を開いた。


「値段は商品だけにつけるものではありません。取引にもつけます」


 クラリスが小さく苦笑した。


「また難しいことを言う」


「重要です」


「分かっているわ」


 クラリスは古い顧客名簿を開いた。


「夜番詰所。王都南区、北門前、東倉庫街……昔の取引が少し残っている」


 ガルドが記憶を探るように目を細めた。


「南区の夜番詰所なら、昔、厚手の膝掛けを出したことがある」


「いつですか」


「十年は前だな。冬の見回りで凍えたって話で、急ぎで作った」


 クラリスが名簿を見る。


「記録があるわ」


 ノアは頷いた。


「なら、最初に見るべきです」


「売り込みに行く?」


「いいえ」


 ノアは短く言った。


「見に行きます。売る前に」


 クラリスはもう驚かなかった。


 ただ、少しだけ笑った。


「あなた、本当に売場で待たないのね」


「待っていたら、ラウルの布が先に届きます」


     ◇


 王都南区の夜番詰所は、日が落ちる前から冷えていた。


 石造りの小さな詰所。


 壁は厚いが、隙間風が入る。


 扉の下から冷気が這い込む。


 窓は小さく、布でふさいでいるだけの箇所もある。


 詰所の前では、夜番の男たちが交代前の支度をしていた。


 槍。


 鈴。


 油灯。


 薄い外套。


 そして、グランベル商会の冬布が数枚、木箱の上に積まれていた。


 粗い。


 軽い。


 だが、確かにある。


 夜番の一人がそれを肩に掛けて、息を吐いた。


「ないよりはましだな」


 ノアは、その言葉を聞いた。


 ないよりはまし。


 安布にとって、最強の売り文句だった。


 クラリスも聞いた。


 顔を伏せなかった。


 ミリアは隣で、グランベルの冬布を見ていた。


「本当に使ってる……」


「はい」


 ノアは頷いた。


「売れた後を見る必要があります」


「売れた後?」


「はい。商品は買われて終わりではありません。使われた場所で、本当の評価が出ます」


 クラリスは詰所へ向かった。


 夜番の男が気づき、少し警戒する。


「何でしょうか」


 クラリスは一礼した。


「エルネスタ領のクラリスです。以前、こちらに羊毛布を納めていました」


 男の表情が微妙に変わった。


 覚えている。


 だが、良い記憶だけではない。


「エルネスタの方か」


 ミリアが息を呑んだ。


 その言い方には、王都での噂が混じっていた。


 クラリスは動かなかった。


「はい。エルネスタ領の者です」


「今日は売り込みですか」


 男が木箱の上の布を軽く叩いた。


「うちは、ひとまず足りています。グランベルが安く入れてくれたので」


「売り込みではありません」


 クラリスは言った。


「見に来ました」


「何をです」


「夜番の寒さを」


 男は怪訝そうな顔をした。


「寒いに決まっています」


「はい。だから、どこが寒いのかを見に来ました」


 男はしばらくクラリスを見ていた。


 それから、少しだけ肩をすくめる。


「見てもらったところで、寒さが減るわけじゃありませんが」


 クラリスは一瞬だけ詰まった。


 だが、ノアが前に出るより先に答えた。


「減りません。だから、見た後で作ります」


 夜番の男は黙った。


 ノアは、その横に立つ若い夜番を見た。


 グランベルの冬布を肩に掛けているが、腰までは覆えていない。


 座ると膝が出る。


 立つと肩がずれる。


 軽いため、風でめくれる。


 保温性は低い。


 だが、肩に掛けるだけなら十分に見える。


【グランベル簡易冬布】

【価格:銀貨一枚半】

【保温性:低】

【即時購入性:高】

【使用評価:ないよりはまし】

【夜番適性:不足】


 ノアは若い夜番に聞いた。


「その布で、夜を越せますか」


「越せるかどうかじゃありません」


 若い夜番は苦笑した。


「これしかないなら、これで越すんです」


 ノアは黙った。


 その言葉も、重かった。


 クラリスが小さく息を吸う。


 夜番の年長者が言った。


「昔のエルネスタの布は重かった」


「重いのは、悪かったですか」


 クラリスが聞く。


 年長者は肩をすくめる。


「歩き回る時は邪魔です。ですが、詰所で仮眠を取る時は良かった。膝から腹まで温かい。外から戻った者を包むには良かった」


「では、夜回り用と仮眠用は違う?」


「違います」


 年長者は言った。


「歩く時に分厚い布は邪魔です。ですが、戻ってきて座った時、薄い布は役に立ちません」


 ノアは帳簿に書く。


 夜回り用。


 仮眠用。


 用途が違う。


 同じ冬布では駄目。


 ミリアがグランベルの布を見た。


「これは、どちらですか」


 若い夜番が布を引っ張る。


「どちらにも少し足りません。でも安い。自分でも買えます」


 年長者が頷く。


「詰所の予算でも数を揃えられる。そこは助かります」


 ノアは顔を上げた。


「数が必要ですか」


「必要です」


「何枚?」


「最低でも十。できれば十五」


 クラリスの表情がわずかに動いた。


 十五枚。


 エルネスタの一枚布なら、予算が合わない。


 寝床守り布でも、まだ厳しい。


 ノアは聞く。


「全員分必要ですか」


「全員分というより、戻ってきた者がすぐ使える分です。濡れる時もある。汚れる時もある。干している間の替えもいる」


 ノアは頷いた。


 ラウルの強さが、また一つ見えた。


 安いだけではない。


 数を揃えられる。


 寒い現場では、それが強い。


「昔のエルネスタ布は、なぜ注文が止まったのですか」


 クラリスが聞いた。


 年長者は少し気まずそうにした。


「高かった」


「はい」


「あと、頼みづらくなりました」


「頼みづらく?」


「王都で悪く言われ始めたでしょう。エルネスタの布を使っていると、余計なことを言う者もいました」


 クラリスの指が小さく動いた。


「それに」


 年長者は言いにくそうに続けた。


「前に半値で出したと聞いて。では、まともな値で買っていた我々は何だったのか、となりまして」


 クラリスの顔がはっきり痛んだ。


 だが、目を逸らさなかった。


「申し訳ありません」


 年長者は困ったように頭をかいた。


「ここで謝られても、こちらも困ります」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「謝罪だけでは、寒さは減りません」


 ノアはその言葉を帳簿に書いた。


 クラリスが横目で見る。


「今のも書くの?」


「重要です」


「そう」


 クラリスは年長者を見る。


「夜回り用と仮眠用。両方が必要なのですね」


「そうですね」


「では、まず仮眠用を見直します。歩くためではなく、戻った人を温める布を」


 年長者は疑わしそうに見る。


「高いなら買えませんよ」


「分かっています」


 クラリスは答えた。


「だから、勝手に値段を決めずに来ました」


 ノアは少しだけ目を伏せた。


 この人は、ちゃんと昨日から進んでいる。


 数字ではなく、手順で。


     ◇


 詰所の隅に、古い布が一枚残っていた。


 汚れている。


 端は擦り切れている。


 何度も畳まれ、何度も濡れ、何度も乾かされた跡がある。


 だが、捨てられてはいなかった。


 年長者がそれを持ってくる。


「これが昔のエルネスタの布です」


 ガルドは来ていない。


 だが、ノアはその布にガルドの仕事を見た。


 厚みは落ちている。


 縁も傷んでいる。


 だが、芯がまだ残っている。


【旧エルネスタ夜番布】

【使用年数:長期】

【保温性:低下】

【耐久残存:中】

【修繕可能性:あり】

【信用残存:微量】


 信用残存。


 微量。


 ノアはその表示を見て、静かに息を吐いた。


 ゼロではない。


 それだけで、まだ戦える。


 クラリスは古い布に触れた。


「捨てなかったのですね」


 年長者は顔をそらした。


「捨てるには惜しかっただけです」


 若い夜番が笑う。


「寒い時、結局これの取り合いになるんですよ。新しい布より、こっちの方が温かいって、みんな知ってるんです」


「おい」


「だって本当でしょう」


 年長者は黙った。


 クラリスは、その布を両手で持った。


 汚れも、擦り切れも、避けなかった。


「修繕させてください」


 年長者は眉を寄せる。


「金は出せませんよ」


「今回はいただきません」


 ノアがすぐに口を開こうとした。


 無料は危険だ。


 無償は誰かが払っている。


 言わなければならない。


 だが、クラリスが先に続けた。


「無償で済ませるつもりはありません。これは、過去の取引を確認するための修繕です。どこが傷み、どこが残り、何が必要かをこちらが学ばせてもらう。その対価として、一度だけ直します」


 ノアは口を閉じた。


 言おうとしたことを、先に言われた。


 しかも、自分より人に届く形で。


 年長者は少し考えた。


「……なら、預けます」


「ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらかもしれませんが」


 年長者は、古い布をクラリスに渡した。


 クラリスの腕に、重さが乗る。


 それは銀貨ではなかった。


 十年分の寒さと、まだ残っていた信用だった。


     ◇


 帰りの馬車で、クラリスは古い夜番布を膝に置いていた。


 ミリアはその隣で、黙って布の端を見ている。


 ノアは帳簿を開いたままだった。


 ページには、夜番詰所で聞いた言葉が並ぶ。


 ないよりはまし。


 これしかないなら、これで越す。


 夜回り用と仮眠用は違う。


 数が必要。


 頼みづらくなった。


 古いエルネスタ布は、まだ取り合いになる。


 ノアはその下に、新しい欄を作った。


【寝床守り布:修正案】

【用途:仮眠用/戻った夜番の保温】

【不要:装飾/携帯性】

【必要:厚み/膝から腹まで覆う幅/複数枚運用】

【販売先:詰所単位】

【価格課題:枚数対応】


 クラリスが横から覗く。


「詰所単位?」


「はい。個人に一枚ずつ売るのではなく、詰所で使い回す前提です」


「つまり、家用の寝床守り布とは別?」


「分けるべきです」


 ノアは頷いた。


「家用と詰所用では、求められる形が違います」


「また商品が増えるのね」


「増やしすぎると管理不能になります」


「ならどうするの」


「まずは二系統です。家用の寝床守り布。詰所用の夜戻り布」


「夜戻り布?」


 ミリアが顔を上げる。


 クラリスも少し考えた。


「夜回りから戻った人を温める布、という意味?」


「はい」


「悪くないけれど、少し地味ね」


「商品も地味です」


「そこは堂々と言わないで」


 ミリアが少し笑った。


 クラリスも少しだけ笑った。


 だが、すぐに表情を戻す。


「価格は?」


「家用は銀貨四枚を切りたい。詰所用は一枚あたり銀貨三枚台。ただし、三枚以上まとめての修繕契約込み」


「グランベルは銀貨一枚半よ」


「勝てません」


 ノアは即答した。


「価格だけでは」


 クラリスは古い布を見た。


「でも、残っていた」


「はい」


「グランベルの布は、十年後に残る?」


「分かりません。ただ、価格と作りを見る限り、難しいと思います」


「そこが理由になる?」


「なります」


 ノアは帳簿を閉じた。


「ただし、今夜寒い人には、十年後の話だけでは足りません」


 クラリスは頷いた。


「だから、今夜に届く形も必要」


「はい」


 馬車の外では、王都の灯りが遠ざかっていく。


 冬の前の風が、窓の隙間から入った。


 クラリスは膝の上の古い布を、少しだけ抱え直した。


「寒さは、待ってくれないのね」


「はい」


 ノアは答えた。


「売場で待っている間にも、誰かが寒いです」


     ◇


 エルネスタ領の工房に戻る頃には、外は暗くなっていた。


 ガルドはまだ作業場にいた。


 炉の火は落ちていない。


 作業台には、昼に引き出した反物が広げられている。


 ガルドはクラリスが抱えている古い夜番布を見た。


「……うちのだな」


「分かるのですか」


 クラリスが聞く。


「分かる」


 ガルドは布を受け取った。


 端を見る。


 縫い目を見る。


 擦り切れた箇所を指で押す。


「昔の俺の師匠の仕事だ」


 工房が静かになった。


 ガルドの声が、少しだけ低くなる。


「まだ残ってやがったか」


 ノアは黙っていた。


 ミリアも、クラリスも何も言わない。


 ガルドは古い布を作業台に置いた。


 それから、グランベルの冬布を一枚取り出した。


 詰所で譲ってもらったものだ。


 銀貨一枚半。


 粗い。


 軽い。


 だが、今夜使われている布。


 ガルドはそれを手に取った瞬間、顔をしかめた。


「薄い」


「はい」


「だが、軽い」


「はい」


「数は揃う」


「はい」


 ガルドはしばらく黙った。


 そして、悔しそうに言った。


「嫌な布だな」


 ノアが顔を上げる。


「悪い布ではなく?」


「ああ」


 ガルドは吐き捨てるように言った。


「悪い布なら、笑えた。だが、これは嫌な布だ」


「理由は?」


「役に立つ」


 その一言で、工房の空気が変わった。


「薄い。長持ちはしねえ。俺ならこんな端処理はしねえ。だが、今夜肩に掛けるなら、役に立つ」


 ガルドは古い夜番布と、グランベルの冬布を並べた。


「だから腹が立つ」


 クラリスは静かに言った。


「なら、こちらも役に立つものを作りましょう」


「分かってる」


 ガルドは昼の反物を引き寄せた。


「夜戻り布、だったな」


 ノアは少し驚いた。


「聞いていたのですか」


「お前らが帰る前に、ミリアが少し話した」


 ミリアが小さく肩をすくめる。


「すみません」


「謝るな。話せと言ったのは俺だ」


 ガルドは反物に手を置いた。


「歩く布じゃねえ。戻ったやつを包む布。なら、重くていい。厚くていい。だが、畳みやすくしろ。詰所で雑に扱われても、端が死なないようにする」


 ノアはすぐに帳簿を開いた。


「寸法は」


「お前が決めるな」


 ガルドが睨む。


 ノアは筆を止めた。


「はい」


「夜番の古い布を測る。それから決める」


「分かりました」


 クラリスが小さく頷く。


「勝手に決めない」


「そうだ」


 ガルドは古い夜番布を広げた。


「これは直す。直した上で、どこが残ったかを見る」


 それから、グランベルの冬布を見た。


「こいつは真似しねえ」


 ノアは聞いた。


「参考には?」


「する」


 ガルドは不機嫌そうに言った。


「そこが余計に腹立つ」


 ミリアが少しだけ笑う。


 クラリスも、口元を緩めた。


 ガルドはそれを見て、さらに不機嫌な顔をした。


「笑ってる暇があるなら手伝え。夜は短くねえぞ」


     ◇


 その夜、工房の灯りは遅くまで消えなかった。


 古い夜番布の寸法を測る。


 擦り切れた箇所を記録する。


 グランベルの冬布の軽さを見る。


 エルネスタの反物の厚みを見る。


 折る。


 重ねる。


 膝に掛ける。


 肩に掛ける。


 座る。


 立つ。


 ガルドが怒る。


 ノアが数字を書く。


 クラリスが用途を書き直す。


 ミリアが「それだと子供には重いです」と言う。


 またやり直す。


 派手なことは何もなかった。


 売上もない。


 客もいない。


 ただ、商品が少しずつ、誰かの寒さに近づいていった。


 ノアの視界に、表示が浮かぶ。


【新商品候補:夜戻り布】

【用途:夜番詰所/仮眠用/帰還直後の保温】

【競合:グランベル簡易冬布】

【価格優位:なし】

【耐久優位:あり】

【信用回復可能性:微増】


 価格優位なし。


 それでも、可能性はある。


 ノアは表示を見ながら、帳簿に一行だけ書いた。


 安さで勝てないなら、寒さの戻る場所で勝つ。


 その横で、クラリスが小さく呟いた。


「売場で待たない。寒い場所に行く」


 ノアは顔を上げた。


「はい」


「それが、次の売り方ね」


「はい」


 ガルドが作業台の向こうから言った。


「まだ売り方じゃねえ。布ができてから言え」


「はい」


 ノアとクラリスが同時に返事をした。


 ミリアが笑った。


 工房の外では、風が鳴っていた。


 王都南区では、銀貨一枚半の冬布が今夜も誰かの肩に掛かっている。


 それは、確かに強い。


 だが、エルネスタの工房でも、一枚の布がようやく形を変えようとしていた。


 売場で待つためではない。


 寒い場所へ、こちらから行くために。

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