幕間 善意にも残数がある
雨は、王都の東にも降っていた。
石畳を叩く雨音。
荷車の車輪が泥を跳ねる音。
遠征帰りの冒険者たちが、濡れた外套を払いながら宿へ入っていく。
勇者パーティの馬車も、東門近くの厩舎に戻っていた。
荷台には、濡れた箱がいくつも積まれている。
保存食。
薬草。
包帯。
聖水。
矢。
魔術紙。
触媒布。
どれも、出発前より少し減っていた。
それは当然だった。
遠征に出れば、物資は減る。
問題は、減り方だった。
「包帯が、思ったより減っています」
補給係マイルは、帳面を抱えたまま言った。
声には疲れがあった。
まだ若い。
真面目で、手を抜かない。
だが、濡れた荷箱の前で立ち尽くす姿は、遠征前より少し小さく見えた。
聖女リーナは、治療用の箱を開けた。
中の包帯は、数だけ見ればまだ残っている。
だが、端が濡れたもの。
泥がついたもの。
一度開けて、きちんと巻き直されていないもの。
使える状態のものは、思ったより少なかった。
「これは、治療には使えません」
リーナは一本を持ち上げた。
白いはずの布の端が、薄く茶色い。
弓手エリカが顔をしかめる。
「泥?」
「おそらく」
「洗えば?」
「洗えば、清潔に戻るとは限りません」
エリカは黙った。
軽い傷なら、巻けるかもしれない。
だが、深い傷には使えない。
雨に濡れた遠征では、そういう小さな差が増える。
魔術師セレスは、触媒袋を開いていた。
薄い魔術紙の束を指先でめくり、眉を寄せる。
「こっちも湿っています」
マイルが慌てて振り返った。
「触媒袋は、二重にしました」
「外袋はね。内側の紙の包みが弱い」
「でも、店では湿地にも使えると」
「店は湿地で戦わない」
セレスの声は冷たかった。
責めるというより、疲れていた。
マイルの顔が青くなる。
「すみません」
「謝っても乾かない」
その言葉に、リーナはわずかに眉を動かした。
セレスも、しまったという顔をした。
マイルは唇を結び、帳面に何かを書こうとする。
手が少し震えていた。
勇者アレス・ヴァンガードは、厩舎の入口に立っていた。
白い外套は濡れている。
腰には、よく磨かれた量産の剣。
戦闘で目立つ傷はない。
今回の遠征も、魔物討伐そのものは成功した。
村道を荒らしていた狼型の魔物を三体仕留めた。
商人の荷馬車も通れるようになった。
戦いだけを見れば、勇者パーティは勝った。
だが、荷箱の前では誰も笑っていない。
「マイル」
アレスが言った。
「次からは、包みを変えろ」
「はい」
「セレス。使えない魔術紙は?」
「乾かしても精度は落ちます。結界用には使いたくありません」
「攻撃術式には?」
「暴発はしません。でも、術式の立ち上がりが鈍る」
「なら、補助用に回せ」
「分かりました」
アレスは判断を下す。
早い。
戦場では、その早さが人を救う。
だが、リーナは包帯を見ていた。
泥のついた端。
湿った束。
まだ残っているように見える箱。
使えるものと、使えないもの。
それを分けなければならない。
以前なら、ここでノアが黙って箱を分けていた。
使える包帯。
洗えば雑用に回せる布。
捨てるべきもの。
次回の補充量。
包み方。
保管場所。
雨天時の持ち出し順。
それを、嫌われるくらい細かく言っていた。
善意に水を差すような顔で。
リーナは、濡れた包帯を握った。
違う。
水を差していたのではない。
水に濡れた後のことを、見ていただけだ。
◇
その日の夕方、勇者パーティは救護院へ寄った。
遠征で助けた荷馬車の御者が、一人、腕を怪我していたからだ。
傷は浅い。
だが、雨で体が冷え、熱が出始めている。
リーナは治癒術をかけ、薬草湯を飲ませた。
救護院の中には、ほかにも患者がいた。
咳をする老人。
足を捻った少年。
雨で冷えた母子。
リーナが聖女だと知ると、救護院の院主が深く頭を下げた。
「聖女様、できればこちらの子にも」
リーナは少年を見る。
足首が腫れている。
治せる。
今なら、治癒術で痛みも引く。
母親が、すがるようにリーナを見ていた。
リーナは、すぐに手を伸ばしかけた。
そこで、止まった。
聖水。
残り二本。
治癒術に使う触媒。
湿ったものは使いたくない。
魔力も、今回の遠征で減っている。
この後、東門近くの宿で、勇者パーティの負傷者確認もある。
善意だけで配れば、次に救える者が減ります。
クラリス・エルネスタの声が、記憶の底から上がってきた。
冷たい言葉だと思っていた。
救いを待つ人の前で、なぜそんなことを言えるのかと思っていた。
今なら、その言葉の端が少しだけ分かる。
だが、分かることと、目の前の子を見ないことは違う。
「痛みを少し抑えます」
リーナは言った。
院主が顔を上げる。
「治してくださるのですか」
「完全には治しません」
母親の顔がこわばった。
リーナの胸が痛む。
「腫れを引かせる処置をします。あとは固定してください。明日、熱が出るようなら、もう一度診ます」
「どうして全部治してくださらないのですか」
母親の声は小さかった。
責める声ではない。
だから、余計に苦しかった。
リーナは答えに詰まった。
善意には残数がある。
そう言いかけて、飲み込む。
そんな言い方では届かない。
ノアなら数字で言っただろう。
クラリスなら硬い言葉で言っただろう。
では、自分はどう言えばいい。
「このあと、熱の高い方と、傷が深い方に力を残したいのです」
リーナはゆっくり言った。
「あなたのお子さんを軽く見ているのではありません。今、必要な分だけ使います」
母親は泣きそうな顔で少年を抱いた。
「……分かりました」
リーナは膝をつき、少年の足首に手を当てた。
白い光が薄く灯る。
腫れが少し引く。
痛みが弱まる。
少年の顔から、こわばりが少し消えた。
「ありがとう、聖女様」
母親が頭を下げる。
リーナは頷いた。
だが、胸は晴れなかった。
助けた。
でも、全部は助けなかった。
それが正しかったのか、まだ分からない。
ただ、聖水は一本残った。
触媒も、少し残った。
その残ったものが、次の誰かを救うかもしれない。
そう思うしかなかった。
◇
救護院を出た後、アレスは雨宿りの軒下でリーナを見た。
「珍しいな」
「何がですか」
「君が、治せる傷を残した」
リーナは手を握った。
「残したのではありません。明日も診ます」
「同じことだ」
その言い方に、少し胸が痛んだ。
だが、アレスの顔に怒りはなかった。
ただ、分からないという顔だった。
「理由は」
「力と聖水を残すためです」
「足りなかったのか」
「足ります。でも、全部には足りません」
アレスは黙った。
雨が軒を叩く。
通りの向こうで、荷馬車がゆっくり進んでいる。
リーナは言った。
「以前、ノアさんが似たようなことをしていました」
アレスの表情が少し硬くなる。
「また、その名か」
「はい」
リーナは目を逸らさなかった。
「私は、あの人が善意に数字をつけていると思っていました」
「違うのか」
「今は……善意が続くように、嫌われる役をしていたのかもしれないと思っています」
アレスは雨を見る。
腰の量産剣に手を置いた。
「彼の言っていたことが、すべて間違いだったとは言わない」
前にも聞いた言葉だった。
だが、そこから先はまだ出ない。
リーナは静かに言った。
「それでも、私たちは彼を追い出しました」
アレスの目が、少しだけリーナに向いた。
雨音が強くなる。
「リーナ」
「はい」
「今、それを言っても戻らない」
「分かっています」
「なら、進むしかない」
「進むために、見直す必要があります」
アレスは口を閉じた。
戦場なら、彼は迷わない。
敵が前にいるなら、剣を振る。
人が倒れているなら、守る。
けれど、こういう損失は前から来ない。
箱の中。
帳面の端。
濡れた包帯。
使わなかった聖水。
治しきらなかった傷。
見えにくい場所から、後になって効いてくる。
「マイルが限界です」
リーナは言った。
「彼は真面目です。でも、数量だけを見ています。用途と状態まで見るには、経験が足りません」
「補佐をつける」
「誰を?」
アレスはすぐには答えなかった。
勇者パーティには、戦える者はいる。
魔術を使える者もいる。
弓を射る者も、治す者もいる。
だが、補給を見られる者はいない。
ノアがいたからだ。
ノアに任せていたからだ。
その空白が、今さら形になっている。
アレスは低く言った。
「セレスに一部見せる。魔術紙と触媒だけでも」
「包帯と薬草は私が見ます」
「矢はエリカに見せる」
「保存食は?」
アレスは黙った。
保存食。
誰の役でもない。
だから、誰も最後まで見ない。
ノアが見ていたものだ。
「……俺が見る」
アレスは言った。
リーナは少し驚いた。
「あなたが?」
「俺が隊を率いている」
「はい」
「なら、誰の役でもないものは、俺の役だ」
その言葉は、少し不器用だった。
だが、逃げではなかった。
リーナは深く頷いた。
「お願いします」
アレスは雨の向こうを見た。
「彼なら、保存食の何を見る」
リーナは考えた。
「人数と日数」
「それは分かる」
「濡れていないか。袋が破れていないか。誰が先に食べるべきか。移動中に取り出せる位置か。熱のある人でも食べられるものがあるか」
アレスは眉を寄せた。
「多いな」
「多かったんです」
リーナは言った。
「私たちが見ていなかっただけで」
◇
夜、宿の一室で、マイルは帳面を広げていた。
保存食の数。
包帯の数。
聖水の残り。
薬草。
魔術紙。
矢。
そこに、新しい欄が増えている。
状態。
用途。
優先。
確認者。
セレスが魔術紙の欄に細かく書き込む。
「これは結界用不可。攻撃補助なら可」
エリカが矢の束を見て、湿った羽根に印をつける。
「これは雨の日に使いたくない。訓練用に回して」
リーナは包帯を分ける。
「清潔。軽傷用。雑用。廃棄」
マイルは慌ただしく書く。
アレスは保存食の袋を開けていた。
ぎこちない手つきだった。
黒パン。
乾燥肉。
豆。
塩。
袋の口。
湿り。
取り出しやすさ。
アレスは眉間に皺を寄せる。
「……これは、戦うより面倒だな」
セレスが小さく笑った。
「今さらですか」
「今さらだ」
アレスは認めた。
部屋の空気が少しだけ変わる。
笑いではない。
だが、張り詰めたものがわずかに緩んだ。
マイルが小さく言った。
「すみません。僕が全部見られれば」
アレスは保存食の袋を閉じた。
「違う」
マイルが顔を上げる。
「全部を一人で見る仕組みにしていたのが間違いだ」
その言葉に、リーナは息を止めた。
ノアも、一人で見ていた。
誰も手伝わなかった。
それを、当然だと思っていた。
アレスは続けた。
「ノアがいた時も、そうだったのだろう」
誰も答えなかった。
雨の音だけが聞こえる。
アレスは量産剣を壁に立てかけ、保存食の袋に印をつけた。
「次の遠征から、物資ごとに確認者を置く。マイルは全体を見る。全部は背負うな」
マイルの目が揺れた。
「はい」
リーナは、清潔な包帯を別の袋に入れながら、胸の奥が重くなるのを感じた。
少しずつ、ノアの穴が見えていく。
見えれば見えるほど、あの日の沈黙が重くなる。
エリカも、何も言わなかった。
セレスも、目を伏せていた。
それぞれが、あの日に目を逸らしたことを覚えている。
アレスは保存食の袋を見たまま言った。
「彼の代わりにはならない」
リーナは顔を上げる。
「だが、彼が見ていたものを、見ないまま進むわけにはいかない」
それは、謝罪ではなかった。
後悔でも、まだ足りない。
だが、初めてアレスが「ノアの役」を言葉にした瞬間だった。
◇
深夜、リーナは一人で救護院へ戻った。
少年の熱を確認するためだった。
雨は弱まっている。
王都の石畳は濡れ、街灯の光をぼんやり返している。
救護院では、少年が眠っていた。
熱は上がっていない。
足首の腫れも、少し引いている。
母親が小声で礼を言った。
「聖女様、ありがとうございました」
リーナは首を振った。
「明日の朝、もう一度様子を見ます」
「はい」
その時、隣の寝台で、老人が咳き込んだ。
院主が慌てて薬草湯を持ってくる。
リーナは、残していた聖水を見た。
一本。
使うべきか。
残すべきか。
迷う。
迷えるだけ、前よりは見えている。
そう思うことが、少し怖かった。
リーナは老人の胸に手を当て、状態を確かめた。
聖水は使わない。
治癒術を薄くかけ、薬草湯を飲ませる。
朝まで持つ。
ただし、悪化すれば使う。
院主にそう伝える。
院主は頷いた。
「分かりました」
リーナは聖水をしまった。
胸の奥に、小さな痛みが残る。
救わなかったのではない。
今使わなかった。
その違いを、自分に言い聞かせる。
救護院を出る時、雨はほとんど止んでいた。
夜明け前の空は、まだ暗い。
リーナは濡れた道を歩きながら、ふと王都南区の方角を見た。
あちらでは、クラリス・エルネスタが領地の布を売り直しているという噂を聞いた。
悪女。
冷たい令嬢。
聖女を妬んだ女。
そう呼ばれた人。
けれど今、リーナの中でその言葉は少しずつ違って見え始めていた。
善意だけで配れば、次に救える者が減ります。
あの時は、嫌な言葉だった。
今も、好きな言葉ではない。
でも、完全には否定できない。
リーナは小さく息を吐いた。
「クラリス様」
声は雨上がりの道に消えた。
いつか、話さなければならない。
そう思った。
ノアのことも。
救護院のことも。
あの日、目を合わせなかったことも。
東の空が、わずかに白み始めていた。
善意には、残数がある。
けれど、残すだけでは救えない。
リーナはその両方を抱えたまま、宿へ戻った。




