第13話 棚を取られる前に
朝、ノアが執務室へ入ると、クラリスはすでに起きていた。
机の上には、三枚の紙が並んでいる。
一枚目。
手戻し布の組合備品案。
二枚目。
返却札と置き場箱の図。
三枚目。
荷馬車組合から届いた、まだ封を切っていない書簡。
クラリスは、その三枚目を見ていた。
「早いわね」
「グランベルですか」
「ええ」
クラリスは書簡を差し出した。
差出人は、荷馬車組合の年配の男ではない。
組合の書記役だった。
文章は短い。
グランベル商会より、雨天備品棚の提案あり。
内容確認のため、本日昼前に組合へ来られたし。
エルネスタ側の提案もあるなら持参されたし。
ノアは文面を読んだ。
「棚を取りに来ましたね」
「ええ」
クラリスは静かに頷いた。
「昨日の夜には、もう動いていたのね」
「はい」
「早いわ」
「はい」
「嫌になるくらい」
「はい」
クラリスは、二枚目の図面を指で押さえた。
返却札。
置き場箱。
手戻し布三本。
雨の日だけ貸し出す想定。
まだ価格は出ていない。
耐用回数も未確認。
修繕頻度も未確認。
つまり、こちらはまだ未完成だ。
だが、グランベルは違う。
荷布。
防水袋。
乾燥紐。
荷札。
すでに商品がある。
棚に並べられる。
今すぐ提案できる。
「ノア」
「はい」
「今日、勝てる?」
ノアはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、クラリスには分かった。
「不利なのね」
「はい」
「理由を」
「商品数。価格。納品速度。見た目の分かりやすさ。組合側から見ると、グランベルの方が棚を埋めやすいです」
「私たちは?」
「手戻し布だけでは、棚になりません」
クラリスは目を伏せた。
厳しい。
だが、正しい。
こちらは一本の布を丁寧に見ている。
グランベルは棚全体を見ている。
ラウルの言葉が聞こえるようだった。
彼らが一本の布を丁寧に作る間に、私はその布が置かれる棚を取りに行く。
「では、こちらも棚を作る?」
「同じ棚では負けます」
「同じ棚では」
「はい」
ノアは紙を一枚取った。
「グランベルは、買う棚を作ります。商品を並べる棚です」
「私たちは?」
「戻る棚を作ります」
クラリスは顔を上げた。
「戻る棚」
「はい。使った後に戻ってくる場所です」
ノアは淡々と言った。
「荷馬車組合で問題になっているのは、購入だけではありません。濡れた布が混ざる。体用と荷用が混ざる。手用が消える。置き場がない。戻らない。乾かない」
クラリスは図面を見る。
置き場箱。
返却札。
雨天時貸出。
棚を商品置き場として見るなら、グランベルが強い。
だが、棚を戻る場所として見るなら、まだ戦える。
「商品を並べる棚ではなく、使い終わったものが戻る棚」
「はい」
「買わせる棚ではなく、回す棚」
「はい」
クラリスは、少しだけ息を吸った。
「それなら、父の帳簿にもつながるわね」
「はい」
「誰が、どこで、何に困っていたか。その次は、使ったものがどこへ戻るか」
「はい」
ノアは帳簿を開いた。
「提案名は?」
クラリスは考えた。
雨天備品棚。
それではグランベルと同じだ。
もっと、こちらの意図が出る名前。
「雨戻り棚」
ノアの筆が止まった。
「雨戻り棚」
「雨の日に使う道具が、雨のあとに戻ってくる場所」
「良いと思います」
「普通に?」
「かなり」
クラリスは少しだけ笑った。
「では、それで行きましょう」
◇
工房では、ガルドが雨戻り棚の話を聞いて、露骨に顔をしかめた。
「棚まで作るのか」
「箱です」
ノアが言った。
「同じだ」
「違います」
「客から見りゃ同じだ」
ガルドは作業台の端に置かれた木箱を指で叩いた。
古い端材で作られた、簡単な箱。
まだ蓋もない。
側面に穴が二つ空いている。
濡れた布をそのまま入れると蒸れるため、風を通すための穴だった。
「布屋が箱まで作る。いよいよ何屋か分からねえな」
「戻ってこないと修繕できません」
クラリスが言うと、ガルドは黙った。
「手戻し布は、使って終わりではありません。戻って、乾いて、直して、また使えるかを見る必要があります」
「……だから箱か」
「はい」
ミリアが木箱の中を覗き込んだ。
「仕切りを入れた方がいいと思います」
ガルドがミリアを見る。
「なぜだ」
「濡れたものと乾いたものが混ざると、また分からなくなります」
「札をつける」
「札だけだと、忙しい時に見ない人がいます」
「お前、言うようになったな」
ミリアは少しだけ目を伏せた。
「リサさんが、置き場がないと消えると言っていました」
「リサが言ったなら、そうだろうな」
ガルドは木箱を覗いた。
「仕切りは三つだ。乾き、使用後、修繕待ち」
ノアが帳簿に書く。
「三分類」
「あと、臭いの強いやつは別だ」
「臭い欄を作ります」
「欄にするな。箱を分けろ」
クラリスが少し笑いそうになった。
ガルドは本気で嫌そうな顔をしている。
だが、手は動いていた。
木片を取り、仕切りの位置を測っている。
「ガルドさん」
「あ?」
「棚まで作ること、嫌ですか」
「嫌だ」
即答だった。
「だが、必要だ」
ガルドは木箱を軽く叩いた。
「戻す場所がねえ布は、最後は床に落ちる。床に落ちた布は、誰かが足で寄せる。足で寄せられた布は、もう道具じゃねえ」
クラリスは、その言葉を聞いた。
道具ではなくなる。
置き場所を失うと、価値も扱いも落ちる。
それは布だけではない。
人も、仕事も、同じなのかもしれない。
「雨戻り棚にしましょう」
クラリスは言った。
「名前はどうでもいい」
ガルドは言う。
「戻ってくるならな」
◇
昼前、荷馬車組合の帳場には、すでにグランベルの提案書が置かれていた。
薄い上質紙。
読みやすい文字。
小さな商品絵。
価格表。
まとめ買い割引。
補充日程。
保証条件。
隙が少ない。
クラリスは、一目で分かった。
これは強い。
机の向こうには、年配の男とリサがいた。
若い御者も、少し離れた場所から覗いている。
グランベル側の販売員は、丁寧な笑顔で立っていた。
「雨天備品棚として、こちらを一式でご提案いたします」
販売員は紙を指した。
「軽量荷布、印入り。防水袋。乾燥紐。荷札。持ち出し記録札。初回のみ棚板も無償でお付けします」
無償。
クラリスの胸が小さく鳴った。
年配の男が反応する。
「棚板もか」
「はい。初回導入をしやすくするためです」
販売員は笑顔を崩さない。
「また、追加分は月二回補充に伺います」
早い。
安い。
そろっている。
しかも、棚板は無償。
組合から見れば、かなり魅力的だ。
ノアは提案書を見ていた。
その目に、淡い表示が浮かぶ。
【損益眼】
【提案:雨天備品棚一式】
【短期導入価値:高】
【初期負担:低】
【継続依存度:中〜高】
【無償棚板:回収前提あり】
【置き場支配リスク:高】
ノアは、提案書の端を指で押さえた。
「クラリス様」
「何?」
「この棚板は、無償ではありません」
グランベルの販売員の笑顔が、ほんの少し止まった。
年配の男が眉を寄せる。
「無償と書いてあるぞ」
「銀貨を払わない、という意味では無償です」
ノアは静かに言った。
「ですが、この棚を置けば、補充日、札の形、紐の長さ、袋の大きさがグランベル商会の規格になります。次に別の商品を置く時、その棚に合わないものは置きにくくなる」
若い御者が首をかしげる。
「つまり?」
「棚板の代金は、あとで置き場所で払うことになります」
帳場が静かになった。
悪い商品ではない。
悪い提案とも言い切れない。
だが、無料ではない。
支払いが、銀貨ではないだけだ。
クラリスは、胸の中でその言葉を繰り返した。
後で置き場所で払う。
それは、ノアにしか見えにくい値段だった。
販売員は、すぐに微笑みを戻した。
「規格をそろえることで、使いやすくなるという利点もございます」
「はい」
ノアは頷いた。
「その利点もあります」
否定しない。
だからこそ、重い。
年配の男は提案書を見直した。
リサは黙って棚の図を見ている。
クラリスは、自分たちの粗い紙を取り出した。
「拝見しても?」
「もちろんでございます」
販売員はグランベルの提案書を差し出した。
クラリスは読んだ。
よくできている。
用途も分かりやすい。
価格も抑えられている。
初回導入の心理的負担も軽い。
ラウル・グランベルは、有能だ。
改めてそう思う。
年配の男がクラリスを見る。
「エルネスタ側は?」
クラリスは、自分たちの紙を出した。
グランベルのものに比べると、粗い。
絵も少ない。
価格も未定がある。
見栄えでは負けている。
「こちらは、雨戻り棚の提案です」
若い御者が首をかしげた。
「雨戻り棚?」
「雨の日に使う道具が、使った後に戻ってくる場所です」
クラリスは紙を開いた。
【雨戻り棚・試験案】
【手戻し布:三本】
【返却札:三枚】
【乾き/使用後/修繕待ち:三分類箱】
【置き場管理:リサ確認】
【修繕一回込み】
【価格:未定】
【確認事項:耐用回数/紛失率/修繕頻度/使用者ごとの痛み】
年配の男が眉を寄せる。
「価格未定?」
「はい」
「またか」
「はい」
クラリスは逃げなかった。
「まだ、売る段階ではありません。試す段階です」
グランベルの販売員が柔らかく言う。
「それでは、組合様としては導入判断が難しいのでは」
「その通りです」
クラリスは頷いた。
販売員が一瞬、わずかに目を動かした。
否定されると思っていたのかもしれない。
クラリスは続けた。
「ですから、今日こちらを本導入とは申し上げません。三回だけ試してください」
「三回?」
リサが聞いた。
「雨の日、または濡れた縄を扱う朝に、三回。若い御者、年配の御者、リサさん。三人に使っていただきます」
「私は決まりなんだ」
「嫌でしたか?」
「嫌じゃない」
リサは短く答えた。
「痛いのが直ってるなら」
「直します」
ミリアが言った。
いつもより少し声が前に出ていた。
クラリスは、その声を頼もしく感じた。
年配の男は、腕を組んだ。
「グランベルは、今すぐ棚を入れられる。エルネスタは、三回試せと言う」
「はい」
「普通に考えりゃ、グランベルだな」
「はい」
若い御者が困ったようにクラリスを見る。
クラリスは頷いた。
「そう思います」
「認めるのか」
年配の男が言った。
「はい。今すぐ荷を守る棚なら、グランベル商会の方が整っています」
販売員は、笑顔のままわずかに胸を張った。
だが、クラリスは続けた。
「ただ、手の問題は残ります」
年配の男の目が、少しだけ細くなる。
「荷は濡れにくくなる。防水袋も役に立つ。乾燥紐も必要です。ですが、濡れた縄を結ぶ手、冷えた手、痛む手は、その棚ではまだ戻りません」
リサが、自分の手首を見た。
若い御者も、昨日赤く固まった指をこすった。
クラリスは、グランベルの提案書を指した。
「この棚は、買ったものを並べる棚です」
次に、自分たちの粗い図面を指した。
「こちらは、使ったものが戻る棚です」
年配の男は黙った。
「どちらも必要だと思います」
販売員の笑顔が、わずかに固まった。
クラリスはグランベルを否定しなかった。
否定できない。
荷用としては役に立つ。
ただ、全部ではない。
「ですから、お願いしたいのは、棚の全部ではありません」
「何だ」
「一段だけ、空けてください」
年配の男が眉を上げた。
「一段?」
「はい。グランベル商会の雨天備品棚を入れるとしても、一段だけ、手戻し布の試験用に空けてください」
クラリスは言った。
「その一段で、三回試します。駄目なら引きます。必要なら、その時に価格を出します」
帳場が静かになった。
グランベルの販売員は、すぐに口を開かなかった。
年配の男が、提案書を二つ見比べる。
「一段だけなら、邪魔にはならねえか」
販売員がすぐに棚図を広げた。
「では、こちらの配置でいかがでしょう。上段に軽量荷布と防水袋、中段に乾燥紐と荷札。手戻し布の試験分は、こちらの下段に」
リサが即座に言った。
「そこ、誰も使わない」
販売員の笑顔が少し止まった。
「下段でも、札を付ければ」
「濡れた手でしゃがむの、面倒なんだよ。急いでる時は見ない」
若い御者も頷いた。
「下にあると、たぶん後で取ろうってなります」
年配の男が低く笑った。
「後で取ろうは、だいたい取らねえな」
クラリスは棚図を見た。
一番下の段。
そこに置けば、一段は残る。
だが、使われない。
使われないなら、試験にならない。
ノアの言葉が、胸の奥に残っている。
棚板の代金は、あとで置き場所で払う。
今、支払わされそうになっているのは、まさに置き場所だった。
「使われない場所に置くなら、試験になりません」
クラリスは言った。
販売員は丁寧に微笑む。
「では、どちらを希望されますか」
リサが棚図を指した。
「ここ」
そこは、棚の中央だった。
手を伸ばしやすい。
濡れたままでも取れる。
下を向かなくていい。
若い御者も頷く。
「そこなら使います」
年配の男が販売員を見る。
「空けられるか」
「調整いたします」
販売員は少しだけ間を置いて、答えた。
リサがさらに言う。
「あと、奥にしないで。奥に置いたら、荷布の束に隠れる」
「承知しました」
販売員の声は丁寧だった。
だが、笑顔の奥が少し硬い。
年配の男は机を指で叩いた。
「分かった」
販売員が姿勢を正す。
「では、グランベルの棚を」
「入れる」
年配の男は言った。
クラリスは静かに頷いた。
負けた。
半分は。
だが、年配の男は続けた。
「ただし、中央の一段を空ける。手戻し布の試験用だ」
若い御者が小さく笑った。
リサは何も言わず、手首をさすった。
クラリスは深く息を吸った。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
年配の男は言った。
「三回で使えねえなら、その一段は戻す」
「はい」
「価格も出せ」
「はい」
「高すぎたら買わん」
「はい」
「返事だけはいいな」
クラリスは少しだけ笑った。
「そこは、ノアに似てきたかもしれません」
ノアが横で小さく瞬いた。
◇
組合を出ると、ミリアが大きく息を吐いた。
「一段、残りましたね」
「ええ」
クラリスは頷いた。
「全部は取れなかったけれど」
「全部取られたわけでもありません」
ノアが言った。
「そうね」
空はまだ重い。
雨は今にも降り出しそうだった。
ミリアは箱を抱え直した。
「リサさん、痛いのが直ってるならって言いました」
「ええ」
「直さないと」
その声には、焦りではなく、芯があった。
クラリスはミリアを見る。
「直しましょう」
「はい」
ノアが帳簿を開いた。
「次回までの修正点」
「ノア」
「はい」
「歩きながら書くと、泥にはまるわ」
ノアは足元を見た。
車輪跡の泥が、すぐ横にある。
「危険でした」
「ええ」
ミリアが小さく笑った。
クラリスも少し笑った。
その小さな笑いの後ろで、荷馬車組合の中では、もうグランベルの販売員が棚の位置を測っていた。
早い。
やはり、早い。
だが、手戻し布の一段は残った。
しかも、下段ではない。
中央の一段だ。
その一段を、守らなければならない。
◇
夕方、工房ではガルドが一段分の寸法を聞いて、顔をしかめた。
「狭い」
「はい」
「一段だけ?」
「はい」
「そこに三本、札、返却箱、修繕待ちの場所まで入れる?」
「はい」
「入るか、馬鹿」
ガルドは即座に言った。
ミリアが箱を作業台に置く。
「箱を小さくすれば」
「小さくすると濡れた布が重なる」
「仕切りを斜めにしたら?」
「倒れる」
「吊るす形は?」
ガルドが止まった。
「吊るす?」
「一段の奥に紐を渡して、濡れたものは掛ける。乾いたものは箱。修繕待ちは札だけ別に」
ガルドは黙って、作業台の端材を取った。
指で寸法を測る。
「……できなくはねえ」
ミリアの顔が少し明るくなる。
「本当ですか」
「本当だが、面倒だ」
「でも、一段に入ります」
「入るだけならな。使いやすいかは別だ」
クラリスは言った。
「リサさんに見てもらいましょう」
「またリサか」
ガルドが言う。
「使う人です」
「分かってる」
ガルドは端材を切り始めた。
「一段に負けたくねえな」
小さな声だった。
だが、クラリスには聞こえた。
ノアにも聞こえたらしく、帳簿に書こうとしている。
クラリスはまた止めた。
「それも、書かなくていいわ」
「重要です」
「ええ。でも、ガルドさんに怒られるわ」
ガルドが背中越しに言った。
「もう聞こえてる」
ミリアが笑った。
◇
夜、クラリスは執務室で、一段分の図面を広げていた。
ノアは向かいで、試算を書いている。
【雨戻り棚・一段試験】
【手戻し布:三本】
【吊り紐:一本】
【乾き箱:小】
【返却札:三枚】
【修繕待ち札:一枚】
【確認者:リサ】
【試験回数:三回】
【価格:試験後提示】
クラリスは図面を見た。
「一段だけ」
「はい」
「でも、残った」
「はい」
「今日、半分負けたわね」
「はい」
「でも、全部ではない」
「はい」
クラリスは笑った。
「あなたと話していると、負けたことまで整理されるわ」
「重要です」
「そうね」
窓の外では、雨が降り始めていた。
細い雨だ。
だが、王都南区の荷馬車組合では、今夜も誰かが荷を守っているだろう。
グランベルの棚が入り、荷布と防水袋が並ぶ。
その中央の一段に、まだ未完成の手戻し布が置かれる。
小さい。
狭い。
価格も未定。
それでも、残った場所だ。
「ノア」
「はい」
「棚を取られるというのは、怖いわね」
「はい」
「商品を置く場所を取られると、商品になる前に負ける」
「はい」
「でも、置き場所だけを守っても駄目ね」
「はい」
「そこに戻る理由がないと」
ノアは頷いた。
「戻る理由」
「ええ」
クラリスは図面の一段を指でなぞった。
「リサさんが使って、戻す。若い御者が使って、戻す。年配の方が使って、文句を言う。その文句が、次の修正になる」
「はい」
「なら、この一段は売場ではないわ」
「何ですか」
クラリスは少し考えた。
「約束の場所」
ノアの筆が止まった。
「約束の場所」
「使ったら戻す。戻したら直す。直したら、また使えるか見る。そういう約束」
ノアは帳簿に書いた。
【一段試験:売場ではなく、約束の場所】
クラリスはそれを見て、少し照れたように言った。
「少し大げさかしら」
「いえ」
「帳簿上?」
「いえ」
ノアは静かに答えた。
「かなり、良いと思います」
雨の音が強くなる。
クラリスは、窓の外を見た。
グランベルは棚を取った。
エルネスタは、一段を残した。
その一段が、明日どう扱われるかはまだ分からない。
だが、クラリスはもう、半値札を貼って売り場から逃げた自分ではなかった。
◇
同じ夜。
ラウル・グランベルは、荷馬車組合からの報告を読んでいた。
「一段、残しましたか」
部下が頭を下げる。
「はい。組合長の判断です」
「リサという帳場兼荷運びの女が、配置に口を出したと」
「はい。使うのは自分たちだと」
ラウルは小さく笑った。
「良い現場ですね」
「よろしいのですか」
「よろしいとは言っていません」
ラウルは報告書を置いた。
「棚の大半はこちらが取った。ですが、一段は残った」
「はい」
「その一段で、彼らは現場の声を拾う」
「はい」
「放置すると、そこから棚全体を見直されます」
部下の顔が少しこわばる。
「では、潰しますか」
「露骨にやれば、こちらが嫌われます」
ラウルは地図を見た。
荷馬車組合。
そこに、小さな印をつける。
「次は、補充の速さで圧をかけます。雨の日の翌朝、こちらは必ず棚を整える」
「一段は?」
「触らない」
「触らないのですか」
「ええ」
ラウルは静かに言った。
「触らずに、周りを整える。周りが便利になるほど、あの一段だけが不便に見える」
部下は黙った。
「ただし」
ラウルは少しだけ笑った。
「あの一段が本当に回り始めたら、話は別です」
「その時は?」
「学びます」
ラウルは窓の外の雨を見た。
「一段を守る商売と、棚を埋める商売。どちらが雨の朝に残るか、見せてもらいましょう」
王都南区の雨は、また強くなっていた。
棚は取られた。
一段は残った。
明日の朝、その一段に手が伸びるかどうかで、次の勝負が決まる。




