第12話 高すぎる手
翌朝、ノアが出した試算は、工房の空気を少し止めた。
【手戻し布・第二試作後試算】
【材料費:低】
【端処理:中】
【当て布追加:中】
【紐二種試験:低〜中】
【留め位置調整:中】
【聞き取り対応:中】
【試作工数:中】
【修正工数:中】
【乾燥確認:未確定】
【推奨価格:銅貨九十枚以上】
クラリスは、数字を見つめた。
「銅貨九十枚……」
銀貨一枚には届かない。
だが、ほとんど銀貨一枚だ。
荷馬車組合の御者たちが、手に巻く小さな布に出す金額としては、重い。
ミリアも、紙を見て黙っていた。
ガルドだけが、不機嫌そうに腕を組んでいる。
「高えな」
「はい」
ノアが頷く。
「下げる方法は?」
クラリスが聞いた。
「あります」
「言って」
「当て布を薄くする。紐を一種類にする。聞き取りと修正を省く。試作工数を入れない」
ガルドの眉が跳ねた。
「最後のは駄目だ」
ノアがガルドを見る。
ガルドは唇を曲げた。
「試した分を抜いたら、また誰かがただ働きするだけだろうが」
「はい」
「はいじゃねえ。最初から入れろ」
「入れています」
「ならいい」
クラリスは紙から目を離せなかった。
銅貨九十枚。
高い。
だが、高い理由はある。
痛みを残さないため。
事故を避けるため。
手の大きさに合わせるため。
濡れても使えるか確かめるため。
その全部を入れると、高くなる。
「これを、そのまま売れば届かないわね」
クラリスが言った。
ミリアが小さく頷く。
「御者さんたち、必要だとは思ってくれるかもしれません。でも、すぐ買えるかは……」
「買えない者も多いです」
ノアが言った。
「では、安くする?」
クラリスは自分で言って、すぐに首を振った。
「違うわね。安くする前に、使う人を絞る」
ノアが帳簿に書く。
「対象設定」
「まず、全員に売らない」
ガルドが鼻を鳴らした。
「売る気がねえみたいな言い方だな」
「あります。でも、全員分は無理です」
クラリスは紙を押さえた。
「雨の日に、濡れた縄を何度も扱う人。早朝から荷を下ろす人。手袋が濡れて作業が止まる人。まず、その人たちに絞ります」
「贅沢品にするのか」
ガルドの声は少し低かった。
クラリスはすぐ答えなかった。
贅沢品。
そう見えるかもしれない。
小さな布が銅貨九十枚。
荷運びの手には高すぎる。
「贅沢品にはしたくありません」
クラリスは言った。
「でも、安く見せるために手間を消したくもありません」
ガルドは黙った。
ノアが静かに言う。
「使用回数で説明する方法があります」
「使用回数?」
「一回の寒さを防ぐ布ではなく、雨の日の早朝作業を何度守るかで見る」
クラリスは紙を見る。
「銅貨九十枚を、一回で見るから高い」
「はい」
「十回使えれば、一回銅貨九枚」
「ただし、十回使えるかは未確認です」
「だから、乾燥確認と損耗確認が必要」
「はい」
ミリアが布を手に取った。
「十回もつように作るなら、当て布はもう少ししっかりさせたいです」
ガルドが頷く。
「なら、さらに高くなる」
「はい……」
「だが、十回もつなら話は変わる」
クラリスは、少しだけ息を吸った。
安くするのではない。
使う人を絞る。
使う場面を絞る。
何回使えるかを確かめる。
それで初めて、値段の説明ができる。
「今日は価格を出さない」
クラリスは言った。
「また未定か」
ガルドが言う。
「はい。ただし、逃げの未定ではありません」
ノアが顔を上げた。
「十回使用確認後、価格決定」
「それで書いて」
「はい」
ノアは帳簿に書いた。
【価格:未定】
【理由:耐用回数未確認】
【次回確認:雨天時十回使用想定/最低三回まで先行確認】
【対象:早朝・雨天・縄扱いの多い者】
クラリスは、その文字を見て頷いた。
「高いからこそ、急いで売らない」
ガルドは、少しだけ口元を歪めた。
「面倒な商売だな」
「ええ」
クラリスは布を見る。
「でも、安く見せてあとで痛いと言われるよりはいいわ」
◇
昼前、クラリスたちは荷馬車組合へ向かった。
空は曇っていた。
道には昨日の雨が残り、車輪の跡に水が溜まっている。
荷馬車組合の前では、グランベルの軽量荷布がいくつも使われていた。
数は増えている。
防水袋も、昨日より目立つ。
ラウルの圧は効いていた。
荷は守られている。
それは事実だった。
若い御者が、クラリスに気づいて手を上げる。
「クラリス様、直りました?」
「まだです」
「あ、まだですか」
「はい。価格もまだ出しません」
若い御者は肩を落とした。
「欲しいんですけどね」
「いくらなら買えますか」
クラリスが聞くと、若い御者はすぐには答えなかった。
「安い方がいいです」
「それはそうね」
「でも、すぐ破れるなら嫌です」
年配の男が横から言う。
「銅貨二十枚なら買う。三十枚なら迷う。五十枚なら、組合で買うか相談だ」
クラリスはその言葉を受け止めた。
銅貨二十枚。
三十枚。
五十枚。
試算とは、遠い。
「銅貨九十枚だと言ったら?」
若い御者が目を丸くした。
「小さい布ですよね?」
「はい」
「高いです」
「ええ」
クラリスは頷いた。
「だから、今日は売りません」
年配の男が腕を組む。
「高すぎるから逃げたのか」
「いいえ」
クラリスは箱を開けた。
中には、修正途中の手戻し布が入っている。
「高い理由を、まだ説明できないからです」
若い御者が首を傾げる。
「理由?」
「何回使えるのか。どこが痛むのか。濡れた後、どれくらいで乾くのか。それが分からないまま銅貨九十枚とは言えません」
リサが近づいてきた。
「九十枚」
短く言った。
「高いね」
「はい」
「でも、昨日のやつが痛くなくなって、何回も使えるなら、組合で買う話にはなると思う」
若い御者がリサを見る。
「本当に?」
「個人で買うには高い。組合で雨の日用に置くなら別」
クラリスは目を上げた。
組合で買う。
個人向けではなく、組合備品。
ノアが帳簿に書く。
個人販売ではなく、組合備品案。
年配の男が眉を寄せた。
「勝手に決めるな」
「決めてない」
リサは言った。
「でも、手が動かなくなって荷が遅れるなら、組合の損でしょう」
年配の男は黙った。
若い御者も、手を見た。
「俺が買うのはきついです。でも、組合に置いてあるなら使いたい」
クラリスは、胸の奥が少し動くのを感じた。
売る相手を間違えていた。
手戻し布は、御者個人が買う布ではないのかもしれない。
組合が、雨の日の作業を止めないために置く布。
それなら、銅貨九十枚の意味が変わる。
「ノア」
「はい」
「個人向けではなく、組合備品として試算し直して」
「はい」
「ただし、個人が買える小型版も後で考える」
「はい」
年配の男が大きく息を吐いた。
「まだ買うとは言ってねえぞ」
「はい。まだ売っていません」
「面倒くせえな、お前らは」
リサが肩をすくめた。
「でも、話は昨日よりましです」
若い御者が笑った。
「たしかに」
クラリスは、リサを見る。
「リサさん」
「はい」
「昨日の試用品、もう一度見せてもらえますか。痛かった場所を、ミリアに確認させたいんです」
「いいですよ」
リサは自分の手首を出した。
まだ少し赤い。
ミリアがそっと近づく。
「痛みは、昨日より引きましたか」
「少し」
「赤みはここだけですか」
「ここと、ここ。力を入れると擦れる」
ミリアは真剣に頷いた。
「次は、そこに当て布を入れます」
「厚くしすぎると邪魔だよ」
「はい。たぶん、薄くて柔らかい布を内側だけに」
「たぶんじゃなくて、試して」
リサは遠慮なく言った。
ミリアは一瞬だけ目を丸くし、それから頷いた。
「はい。試します」
クラリスはそのやり取りを見ていた。
昨日よりも、ミリアの返事が少しだけ強い。
リサの言葉も遠慮がない。
その方がいい。
使う人と作る人が、まっすぐ話している。
◇
その時、荷馬車組合の入口に、グランベルの販売員が現れた。
手には、印のついた軽量荷布を持っている。
「昨日のご意見を受けて、持つ場所に印を入れました」
早い。
クラリスは思わず布を見る。
角に、小さな青い縫い印がある。
丸印ではない。
斜めに入った短い線。
グランベルの布だと分かる印でもある。
年配の男が布を受け取った。
「ほう」
若い御者が持ち上げる。
「分かりやすいですね」
「ありがとうございます」
販売員は笑顔で言った。
「印のある場所を持てば、端が傷みにくくなります」
ノアはその場で帳簿に書いた。
グランベル、持ち位置印導入。
改善速度、高。
クラリスも見ていた。
悔しい。
だが、悪い改善ではない。
むしろ、良い。
現場の声を聞き、すぐ直した。
クラリスたちがやっていることと、方向は同じだ。
ただ、速い。
販売員は続けた。
「本日追加分は、印入りで同じ価格です」
御者たちが少し動く。
同じ価格。
改善して、値段は据え置き。
それは強い。
クラリスは胸の中で小さく息を吐いた。
ラウルは、手を緩めない。
こちらが手戻し布の価格を決められずにいる間に、荷用布の満足度を上げてくる。
ノアが小さく言った。
「圧が増えています」
「ええ」
「どうしますか」
クラリスは、グランベルの印入り布を見た。
それから、リサの赤い手首を見た。
「今日は、逃げない」
ノアが顔を向ける。
クラリスは年配の男に向き直った。
「手戻し布は、まだ売れません。でも、試用品の改良は続けます」
「それは聞いた」
「その上で、一つお願いがあります」
「何だ」
「次の雨の日、組合の備品として使う想定で、三人分を試させてください。個人の持ち物としてではなく、組合の道具として」
年配の男は目を細めた。
「壊したら?」
「こちらで確認します」
「汚したら?」
「それも確認します」
「盗まれたら?」
クラリスは一瞬止まった。
ノアが答える。
「置き場と返却札が必要です」
クラリスは頷いた。
「それも含めて試します」
リサが言った。
「置き場がないと、たぶん消えるよ」
若い御者も頷く。
「誰かが持って帰るかも」
年配の男は腕を組む。
「信用ねえな、うちは」
「ありますよ」
リサが言った。
「でも、忙しいと雑になるだけです」
年配の男は少しだけ笑った。
「それはそうだ」
クラリスは言った。
「では、置き場も含めて作ります。布だけではなく、戻す場所も」
ノアが帳簿に書く。
組合備品案。
返却札。
置き場。
雨天時貸出。
クラリスは、その文字を見た。
高いなら、売り方を変える。
個人に売れないなら、使われる場所を変える。
半値にはしない。
理由をつけて、置き場所を探す。
◇
夕方、工房へ戻ると、ガルドは話を聞いて少しだけ嫌な顔をした。
「備品?」
「はい。個人向けでは高すぎました」
「そりゃそうだ」
「組合で雨の日に使う道具として置けないか、試します」
「また置き場か」
ガルドは腕を組む。
「布だけ作って終わりじゃねえんだな」
「はい」
「札も箱もいる」
「はい」
「戻ってくる前提で作るなら、汚れも見る」
「はい」
「……面倒だな」
ミリアが言った。
「でも、戻ってくるなら直せます」
ガルドがミリアを見る。
「戻ってこなかったら?」
「置き場を変えます」
「壊れたら?」
「どこが壊れたか見ます」
「誰かが勝手に持って帰ったら?」
ミリアは少し考えた。
「……持って帰りたくなるくらい必要だった、ということですか?」
ガルドは一瞬黙った。
それから、短く笑った。
「お前、変な見方をするようになったな」
「すみません」
「謝るな。悪くねえ」
クラリスは、ミリアを見た。
ガルドに褒められたミリアは、少し戸惑っていた。
だが、嬉しそうでもあった。
ノアが帳簿に書こうとした。
クラリスがそれを止める。
「それは書かなくていいわ」
「重要です」
「分かっているけれど」
クラリスは小さく笑った。
「これは、工房の中に残しておきましょう」
ノアは少し考えて、筆を置いた。
「分かりました」
◇
夜。
執務室には、二つの試算が並んでいた。
一つは個人向け。
一つは組合備品向け。
【手戻し布・個人向け】
【推定価格:銅貨九十枚以上】
【課題:高価格/個人負担大】
【手戻し布・組合備品向け】
【本体三本】
【返却札三枚】
【置き場箱一つ】
【修繕一回込み】
【価格:未定】
【確認事項:耐用回数/紛失率/修繕頻度】
クラリスは、二つの紙を見比べた。
「高いものを、誰に買わせるか」
「はい」
「それだけで、見え方が変わるのね」
「はい」
「個人には高すぎる。でも、組合が雨の日の遅れを減らすために買うなら、意味が変わる」
「はい」
「これが、売り方を変えるということ?」
ノアは少しだけ考えた。
「一部です」
「一部」
「はい。まだ価格が出ていません」
「厳しいわね」
「はい」
クラリスは苦笑した。
だが、以前ほど数字が怖くはなかった。
怖い。
それは変わらない。
でも、数字がただ自分を責めるだけのものではないと、少しずつ分かってきた。
数字は、どこに置くかを教えてくれる。
誰に売るか。
誰が払うか。
誰が使うか。
誰が戻すか。
それを間違えれば、良いものでも届かない。
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのは、屋敷の侍女だった。
「クラリス様。お父上が、少しお目覚めです」
「お父様が?」
「はい。帳簿の件で、少しお話があると」
クラリスはノアを見る。
ノアも立ち上がった。
◇
アルベルトの寝室は、夜の薬草の匂いが濃かった。
枕元には、古い帳簿が開かれている。
クラリスが近づくと、父は薄く目を開けた。
「荷馬車組合へ行ったそうだな」
「はい」
「手を見たか」
クラリスは驚いた。
「ご存じだったのですか」
「昔、見落とした」
父はゆっくりと言った。
「私は、肩冷えと荷濡れまでは見た。だが、手は後回しにした」
クラリスは何も言えなかった。
「手袋は高い。布を巻くと外れる。革は濡れる。面倒でな」
父は苦く笑った。
「そのままにした」
「お父様」
「責めているのではない。私も、全部は見えていなかったという話だ」
クラリスは古い帳簿を見る。
父の字。
馬丁、手袋濡れ。
確かに書かれている。
だが、それ以上は深く追われていない。
父もまた、途中までだった。
「クラリス」
「はい」
「私の帳簿を、完成したものだと思うな」
父は息を吸った。
「古い顔は、今の答えではない。入口だ」
クラリスの胸に、その言葉が落ちた。
入口。
父の帳簿は、地図だった。
だが、地図の先を歩くのは自分だ。
「はい」
「私が見落とした手を、お前が見るなら、それでいい」
父はノアを見た。
「値付け士殿」
「はい」
「高くなるだろう」
「はい」
「安く見せるな」
「はい」
「だが、届かぬ値にするな」
ノアは少しだけ黙った。
「難しいです」
父はかすかに笑った。
「だから商売なのだろう」
クラリスは、父の手を見た。
痩せた手。
昔、帳簿を書き、馬車宿へ行き、怒られ、布を納めた手。
その手も、今は震えている。
「お父様」
「何だ」
「私は、父の帳簿を継ぐのではなく、続きを書きます」
父は目を細めた。
「そうしろ」
短い言葉だった。
だが、十分だった。
◇
その夜、王都南区では、グランベル商会の販売員が支店へ戻っていた。
報告を受けたラウルは、静かに頷いた。
「組合備品ですか」
「はい。エルネスタ側は、個人販売ではなく組合備品として考え始めたようです」
「良い逃げ方ですね」
「逃げ、ですか」
「褒めています」
ラウルは地図を見る。
荷馬車組合。
馬車宿。
夜番詰所。
救護所。
点が増えている。
「高いものを個人に売らず、組織に置く。使う場所を固定し、説明と修繕を含める。ノア・レインズらしい」
「対抗しますか」
「すぐにはしません」
部下は意外そうにした。
「よろしいのですか」
「手用は事故が怖い。粗く入れば、こちらの信用が落ちます」
ラウルは机を指で叩いた。
「ただし、周辺を取ります」
「周辺?」
「防水袋、荷布、乾燥紐、荷札。手戻し布そのものではなく、組合の雨天備品棚をこちらの商品で埋めます」
部下が息を呑む。
「棚を取るのですか」
「ええ」
ラウルは笑った。
「彼らが一本の布を丁寧に作る間に、私はその布が置かれる棚を取りに行く」
窓の外では、雨が細く降っている。
ラウルは王都南区の方角を見た。
「価値を守るなら、置き場所も守らなければならない」
静かな声だった。
「明日、雨天備品棚の提案書を作ります」
部下が深く頭を下げた。
エルネスタが見ているのは、濡れた手。
グランベルが見ているのは、その布が置かれる棚。
雨はまだ、止まなかった。




